霊廟の声

「それで、何があったか詳しく話してみな」


 そう言ったのは、趙王ちょうおう石勒せきろく配下の将軍である郭黒略かくこくりゃくだ。

 彼の前には、みすぼらしい服を着た農民と思われる中年夫婦と、その息子である少年が頭を垂れている。


 李一家と名乗った彼らの住む村で怪異が起こっているという。周囲の人間からは原因が一家にあると言われ、半ば村八分のような状態に陥っているのだが、事態が一向に解決に向かう様子を見せぬ事に一家も困り果てていた。そんな中、郭将軍ならば話を聞いてくれると言われた事で、わらにもすがる思いで面会を求めたというわけである。


 聞いてみれば、続く戦乱や馬賊の略奪によって農作物の収穫量が芳しくなく、村人のほとんどが日々の食事にも事欠くような暮らしであるそうな。残酷な話ではあるが、この時代では珍しくはない。

 さて問題は彼ら李一家の先祖を祀った霊廟である。生きてる自分たちすら衣食住に事欠く以上、まともな供物など何年も供えられていない。

 そんな折りに、霊廟の周辺で不気味な声を聞いた、白い人影を見たなどの証言が相次いだ。村人たちは李一家が祖霊祭祀を怠っているからだとして断罪したというわけだ。

 少ない食料から工面して霊廟に備えてみれば、次の日には供物は無くなっているが、怪異が止む事はなかった。

 供物を捻出する事も限界に至りそうになり、今日こうして相談にやってきたのである。

 話を聞いた郭黒略は、ボロボロと涙を流しながら語る李一家の必死な様子に、嘘や妄言の類ではないと判断し、食客として自分の屋敷に置いている老僧に取り次ぐ事とした。

 勿論ながら仏図澄ぶっとちょう大師である。


 李一家を伴って屋敷前に来ると、一人の少年が門前を掃除している所に出くわした。仏図澄の直弟子の一人、道安である。


「これは郭公、おかえりなさい!」

「おう、精が出るな」


 丁寧ながらも少年らしい元気な挨拶に、郭黒略も笑みを浮かべて返事を返した。


「ところで大師はいるかな?」

「先程まで読経されていましたから、いると思いますよ」


 余談であるが、この時代の仏教の経典は、後世の我々にも馴染みがある漢文ではない。

 天竺てんじく(インド)から入ってきたままの梵語ぼんご、つまり古代インドで使われていたサンスクリット語を、そのまま音をなぞって行われる読経なのである。

 西域に生まれた仏図澄のような人物ならまだしも、大部分の漢人にはその意味する所が伝わっていないのが実情なのだ。

 漢文の仏典が現れてくるのは、この後に仏典を翻訳する訳経僧やくきょうそうが登場してきてからである。

 そうした訳経僧としては、「三分野に分けられて所蔵される仏典を全て学び理解した」という事を意味する「三蔵法師さんぞうほうし」の称号で呼ばれる後秦こうしん鳩摩羅什くまらじゅう大師や、とう玄奘げんじょう大師が有名であるが、仏図澄の弟子である釈道安しゃくどうあんも、初期の訳経僧として後世に知られている。

 つまり数十年後の、この少年である。


 さて、後世にそんな偉人となる事など、本人も含めて未だ誰も思っていない生真面目な少年によって奥へ通された李一家は、仲介役の郭黒略と共に、白い髭を蓄えて飄々ひょうひょうとした雰囲気を漂わせる老僧と面会した。

 郭黒略の仲立ちのもと、仏図澄に改めて現状を語った李一家。その話を黙って聞いていた老僧は、一通りの話を聞き終えた後に大きく頷いて言う。


「いくつかの原因が考えられるがの、恐らくは……、いや、これは廟に行けば自ずと分かろう」


 そう言って立ち上がった仏図澄は出掛ける支度を済ませると、郭黒略と共に李一家の住む村へと赴いたのであった。




 目的の村は、ちょうの首都である襄国じょうこくから南、大都市であるぎょうに至る街道の中程だ。馬で向かえば半日ほどである。

 李一族の霊廟もまた、その村の外れにあるという。


 出発したのが昼頃だった事もあり、もうすぐ村に着くという所ですっかりと陽も傾いてしまった。

 先頭を行く郭黒略が馬を止めて松明たいまつを灯す。火の周辺は明るく照らされるが、逆にそれまでうっすらと見えていた周囲の景色が闇に包まれ、辺りから聞こえる虫たちの合唱とも相まって夜道の不気味さが増した。


 一行が再び馬を進め始めて間もなく、前方の闇の中から複数人の足音が聞こえてきた。

 先頭の郭黒略が馬を止めると、後ろの一行もまた馬を止める。

 しかし足音は止まらない。前方にはただ闇が広がるのみで松明や灯籠の類は確認できない。ゆっくり進んでいると思われるそれは、何かの行列を思わせた。かなりの人数であるが話し声は聞こえない。気がつけば、耳障りなほどに響いていた虫の声もぱったりと止んでいる。聞こえるのは、ただただ足音だけだ。


「そろそろ村だと思うが、これも怪異のひとつか?」


 振り返ってそう訊いた郭黒略だったが、後ろで震え上がっている李一家は、この現象は初めてとの事。

 一方で隣にいる仏図澄に目を向ければ、相変わらず落ち着き払っている。

 郭黒略としては、今まで幾度も救われてきた経験もあり、この白髭の老僧が隣に控えている状況にあって、ほとんど恐怖は感じていなかった。絶対的な信頼という物である。


 郭黒略の掲げている松明の灯り、そして天に顔を覗かせた月明かりに照らされて、前方から件の行列が見えてきた。

 祝い事を示す赤い布であしらわれた衣服から、嫁入りの行列であると分かる。

 しかしこんな陽も暮れた夜道で、暗闇の中にあって誰も松明も灯さず、誰も喋る事もなく、ただただゆっくりと進む様子に、その華やかなはずの行列がかえって不気味であった。

 冥府の嫁入り……。郭黒略の頭に、そんな昔話が思い出された。


 そんな中、仏図澄は黙って馬を下りると、前方に進み出た。二列になって進む赤い服の一団が黙って左右に割れるように老僧を避けていく。緩やかな川の流れを、川の真ん中にある岩が裂くように。

 行列と老僧、互いに存在しないかのように黙っていたが、行列の中に花嫁を乗せていると思しき馬車が現れた時、まるで待っていたかのように老僧が一喝した。


「喝ァァァアアアッ!!」


 大地を震わせるほどの声と共に、周囲の行列は霧が晴れるように消え去り、同時に女の悲鳴が聞こえてきた。

 悲鳴と言っても、それは断末魔のような悲壮感のある物ではなく、お転婆な小娘が道で転んだような、どこか間の抜けたものである。

 その声に郭黒略は聞き覚えがあった。

 次いで周囲の夜の闇から、その聞き覚えのある声が反響する。


「何やの!? ……って、またアンタら!?」


 その独特の訛りから、いつぞや出会った金色こんじきの髪を持つ狐娘だと確信した郭黒略は思わず叫ぶ。


「またお前の仕業だったのか!」

「えぇ……、何の話なん? 言い掛かりはやめてほしいわぁ」


 夜の闇から響く声に、郭黒略が更に文句を言おうとすると仏図澄が制した。


「いや恐らくは霊廟の件とは関係なかろう。偶然通りすがっただけじゃろ」

「……そうなの?」

「小狐や、遊ぶのも良いが、こんな街道の真ん中では止めておけ。通行人が驚くでな」


 穏やかな、しかしよく響く老僧の言葉に、狐娘からの返答は無く、ただ周囲の林をざわめかせる一陣の風が吹き抜けていった。




 気を取り直して再度馬を進めた一行は、それから間もなく村に到着した。

 このご時世特有の、馬賊の襲撃から防衛するための塢壁うへき(バリケード)に囲まれた集落である。

 集落の入口に立っている見張りが李一家の姿を見ると、入る事を止めこそしなかったが、その目には嫌悪感とも後ろ暗さとも取れる色を浮かべて目を逸らした。そして供連れの将軍と僧侶の姿を訝しげに見送ったのである。

 当の郭黒略と仏図澄も、見張りのそうした態度に気付いたが、あえて何も言わなかった。


 李一家の家に泊まり、翌朝になってから挨拶がてら村の者に話を訊いて回ったが、愛想笑いこそ返ってくるものの、そのほとんどが昨夜の見張り番と同じような態度をにじませていた。

 そうした村人たちの態度に不気味さを感じた郭黒略であったが、仏図澄は相変わらず落ち着き払ったまま、むしろ核心に近づいているとばかりに霊廟に行けば分かると言うだけだった。

 霊廟の場所を聞いた仏図澄が、当事者である李一家は家で待つように指示すると、一家もどこか安堵した様子を見せた。


 仏図澄と郭黒略の二人は、それから大して歩く事もなく目的の場所へと辿り着いた。

 村はずれの林の中に入っていく小道の先である。まだ陽も高く、林の中の霊廟と言っても不気味な感じはしない。


「しかし大師……、先祖が子孫たちを祟るなんて事あるのかい?」


 道すがらずっと思っていた事を何気なく口にした郭黒略に、仏図澄は呵々大笑して答える。


「あるわけなかろう。自分の子や孫が死に絶えそうな時に、追い打ちをかける先祖がどこにいようか。あるとすれば先祖の名を騙る悪霊や妖怪の類か、或いは……」


 老僧がそう言いかけた時に、周囲の茂みから、まさにこれから言おうとしていた者たちが現れた。その手には一様に刀剣が握られている。


「……そう、生きた人間よ」


 二人を取り囲んだ者たちの顔を見れば、村で見かけた者たちばかり。いわば村の若い衆と言ったところである。

 突然の展開に混乱している郭黒略に、仏図澄が付け加えた。


「恐らくは祖霊の祟りを騙って、李一家から食料や家財を奪っておったのよ。助け合うべき村人同士というのに、情けない事じゃの」

「なるほど、それで国にバレそうになって慌てた。しかし俺らが二人だけだと見て、口封じしようってワケか。それも祟りのせいで行方知れずってか?」


 武器を構える若者の後ろから村長と思われる初老の男性が現れ、それに応える。


大凡おおよそはその通り。李家の先代は強欲でな、我らから散々に搾取してこのような霊廟まで建ておったのよ。その借りを返してもらおうというだけ。親の因果が子に報いたのよ。そなたらには済まぬがな、恨むなら村の問題に巻き込んだ李家を恨むがいい! れ!」


 一斉に襲いかかる村人に、郭黒略は腰の剣を抜いて応戦した。曲がりなりにも幾度も戦場を駆けた歴戦の将である以上、複数人とはいえ素人の農民など恐れる物ではない。

 しかし仏図澄は丸腰だ。幽霊や妖怪ならともかく、人間相手ではただの老爺ろうやでしかない。そう思った郭黒略が仏図澄を案じたが、当の老僧は動かない。


「大師!」


 郭黒略が叫ぶ間もなく、三人の若者が振り下ろした刀が仏図澄の頭上に迫る。

 だが次の瞬間、三本の刀はまるで岩でも斬りつけたような激しい音を立て、その刃が砕けた。涼しい顔をしたままの老僧には傷ひとつ付いていない。

 周囲の村人たちも、そして郭黒略も、思わず動きを止めて唖然としていた。


「喝ァァァアアアッ!!」


 仏図澄による突然の一喝で全員が腰を抜かすように地に伏せ、呆気なく戦いは終わった。


 仏図澄の身を守ったのは『易筋経えききんきょう』の極意である。呼法によって体内の気を整える内功ないこうのひとつだが、初歩的なものは健康増進から始まり、極まれば肉体をはがねのように強靭にする硬身功こうしんこうにまで至る。

 書物としての『易筋経』そのものは、この後の南北朝時代、達磨だるま大師によって中華に持ち込まれ、唐の時代には嵩山すうざん派の奥儀として、少林寺しょうりんじの僧兵たちに受け継がれ、彼らの強さの源流となっていく。

 この時代にあっては、未だに漢文への翻訳は勿論のこと、中華への輸入もされていない『易筋経』であるのだが、西域生まれにして天竺で修行した仏図澄は、既に修得していたのである。


「さて、どうしたもんかの」


 そう言って視線を送ってくる仏図澄に対し、咳払いをして立ち上がる郭黒略。


「報告するしかなかろう。襄国の趙王に……、あー、いや、鄴の方が近いから石虎せきこかな?」


 郭黒略が、どこか悪戯じみた表情でその名を出した途端、村人たちの顔色が一斉に変わった。青ざめた絶望の表情で、全員が一斉に叩頭こうとう(土下座)をしたと思えば、どうかそれだけはと口を揃える。


 河北から中原を広く支配下に置いている趙王・石勒が率いる石家軍せきかぐんの中でも、今まで幾多の戦場で戦功を挙げた最強の猛将が、石勒の甥にあたる石虎である。

 しかし石虎は幼少期から残忍な性格であり、何より好む事が人間狩り。それも逃げ惑う者を追い詰め、命乞いをさせてから否を突き付け、絶望させてから殺す事が最も好きだという人格破綻者であった。

 石勒は勿論の事、郭黒略ら石家軍の将たちにとっても悩みの種であるのだが、石勒への忠節と戦における強さは疑いようがない以上、処罰や追放も出来ずにいるのである。

 彼に襲われた村は老若男女の例外なく皆殺しとなり物資は全て略奪。死体の山となった廃墟には火が放たれ焼け野原となる。

 石虎の通った後には、比喩表現でも何でもなく草一本残らないのだ。当然ながら国中にその悪名は轟いていた。


 大都市である鄴の周辺は、そんな石虎が治める領地である。流石に領主となってからは、石勒からの言いつけもあって、理由なき殺戮は控えている石虎であったが、そんな彼のもとに、領内で村をあげての犯罪行為があったなどと報告したらどうなるか、言うまでもなかろう。

 無論の事、郭黒略としてもそのような事は望まない。いわば脅し文句である。


 石虎の名を出され、すっかり従順になった村人たちが言う事には、始めの内は生活苦からの不安や、自分たちに比べれば先代の遺産をまだまだ残している李一家への妬みから軽い気持ちで始めた事だったのだが、いつしか村のほとんどの者を巻き込んでしまい、誰も止めようと言い出せる空気では無くなってしまったとの事だった。

 いつの世にも存在する、人の群れから生み出されながら、誰もそれを制御できぬ悪意の潮流である。


 そんな村人に対して郭黒略から出した提案は、この場にいない李一家には仏図澄が悪霊の祟りを鎮めたという体裁で伝え、これを期に全員が嫌がらせを止めるのならば、国へは報告しないという物であり、村の者たちも喜んでそれを了承した。


「分かってるな? 約束を破ったら石虎だからな?」


 郭黒略が再び釘を刺すと村人たちは慌てて再度頭を下げるのであった。


 一方で家に残るように言われ何も知らない李一家には、先祖の名を騙る悪霊が住み着いていたが無事に祓う事が出来たと伝え、またご先祖様はずっと子孫を見守っている、そして今後は村人との関係も良好になるであろうから互いに助け合いなさいとも付け加えた。

 涙を流して感謝を述べる李一家の様子を見た郭黒略と仏図澄は、満足げに顔を見合わせるのであった。


 これにて一件落着。





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西域から来た仏図澄さん! 水城洋臣 @yankun1984

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