(七)

 まだあかるかったが、日がかげりはじめていて、東屋につづく小道は、木立ちの影でおおわれていた。待合せ時間よりもはやくついたのに、もう彼方がいて、東屋の壁に背をもたせて腕を組み、待ちぼうけでもくらったように足元の地面を眺めていた。春香は声をかけた。


 「はやかったわね、私もいま着いたばかりよ!」

 と、彼方は答えた。


 春香は彼女があんまり嘘が下手なので笑ってしまいそうになった。春香は持ってきたお茶とクッキーを見せて、2人で東屋の長椅子にならんでこしかけて食べた。


 春香が持ってきたサオリ人形に彼方はかんたんに清めをすますと、彼女は髪飾りを外して、春香に渡した。自分が合図をするまで春香はこの東屋で待っていてほしい、自分が合図をしたら、人形と髪飾りをもってきて、渡してほしい。彼方はそう言った。


 そして、彼女は首吊りの木まで1人で歩いていった。


 どの木が噂の木であるのか、遠くから見ていた春香にもすぐにわかった。青々と葉を茂らせたそれは、一見して異様だったからだ。

 幹や枝をつつむ樹皮がぶあついことや、空に向かって伸ばされた枝が五本の指のように生々しくひろがっていることは、たしかに威圧的ではあった。けれども、曲々しいのはそれだけではない。その枝や幹には数々の大きなこぶができ、しかもそれらはどれも蝋の滴のように、下へと垂れさがっているのだ。

 もちろん、じっさいはどの滴も木をはなれず、垂れて落ちることなく止まっている。おかげでそれはなにか得体の知れない大きな生き物が、どろどろと溶けて崩れて死ぬ瞬間の像のようだった。


 東条はこんな気味の悪いものを願いがかなう祈りの木なんて呼んでいたのだ! 木がこんな姿になってしまったのは、やはり自殺した女の子の呪いなんじゃないだろうか? 一瞬、そんな疑問が春香の頭をよぎった。


 彼方は、木にたどりつくと、身をくっつけて真正面から抱きついた。まるで恋人のように。春香は、いまにもなにかが起こるんじゃないかと身構えた。人形をにぎる指に力がこもった。


 そして、そのまま彼女たちは待った。


 公園のどこか離れたところで、だれか男の子同士が呼びかけあっている声がきこえた。たぶん木立ちをはさんで向かいのアスレチックがあるほうだ。彼らがなにを言っているのかはわからない。春香は耳をすませてみた。

 が、やっぱりなにを言っているのかわからなかった。そうしていると、こんどは春香がまっている東屋の前を、幼稚園児くらいの小さな子をつれたお母さんが横切って行った。その姿が消えると、また遠くで子どもの声が聞こえた。


 彼方に目を戻すと、あいかわらず木にくっついたままだ。動く気配はなかった。彼方が抱きついてからどれくらい経ったのかわからないが、10分は経っているような気がした。春香は、前もってどれくらい待つことになるのか、前もって聞いていなかったことを後悔した。このまま1時間も2時間も待ちぼうけを食らわされたらどうしよう?


 それに、1人とりのこされたおかげで、まただんだんと気持ちが冷えてきた。

 けっきょく、いま自分はなにをしているのだろう?

 たぶん、おままごとだ。小6にもなっておままごとをしている。彼方さんは違うと言うかもしれないけれども、ほかの人はそうは思わない。ほかの人というのは、まず私、それから公園で私たちを見ている人、見るかもしれない人、私たちの話を聞くかもしれない人、つまり彼方さん以外のすべての人だ。

 彼女だけが1人向こう側にいて、私はこっち側にいる。


 待つのに飽きて、春香がいいかげん彼方に声をかけようか迷っているときだった。日がかたむいて、影がずっと長くのびた。急に西の空が赤くなった。どこからともなくチャイムの音がひびいてきた。


 ずっと身動きしなかった彼方が幹から身を離すと、ふらふらと数歩はなれた。

 彼女は虚空を見つめてなにか話しはじめた。

 身ぶり手ぶりをまじえながら呼びかけては応えているが、なにを言っているのか、離れている春香にはわからない。ほとんど後ろ姿しか見えなかったけれども、彼方の剣幕ははげしかった。なにも知らない人が見たなら、演劇の練習でもしているみたいに見えただろう。


 そのとき、彼方は手で水平に空をきった。

 それは事前に決めていた合図だった。


 春香は動けなかった。

 遠くから見る彼方の様子はいかにもおかしくて、春香にあらためて自分のやってることを疑わせたからだ。


 春香がとまどっているあいだに、彼方の様子はさらに変わった。彼女はもう話していない。咳きこんんだときみたいに前のめりになり、片手で幹につかまった。見るからに苦しそうだ。

 彼女はこんどははっきりと春香のほうを向き、もう1度手で空を切った。彼方の顔は紅潮し、その視線はするどかった。そのことはかえって春香をおびえさせ、彼女の脚を釘づけにしてしまった。


 と、彼方は急に青くなって、両手で身を抱えるようにした。一瞬ふるえたかと思うと、その場でたおれた。そのまま動かなくなった。


 自分の手には負えない!

 なにかとんでもないことが起ころうとしている!

 春香はそう感じた。


 心ではもう動かなくていい理由を探しはじめていた。人形がなくなってしまったら、やっぱり親たちは気づくかもしれない、といまさらのように思いめぐらした。父はサオリの人形を気に入っていたし、これを渡しに行くのはやめたほうがいい。オバケの供養に使ったなんて言ったら、父はなんと言うだろう? そう考えてすぐさま打ち消した。いまそんなことを考えている場合じゃないのはあきらかだった。


 ふと、自分以外のだれかが彼方を見つけて救急車を呼んでくれるかもしれないと思ってまわりを見渡したが、だれもいなかった。もしかして、このまま、彼方は死んでしまうのだろうか? オバケに呪われて? 木なんか抱きしめたって、なにも起こらないはずなのに? 


 自分はなにも悪くない。

 春香はそう思った。

 自分は彼女に言われて、人形を持ってきただけだ。ほかになにもしてない。彼女のことを信じるとも言ってないんだ! 彼女が自分をどう思っていたとしても。だから、もしいま逃げ出したとしても、自分はなにも悪くないはずだ。春香はいまではこの場所にいること自体がこわかった。

 そして、駆けだした。

 彼方のほうへ。


 いまでは彼女の肌はほとんど鉛色で、半身を下に横になっていたが、春香がやってくるととび起きて、さしだされた人形と髪飾りをうばいとった。


 彼女はほとんど暴力的に人形を木の幹に押しつけた。爪が身にくいこんでいる。そのまま、もう片方の手で器用に自分の頭に髪飾りをつけると、しばらくあいだ繰り返し真言をとなえていた。彼女の顔色はみるみるよくなっていった。


 彼方は深呼吸すると、幹を背にどっかり地面に腰をおろした。人形を投げ捨てて、怒鳴った。

 「遅いっ!」


 「ごめん……、ごめんね」

 春香は膝をついて繰りかえしあやまった。そうしている内に涙がでて、とまらなくなった。


 彼方は自分の髪や服についた土や草をはらった。

 「泣かないでよ、もう」


 「ごめんね、彼方さん」

 しゃっくりをあげながら春香は言った。

 「私、彼方さんのことをほんとうは信じてないの」


 「知ってるよ」彼方は言った。


 「知ってたの?」


 「なんとなくね」

 彼方は地面にころがるサオリ人形のほうを向いて言った。

 「あの人形はほんとうにいらないの?」


 「あの人形はいらない」

 春香はうなずいた。


 「そのほうがいいわ。あれはもう呪いの人形だからね。ほしいと言われてもあげられない。おばあちゃんに供養してもらう」


 「気になってたんだけど、供養ってなにをするの?」


 「たぶん、燃やすと思う」


 「そうなんだ」

 春香は言った。

 「ごめんね」


 「いいよ、もう。私も宇宙人がいるなんて信じられないしね」


 「それとこれとはぜんぜん話が違うと思うんだけど……」


 「同じよ」


 「彼方さんのはオカルトで、私のは科学」


 「むずかしい話はわからないわ」

 彼方はわざとらしく笑ってみせた。


 「むずかしくないって言ったくせに」


 どこかでカラスが鳴いた。彼方はその声の主を探すように顔をそむけた。その瞳が暗いのを春香はじっと見た。

 春香は言った。

 「ねえ、こんど私の家に遊びに来ない? 宇宙人のことが書いてある記事、見せてあげる」


 記事を読んでも、彼女はなかなか納得しなかった。

 

 春香はあとで知ったのだが、彼方茜の祖母は隣の県に住んでいて、行こうとすると電車で片道2時間ちかくかかるということだ。

 地元では辻占い師以上教祖未満の小カリスマで、茜が身につけている護符も彼女に作ってもらったものなのだ。茜は呪いの人形をかかえて、それをわざわざ訪ねていった。今回のことは出過ぎたこととして、祖母からはずいぶん叱られたらしい。ほんとうはあれは危ないことだったんじゃないだろうか? あとで春香は茜にたずねてみたことがあるが、彼女は認めない。


 春香は中学・高校と同じ茜と学校に通った。おかげで霊のことはともかく茜のことは多少わかるようになってきた。彼女は危ないことをしかねないし、それを危ないことと認めないし、よく嘘をつく。でも嘘は下手だ。このへんは高校生になっても変わっていない気がした。


 もちろん、変わったこともある。

 いまでは春香よりも茜のほうが背が高くて髪が長かった。腰までとどくような長髪で、なにか理由あって伸ばしているらしい。理由がなんであれ、春香は茜のきれいな髪が好きだった。細くてたっぷりした髪で、陽にあたると、顔を輪郭をつつむようにきらきらと輝く。


 その日も、あざやかな夕焼けだった。

 茜は髪飾りをはずして、春香に渡した。冷たい風が吹いた。茜は後ろから西日を受けて、ゆたかな髪の輪郭だけがきらめいた。春香には、それはまるで獅子のたてがみみたいに気高く見えた。

 茜は目を閉じて、一瞬、震えた。

 彼女のもとに、天使が降りる。

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祈りの木 山茶花 @skrhnmr

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