第2話

 オテル・デ・ザンヴァリッドに綾部一家はやって来た。

 1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり1674年に最初の傷病兵たちが入った。


 建築史上有名なのは附属する礼拝堂の建築である。教会(大聖堂)は、"聖ルイ"と称えられるルイ9世の遺体安置のために建設された。教会の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれ、ブリュアンの弟子ジュール・アルドゥアン=マンサールのもとで1706年に完成した。


 オルレアン朝(1830-1848年)時代、ルイ・フィリップ国王により、ドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれた。また、それを囲むようにして、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれている。


 21世紀当初において、100人ほどの戦傷病兵や傷痍軍人が暮らしている。一部はフランス軍事博物館として公開されている。


 一平は昔、祖父の勝太郎かつたろうが南北朝時代に綾部帝国ってのがあったと言っていたのを思い出した。

 鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。


 元弘元年(1331年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発し、元弘の乱を開始した。初めは実子の護良親王や河内の武士楠木正成など少数の者が後醍醐のため戦うのみだったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)や新田義貞らも呼応したことで、鎌倉幕府とその実質的支配者北条得宗家は滅んだ。


 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。はじめ後醍醐は足利高氏を寵愛し、自らの諱「尊治」から一字を取って「尊氏」の名を与えた(偏諱)。後醍醐が実施した法制改革や人材政策は基本路線としては優れた面もあったものの、戦争後の混乱に法体系の整備や効率的な実施が追いつかず、政局の不安定が続き、また恩賞給付にも失敗があったため、その施策は賛否両論だった。建武2年(1335年)7月、北条時行ら北条氏の残党が中先代の乱を引き起こすと、その討伐を終えた尊氏は、恩賞を独自の裁量で配り始めた。すると、建武政権の恩賞政策に不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。


 尊氏の恩賞給付行為を、新政からの離反と見なした後醍醐天皇は、建武2年11月19日(1336年1月2日)、新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じ、建武の乱が開始。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北。さらに、新田軍は京都で迎撃し(第一次京都合戦)、結城親光(三木一草の一人)が戦死するが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり尊氏軍を駆逐した。尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。迎え撃つ建武政権側は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ(正成は戦死)、比叡山に篭った。さらに第二次京都合戦で数ヶ月に渡る戦いの末、建武政権側は京都と名和長年・千種忠顕ら重臣(三木一草)を喪失し、続く近江の戦いでも敗北。延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐は尊氏に投降し、建武政権は崩壊した。


 尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で、是円(中原章賢)・真恵兄弟らに諮問して『建武式目』を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開いた。だが、後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣した。


 延元2年/建武4年(1337年)、南朝鎮守府大将軍北畠顕家(北畠親房の子)は、後醍醐天皇や父の北畠親房の救援要請に応じ、12月、鎌倉を征服した。次いで、京都奪還を目指し、翌年1月に美濃国(現在の岐阜県)で青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るも、北陸の新田義貞との連携に失敗し、京への直進を諦める。


 顕家は伊勢経由で迂回を試みたが、長引く遠征によって兵の勢いは衰えていた。次の戦が生死をかけた戦いになることを覚悟した顕家は、後醍醐天皇への諫奏文(『北畠顕家上奏文』)をしたためた。はたして、延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)、石津の戦いで幕府執事高師直に敗れ、戦死した。


 南朝総大将新田義貞は、建武の乱の末期(金ヶ崎の戦い)から引き続き北陸方面で孤軍奮闘を続けていたが、延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、藤島の戦いで斯波高経に敗れ、戦死した。


 北畠顕家・新田義貞という南朝を代表する名将が相次いで戦死したことで、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立った。


 延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)、後醍醐天皇崩御。寵姫阿野廉子との子である義良親王が後村上天皇として南朝天皇に践祚した(践祚日は前帝崩御の前日)。立場上敵でありながら後醍醐天皇を崇敬する室町幕府初代将軍足利尊氏は、その菩提を弔うため、臨済宗夢窓疎石を開山として天龍寺を開基し、京都五山第一とした。


 この頃、南朝公卿にして、慈円と共に中世を代表する歴史家である北畠親房(北畠顕家の父)は、関東地方で南朝勢力の結集を図り、常陸国小田城にて篭城していた。同年秋、新帝に道を表すため、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆し、儒学を導入して、帝王には血筋と神器だけではなく、徳(=政治能力)も求められるという、当時としては大胆で革新的な思想を展開した。親房は興国4年/康永2年(1343年)ごろに吉野に帰還し、後村上天皇の頭脳として、南朝を実質的に指導した。のち、准三宮として皇后らに准じる地位を得た。

 

 

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綾部帝国〜南北朝時代〜 鷹山トシキ @1982

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