第1話 邂逅

 窓から差し込む朝日が、少年の目覚まし時計だった。

 カーテンの隙間から零れ落ちる光の筋が、少年の薄い瞼をくすぐる。顔の隅々を行ったり来たりするそれに、少年はしばらくむずがって抵抗していたのだが、やがて諦めたようにゆるりと瞼を開いた。

 焦点の合わない薄花色の瞳が、揺れるカーテンの軌跡を追う。

 何往復も瞳を巡らせて、ようやっと覚醒に至ったようで、少年は勢いよく上体を起こした。そのままベッドに膝立ちになってカーテンを思い切り引くと、滑りの悪い格子窓を力任せに押し上げた。

 開ききった窓から穏やかな風が吹き込むと同時に、優しく澄んだ水音が、不規則に少年の鼓膜を震わせた。

 少年の瞳の先にあるのは、街を横断するように流れる大きな水路。少年の部屋から見えるそこには、魚の鱗の輝きまで分かる程に澄んだ水が揺蕩っている。その柔らかな波のささやきに、少年は目を細めて見入っているようだった。

「アスール」

 扉の向こうから優しい女の声が、少年を呼んだ。

「母さん」

 少年―アスールの母は、再度息子の部屋のドアを叩くと、朝餉の用意ができていることを伝えた。

「今行くよ」

 そう叫ぶとアスールはベッドから飛び降り、クローゼットを開けた。パジャマを脱ぎ捨てて灰色のズボンに手を伸ばしたのだが、ふと何かを思い出したようで、その手を引っ込めた。代わりに、黒いシャツを手に取り、オーバーオールを着ると、素早く身なりを整えた。

 最後に寝癖を軽く直すやいなや、アスールは飛ぶようにドアの向こうへと駆けた。トタトタと階段を降りリビングへと向かうと、焼けたパンの香ばしい匂いがアスールの鼻をくすぐる。

「遅いよ。お兄ちゃん」

 文句を言うのは、アスールの四つ下の妹だ。

「どうせまたずっと外を見てたんでしょ」

 遅刻の原因などお見通しだと、幼い彼女は唇を尖らせながら兄の行動を咎める。それに対して兄が弁解するのはもはや朝の日課となっていることだった。飽きることのない兄妹の問答を聞きながら、二人の父は配達鳥シュライフェンが運んできた日報ツァイトの文字を目で追っていた。言い合いを止めるつもりのない夫にコーヒーを差し出しながら、妻はため息をつく。

「ほら、二人とも。さっさと食べておしまい。アスール、今日は練習日なんだろう。ローゼ、お前も今日はリヴァさんのところで勉強をする約束だろう。早くしないと遅れちまうよ」

 母親は呆れながら、細い指で壁にかけられた石時計クォーツを指し示した。その短針を見ると、兄妹は飛び上がりながら朝食を口の中へとかき込んだ。口一杯にパンを詰め込みながら皿を流し台に置くと、それぞれの部屋へと走る。二人が荷物をかき集めて、玄関へ向かうのはちょうど同じタイミングだった。

「いってきます」

 騒々しい足音を響かせながら兄妹は、勢い良くドアの向こうへ飛び出した。



 道中、ジェミニの工場で修理したての相棒を背負い、アスールは海沿いに立つ灯台へと向かった。街で最も高いその場所は、夜の道しるべになるだけでなく、日中は漁師たちが天候を読むためにも使われている。

 灯台の中は、隙間なく敷き詰められた煉瓦のせいで日中でさえ薄暗い。扉の無いアーチ型の入り口を潜ると、籠ったようなすえた匂いがアスールの鼻孔を満たした。外気より幾分肌寒いそこは、薄暗さも相まって、どことなく不気味な雰囲気を醸し出していた。しかし、行き慣れたアスールにとってその不気味さはむしろ心地好い静けさであり、安らげる空間でもあった。螺旋状になっている階段を慎重に上りながら、アスールは考える。

(このまま、空のさらに上まで続いていれば、)

 静寂の中、脳裏に浮かんでは消える雑然とした思考は、アスールの胸に妙なしこりをもたらした。

 それはともすれば据わりの悪いような、居心地悪いような違和感。

 その正体が明瞭な輪郭をもって姿を現す前に、アスールは小さな頭を左右に振って、階段を一気に駆け上がった。肩で息をしながら最後の一段を上りきると、アスールはその勢いのまま目の前にある重厚な扉を、身体をぶつけるように押し開いた。

 一瞬、アスールの眼前が白に染まった。

 あまりの眩しさに、アスールは思わず目を細めたが、やがて光に順応した視界には、見慣れた街の風景が浮かび上がってきた。

 入り組んだ水路があちこちに張り巡らされた街中を、客を乗せたカヌーが忙しなく行き来している。港では、商人たちの収穫物を吟味しようと、町の女たちが集まっている。

 小さいながらも活気のある街を飽きることなく眺めていたアスールだったが、頬に感じる風に違和を覚え、東の方角へと目を向けた。鼠色の分厚い雲がゆっくりとこちらへ向かってくるのが見える。

「もう少ししたら降るかもしれないな」

 しかし、先程感じた違和感は雨のせいだけではないと、アスールは直感していた。

アスールはしばし瞳を彷徨わせたが、展望台に設置された梯子に足をかけると、灯台の天辺へと上った。街の西側へ身体を向けて高台の縁に立つと、アスールは背中に負った黒光りする鋼鉄の塊を一撫でした。それは逆三角形のような形をしており、底辺の部分はアスールの肩幅を少しはみ出すくらいの大きさで、亀の甲羅のようにアスールの背を包んでいる。ジェミニの工場で受け取った相棒の試運転のつもりであったが、あの風の中を飛ぶとなるとまた工場へと逆戻りになる可能性も否めない。

「無理させるかもしれないけど、ごめんな」

 アスールはそう呟くと、慣れた手つきで装備を整え始めた。耳垂れの付いた帽子を被り、その上から顔の半分を覆うゴーグルを着ける。黒革手袋を嵌め、背負った「甲羅」の側面からベルトを引っ張り出して腹の前で固定すると、アスールは「甲羅」の付け根、背中に直に密着させていた場所に取り付けられたスイッチを押した。

 ばさり、と空気を切る音ともに「甲羅」が勢いよく開いた。

 次の瞬間、少年の薄い背にあったのは、文字通り「鋼の翼」であった。弾力性のある金属でできたそれは、鈍い光を反射しながら、アスールに「手綱」を寄越した。

 瞳を閉じ、翼の付け根から延びる手綱をしっかりと握る。

 頬を撫ぜる湿り気を帯びた風。

―来る。

 刹那、アスールは高台から上体を傾けて身を投げた。身体を水面と並行にし、顔に叩き付けられる風圧に耐えながら、両手に持った手綱を操る。

 迫りくる潮風を、硬質な翼が捕らえた。

 海から街の壁へと叩きつけられる潮風は、身の行き場をなくすように一瞬だけ舞い上がろうと上昇する。その力を利用して上体を浮かせると、エンジンを思い切り吹かして、天高く飛び上がった。姿勢を安定させていると、自分を呼ぶ声が聞こえた。下を見ると妹のローゼが満面の笑みでこちらに手を振っている。アスールは、それに笑みを返すと、右半身の少しだけ傾けてゆっくりと旋回した。

 進路は東。慎重に風に身を任せながら、違和感の根本へと近づく。風以外の少しすえた空気が鼻をくすぐった。目を凝らすと一隻の小型飛行機が煙を上げているのが見えた。

(あれは…)

 素早く手綱を引き、飛行機へと近づく。よく見れば操縦席にはまだ人が乗っている。白い煙を吐き出しながら高度を落とし、徐々に頭を下げていく飛行機。このままでは水面へ頭から飛び込んでしまうことは明らかだった。アスールは手綱を操りながら機体と並走すると、操縦士に向かって力一杯叫んだ。

「機体を上げて!」

 操縦士はアスールの叫びに気付いた様子が無い。それでも、アスールは諦めること無く何度も叫ぶ。

「機体を上げて!」

 己の存在に気付き、操縦士が目を見開くのが見えた。それを認めたアスールはもう一度、操縦士に向かって呼びかけた。

「機体を上げて!早く!」

 肺一杯に空気を吸い込んで叫ぶが残念ながらその声は、分厚いガラスに遮られ操縦士の耳には届かない。何もかもを飲み込む群青が眼前に迫っている。


 ♢


(あれは、旧式ヒルンド。馬鹿が。パンツァーも何も無い状態のままこの速さで飛ぶ気か。自殺行為だ)

 操縦士は、白煙の切れ目から何事か叫びながら、背中に鈍色の硬質な飛行装置を背負う少年を冷ややかに見つめた。煌めく水面が迫りくる状況で、それでも並走を止めようとしない少年に、操縦士は仕方なくボイスオーバーに切り替え、叫ぶ。

『止めろ。付いてくるな。この機はいずれ墜ちるぞ』

 少年は幼さの残る目元をいっぱいに開いた。

『機体を上げれば何とかなる』

 まだ声変わりしたばかりの掠れた声が操縦士の耳に届くが、彼は薄らと笑みを浮かべるだけだった。

『それは何度もやった。どうやら機嫌を損ねちまったらしい』

 先程から押しても引いてもびくともしない操縦桿を憎々しげに見遣る。

『このままでは巻き込まれるぞ。離れろ』

 再度少年に警告を重ねるが、そうこうしている間にも飛行機の頭は大きく傾いていく。

『翼の上部から排煙してる。パワーダウンさせて最小限の力で飛ばせば機体は持ち上がるはずだ』

 少年のその叫びは操縦士にとって青天の霹靂だった。操縦室からは、煙が出ていることは分かっても、煙の出所や機体の状態を把握することはできなかったのだ。

(なるほど。道理でかんが持ち上がらないはずだ)

 まだ機嫌を損ねたわけではないことが分かった操縦士は、先程とは違う種類の笑みを浮かべながら、素早くスイッチを切り替えた。パワーダウンした機体は、幾らか失速するも未だに自身の重みのままに落下しようと試みている。しかし、同時に翼への負荷が軽減し、操縦が利くようになったようで、ほぼ下を向いていた機首を、どうにか水面と並行にさせることができた。

 だが、未だに機内のアラートは消えない。操縦が利くとはいえ、未だに着陸用のハッチは開く気配がなく、速度もこれ以上落ちない。むしろ、強い横風により機体が不安定に揺れ始めた。このままでは機体の腹部が水面に叩き付けられ、大破するだろう。

(くそ。ここまでか)

 外にいる少年も異常に気が付いたのか、険しい顔をしている。仕方なく操縦士はもう一度少年に声をかけた。

『少年。助けは感謝するが水面に叩き付けられる前に、早く離れろ』

 その言葉に、少年の表情が凍り付いたような気がした。

(目の前で人ひとりが死のうとしているのだから、当たり前か)

 操縦士は、同情したような視線を少年に送った。それは、自身の死に目に付き合わせてしまった者への罪悪感と悲哀を多分に含んだものだった。

『操縦を、ヴィントに切り替えて』

 静かながらも、どこか威圧を含んだ声が、操縦席に響いた。

 操縦士は信じられない面持ちで、少年をまじまじと見た。幼さを多分に含んだ表情に似つかわしくない、燃え盛る「青」の炎が、操縦士の諦念を照らし出した。薄花色の瞳に浮かぶその感情を、操縦士は理解することができなかった。

(なぜ、)

 もはや死を覚悟した人間さえも揺さぶる熱量。

 眩いばかりの光を放つ純度の高いターコイズ。

 それに射抜かれながらも、操縦士は彼の矜持を保とうと、少年に声をかけた。

『この状態で機体をヴィントに切り替えてもさほど意味は無い。第一に、ヴィント飛行に無くてはならない要素が今は欠けている』

 操縦士の優しく語って聞かせる声に反して、少年は緊張した面持ちで言葉を続ける。

『風は、僕が読む』

 顔を強張らせながらもその視線は真っ直ぐに操縦士を射抜いている。少年の顔は本気だった。本気で操縦士を助けようとする顔であった。そして同時に、指示に従わなければ共に落水する覚悟をも抱いている顔であった。大きな不安と抱えきれない恐怖が心と身体を支配しているだろうに、それを自身の意志で押し殺す少年の姿は、不格好ながらも操縦士に決断をさせるには十分なものだった。

(仕方ない。預けてみるか)

 震える幼い子どもを道連れにするのは寝覚めが悪い。操縦士はひとりごちると、すぐに行動を開始した。エーアテールからヴィントへと切り替える。高度、速度を素早く確認し、機体を安定させる。操縦桿を握る掌に神経を集中させ、姿勢を正し真っ直ぐガラスの向こうに目を凝らす。少年の声に耳を傾けながら、飛行機と一体となり進む彼の姿は、正しく操縦士のそれであった。


 ♢


「旋回南東25度」

 白い水蒸気が悲鳴を上げながら、かろうじてバランスを保つ飛行機に、アスールは静かに声をかける。向かい風へと変化し、嵐のおかげで力を増した風に感謝しながら飛行機を港まで導いた。

『少年。着陸用のハッチは開かないぞ』

 操縦士の声が聞こえる。しかし、アスールにはそれに答える余裕が無かった。全神経を風に集中させながら飛ぶなど、今までほとんど行ったことが無かったからだ。しかも、人の命を預かっている。その負荷がアスールの心身を擦り減らしていく。

(もう少しだ)

 徐々に港が近づいてくる。一番船の少ない場所を見極め、そこへ向かう様、アスールは指示を出す。見知った顔が何人か見え、アスールの胸に安堵の火が灯ったその瞬間。

 風が波立った。

 実体のない荒くれ者が手綱を奪い取ろうと、幼い身体を振り回す。アスールは手綱を全力で引くことで体勢を持ち直したが、飛行機はそうはいかなかった。先程よりも不安定な体勢で、ゆっくりと降下する機体。アスールは思わず舌打ちをしそうになりながらも、素早く状況を確認し操縦士に叫んだ。

「頭を持ち上げて!5度でいいから!」

 アスールの意図を正しく汲み取った操縦士がゆっくりと機体の頭を持ち上げる。いくつかの部品を飛ばしながらも、そのまま機体の腹を水面に押しつけ、ゆっくりと飛行機は港へと入っていった。その様子に安心したアスールは、自身もまた降下しようと手綱を握りしめた。

 ようやっと緊張から解放された操縦士、は機内から風に乗りながら徐々に降下する少年を見つめた。ゆらゆらと不安定に見えるが、上手く風の道を辿る姿に、操縦士は無意識に溜息を吐いていた。無事に着地した少年を認め、自身もハッチを開け少年に礼を言う。

「助かったよ、少年。君は命の恩人だ」

 幼い顔に無邪気な笑みを浮かべた少年は、操縦士を真っ直ぐに見つめながら答える。

「僕はアスール。あなたが無事で良かった。でも、なぜあんなことに?」

 不思議そうな顔をしたアスールに操縦士は苦笑いした。

「寿命だろうよ」

 操縦士の答えになおも不思議そうな顔をするアスールを横目に、操縦士は疑問を口にする。

「すまないが、この街の名前を教えてくれないか」

 操縦士は見慣れぬ街並みに目を細めた。

「ここはワートゥル。水路に囲まれた街だよ」

 やはり聞き慣れない名前に顔をしかめながら、操縦士は胸ポケットから煙草を取り出した。愛用のジッポで煙草を燃やし、何事か考え込みながら煙を吸う。東の空を見ると先程よりも分厚くなった錫色がこちらへ向かってきているのがわかった。このままでは嵐になることを悟った操縦士は、これからこの街でどうするべきかを考えていた。しかし、その思考はアスールの声に遮られる。

「もうすぐ嵐が来るけれども、泊まる所はあるの?」

「いや、残念ながらこれから探す所だ。アスール、良い所を知らないか?」

 心底困った顔でアスールを見つめる操縦士に、名案を思い付いたという顔でアスールは自身の家に泊まればいい、と提案する。

「外からの人なんて久しぶりなんだ。いろんな話しを聞かせておくれよ」

 少年の無邪気な笑みにつられ、操縦士もゆったりと口端を上げながら宿を探す手間が省けるならば構わない、とその提案を受け入れる。操縦士のその言葉に喜色を浮かべながらアスールは飛び跳ねるように機体へと近づいていく。

「やったね。それじゃあ、まずは機体の停泊許可をとろう。それはあっちの白い小屋でできるよ。嵐が来ちゃうから、機体を包むことも忘れないようにしなきゃね。それから、母さんと父さんにも伝えなきゃ。あ、修理をしたいのならジェミニに頼むと良いよ。少し偏屈だけど、とっても腕がいいんだ。明日紹介するよ」

 立て板に水を流したかのように次から次へと言葉を重ねる少年に目を白黒させながら操縦士は話を遮る。

「そういっぺんに言わないでくれ。順番にいこうじゃないか」

 アスールはきょとん、と幼い顔を余計に幼くしながら操縦士を凝視したが、操縦士の言葉に納得したらしく、一つ大きく頷くと口を開いた。

「そうだね。それじゃあ操縦士さん。まずはあなたの名前から教えてよ」

 操縦士は煙草の煙を吐き出し、機体から降りて少年の目の前に立つ。

「俺はヴェルメリオ。ただのしがない旅行者だ」

 ヴェルメリオと名乗った男は優しげに目を細め、アスールに手を差し出す。アスールもそれを握り返しながら歓迎の言葉を口にした。

 東の空からは、相変わらず嵐を予感させる分厚い雲が近づいている。徐々に激しさを増す波は、港に停泊している船やカヌーをゆらゆらと揺らした。横殴りに吹きすさび始めた生暖かい湿り気を帯びた風が、少年と青年の頬をなで上げた。

 容赦のない風の雄叫びの中、どこかで、かちり、と石時計クォーツの音が鳴り響いた。

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