ごまだれの耳は今日も大変忙しい

八百十三

ごまだれの耳は今日も大変忙しい

 ある日の夕方、西日が差し込む階段上の出窓。

 ぼくの定位置で、ぼくは今日も窓の下の道路を見つめていた。

 何人もの人が、住宅街の道を歩いている。買い物袋を持つ人、通勤かばんを持つ人、学校のかばんを持つ人。いろいろな人がいる。

 ぼくがその人達を見下ろしていると、下の階からお母さんの声がした。


「ごまだれ! ごまだれーっ!」


 彰子あやこお母さんがぼくの名前を呼んでいる。ぼくはすぐに、出窓の上で体勢を入れ替え、階段の踊り場まで登ってきてぼくを見上げるお母さんに声を返した。


「わふ!」

「あぁ、もう、こんなところにいた。探したんだからね!」


 踊り場では、お出かけ用の服に着替えたお母さんがぼくに指を向けていた。階段の下からは賢一けんいちお父さんがこれまたお出かけ用の服に身を包み、ぼくのことを見上げている。


「なんだ、彰子。ごまだれは今日も出窓の上にいたのか」

「そうなのよ、まったく、このでかい図体でどうやってここに潜り込むんだか。猫じゃあるまいし」


 ぼくの前足をつかもうと手を伸ばしながら、お母さんはぼくを出窓から下ろそうとする。そんな事しなくても、ぼくは自力で降りられるのに。

 ぼくが二人の顔を見ていると、ぼくの耳に、お母さんとお父さんの声が聞こえてきた。


『毎度毎度、この子は心配かけて。どうして出窓なんかに上りたがるのかしら』

『あの位置に出窓を作ったのは失敗だったかもなぁ。今度観葉植物でも置いて場所を塞ごうか』


 だけど、お母さんの口もお父さんの口も動いていない。これは、ぼくだけが聞くことの出来る、人間の『心の声』だ。

 ぼくの耳は、目で見た人間の心の声を、普通の声と同じように聞くことが出来る。だからぼくはいつも、この出窓から下の道路を見たり、お父さんやお母さん、悠介ゆうすけお兄ちゃんを見て、皆の心の声を聞いているのだ。

 その出窓を、何か置かれて塞がれてはたまらない。ぼくはすぐさまお父さんに反論の声を上げた。


「わ、わふっ!」

「なあに、ごまだれ。そんな顔してないで、早く降りてらっしゃい」


 声を上げるぼくに、お母さんがもう一度手を伸ばしてくる。

 お母さんの手の横を抜けて、するりと踊り場に着地して。そしてぼくはお母さんの脚に額をこすりつけた。


「わふっ!」

「よしよし、いい子ね」

「ほら、下に降りるぞ。今日は悠介も部活がないから、一緒に外にご飯を食べに行こう」


 お母さんがぼくの頭を撫でてくれる。お父さんもすぐに降りてきたぼくに満足しているようだ。そしてこれから、家族皆で食事に行くらしい。

 食事に連れて行ってもらえるのは好きだ。町の中には色んな人がいる。その色んな人を見れば、ぼくはその心の声を聞けるからだ。

 階段を降りながら、ぼくの尻尾もゆらゆら揺れる。その隣でお母さんもお父さんも何やら考えているようだ。


『どのお店に行こうかしら。とはいえ、行ったところでごまだれには車で待ってもらうしか無いんだけど』

『店に連れて行っても暴れたり騒いだりしないのは助かってるな。聞き分けが良くて何よりだ』


 お父さんもお母さんも、ぼくが大人しいことに満足しているらしい。ぼくはのんびりやで穏やか、アホの子と呼ばれることが多いが、それも多分、ぼくの個性というやつだろう。

 リビングに降りて、身体にハーネスを付けてもらう。玄関まで行くと、既に靴を履いていた悠介お兄ちゃんがぼく達を待っていた。眉間にシワを寄せながらぼく達を見る。


「母さん、遅い」

「ごめんごめん、さ、行きましょう」


 お兄ちゃんに謝りながら、お母さんがかばんを手に靴を履いた。お父さんも靴を履いて、車の鍵を取りながら玄関の扉を開ける。

 車に乗り込んで、お父さんがエンジンキーを回して。車のエンジンが掛かって家の駐車場を出ていってしばらく走ったら、もう町の中だ。

 窓の外を見れば、色んな人が道路を歩いている。色んなことを考えている声が聞こえる。


『今日のご飯はなにかなー』

『まずいな、あいつの誕生日だってこと、すっかり忘れてた。怒られる』

『あのクソ課長、今日も何かとセクハラ発言してきて! 今度という今度は絶対に許さない!』


 困っている人もいれば、怒っている人もいる。そういう人の声を聞くと、ぼくはどうしてもソワソワしてしまう。

 何か、ぼくにお手伝い出来ることはないだろうか。そう思ってしまうのだ。

 窓の外、ぷりぷり怒りながら歩いていくお姉さんを見ているぼくを見て、お兄ちゃんが助手席のお母さんに声をかけた。


「母さん、ごまだれまた車の外見てる」

「何が楽しいのかしらねー」


 お母さんは他人事のように言いながら、カーナビを操作している。これから向かうのは駐車場の大きなファミリーレストランだそうだ。

 その間もぼくは視線を窓の外から外さない。そんなぼくを見て、お兄ちゃんが何やら考え始めた。


『いつも何やってんだろう、こいつ。ずっと窓の外見てるし……』


 ぼくのことを考えているらしい。思わず窓から視線を外すと、お兄ちゃんと目が合った。ふと、お兄ちゃんの手がぼくの頭に伸びる。


「何が面白いんだ、ごまだれ?」

「わふっ!」


 ぼくの頭を撫でてくるお兄ちゃん。その手が気持ちよくて、ぼくは一つ鳴いて返した。

 お兄ちゃんは気難しい性格だけど、ぼくには優しいから好きだ。温かい気持ちにさせてくれる。

 そうこうする内にファミリーレストランに到着した。駐車場に入って店の入口の前、そこで車が停車する。


「よし、着いたぞ」

「悠介、先に名前書いてきて。三名ね」

「分かった」


 お母さんの言葉にうなずいて、お兄ちゃんが車のドアに手をかけた、その時だ。

 ぼくの耳に、か細い、か弱い声が聞こえてきた。


『もうやだ……』

「わふっ!?」


 女の子の声だ。それもただごとではない様子の声がする。

 ぼくはすぐさま声のした方を向きながら吠えた。ここからならもしかしたら、ぼくの声が届くかもしれない。


「わんわん! わん、わんわん!」

「わっ!?」

「ごまだれ、やめなさい!」

「どうしたの!?」


 ぼくがいきなり吠えだしたことに、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも驚いたらしい。その拍子にお兄ちゃんが開けようとした車のドアが、いくらか開いたままになっている。

 チャンスだ。ぼくはすぐに身体を反転させてお兄ちゃんの開けたドアの隙間に突っ込む。するりと身体は隙間を抜けて、ぼくは車の外に降り立った。すぐに声のした方に走っていく。


「わうんっ!」

「あっ、ごまだれ!?」

「悠介、追いかけて! あなた、車を早く止めてきて!」

「わかった!」


 ぼくを追いかけて、お兄ちゃんも車の外に飛び出した。続いてお母さんも。お父さんは車を止めてからぼくを追いかけてくるらしい。

 いいことだ。ぼくを追いかけてきてくれるなら、あとはお兄ちゃん達がなんとかしてくれる。

 声のした方に走り、声の主を探す。どうやら車の中にいるようだ。


『たすけて……』


 ふと、一台の車の中から声がしたような気がして、ぼくは車の窓から中を覗き込んだ。その中では小さな女の子が、チャイルドシートに座らされたままぐったりしている。

 車の表面は随分熱かった。中はもしかしたらかなり暑いのかもしれない。


「わんわん! わん!」

「ごまだれ! おい、何を――あっ!?」


 追いついてきたお兄ちゃんが、ぼくのハーネスのリードを掴みながら車の中を覗き込んだ。そしてお兄ちゃんも、ぼくの見たものを見たらしい。すぐに振り返ってお父さんとお母さんを呼んだ。


「父さん、母さん! こっち来て、早く!」

「悠介!?」

「何が――お、おい!?」


 お父さんとお母さんも追いついてきた。そしてぼくの見たものを見た二人が声を上げる。

 これはやはり、ただ事ではないようだ。お父さんがお兄ちゃんに鋭い声を飛ばす。


「悠介、お店の人呼んでこい! 子供が車内に閉じ込められているって!」

「う、うん!」


 お兄ちゃんが頷いて、お店の中に走っていった。お父さんはしきりに車のドアを叩いて、お母さんは電話でどこかに連絡をしている。

 やはり、これはただ事ではなかったということだ。それを見つけられたことにホッとする。

 やがて、ファミリーレストランの駐車場に救急車が入ってきた。車の持ち主が扉を開けて、中でぐったりしていた子供と持ち主を連れて行く。その後からやってきたパトカーから降りた警察の人が、お父さんとお母さんと話をしていた。


「通報ありがとうございました。もう少し発見が遅れていたら、命に関わっていたでしょう」

「いえ、お礼ならうちの犬に言ってください。見つけたのはこいつなんで」

「わふっ!」


 お父さんがぼくの頭を撫でながら、警察の人に話をする。一声ぼくが吠えると、警察の人が優しくぼくの頭を撫でてくれた。


「そうですか。よくやったな、お手柄だぞ」


 撫でてくれた警察の人が、ぼくを撫でながらなにやら考える声が聞こえてきた。その聞き取れた言葉は、つまりこうだ。


『偉いな、この子。話によると真っ先にこの車に駆け寄ったとのことだし、声を聞き取ったりしたんだろうか』


 その言葉に、目を見開くぼくだ。ぼくが心の声を聞けることを、知っているとは思えないけれど。もしかしたら知っている人なのかもしれない。

 ちょっと、そのことが嬉しくて。ぼくは一声大きく吠えた。


「わふんっ!」

「ははは、嬉しそうだ。それじゃ、我々はこれで」

「はい。どうも」


 お父さんにもう一度頭を下げながら、警察の人は去っていく。お父さんも一つうなずくと、そのままぼくを連れて車の方に歩いていった。

 その間にも、お母さんとお父さんはぼくのことを褒めてくれる。


「すごかったわね、ごまだれ」

「良かったな。でも、車の中でおとなしくしていてくれよ」


 二人が一緒に、ぼくの頭を撫でてくれた。褒めてくれた。

 それがぼくには、何よりも嬉しい。この後しばらく、車の中でお留守番しないといけないというのも、辛くはない。


「わんっ!」


 一声返事をして、ぼくは車の後部座席に飛び込む。

 そうして、ぼくの耳はまだまだ、あちこちに向けられて忙しいのだ。

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ごまだれの耳は今日も大変忙しい 八百十三 @HarutoK

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