雨は肌を刺すように強い

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 肌をさすような雨だった。通行人は傘をさして早々に帰っていく。

 跳ね返りの雨が足に付着する。靴の中は濡れて冷えていた。

 バス停の人たちは椅子の周りに近寄った。老婆は背を丸めたままでしきりに携帯を触っている。


「河崎!」


 名前を呼ばれた。この抑揚のない声に聞き覚えがあり、記憶にいる人物と照らし合わせるために、振り返る。

 そこに居たのは、知ってる人だった。


「夢屋。久しぶり」


 夢屋はギターを腹に抱えながら、バス停の屋根に滑り込む。隣のサラリーマンを肩で押しのけ、声の聞こえる距離まで来た。ギターケースは有名な楽器屋のロゴが書かれており、頭から染みている。


「それ、やばくない?」

「もう慣れたよ。メンテやらんといかん」

「そろそろうまくなったか?」

「YouTube見てって言ってんじゃん」

「いや、何年前よ」

「5年かな」

「高校の頃は楽しかったよな」

「そうかもな」


 同意したが楽しくなかった。高校の頃は屈辱を受ける日々で、誰も俺を相手してくれなかった。


「おまえ、結局は兄貴を殺したわけ?」

「いや、殺せなかったよ」


 夢屋の口から兄の単語が出てくる。その瞬間、懐かしい情景や話し声が頭の中で再生されていく。そういや、あの日もこんな雨だった。



 スマホから流行りの音楽が流れていた。その近くに茶髪の男性が窓の雨を眺めている。


「お前も傘ないの?」


 教室は彼以外に誰もいなかった。廊下の奥から吹奏楽部の練習が聞こえる。しずかな教室は雨のカーテンが降りて、青色の暗さに包まれていた。外は肌を刺すような雨。


「うん。君も?」

「夢屋。夢屋まさる。お前は何?」


 夢屋ひろ。クラスの中心人物で音楽が好きだった。休み時間になるとスマホから音を鳴らし、紹介するか後ろで流す。俺と正反対の人間で、兄に近い人種だ。


「河崎淳弥。クラスの人間なのに覚えてないんだ」

「その一言多さで思い出した。うざくて友達のいない河崎だろ」


 窓から俺に目を移す。彼は良く周りに人がいて、話し声が聞こえてきた。なのに、今は俺に注がれている。返答を間違えたらグループで晒されてしまうのだろうか。


「兄貴と正反対の河崎」

「余計な人間を寄せ付けないでいいから楽だ」


 携帯を出して、雨の予報を検索する。重そうな雨雲は、2時間を経て住んでいる地域を通過するようだ。通り雨らしい。


「兄は余計な人なのか? 俺は嫌いなタイプだけど、成績優秀で体育祭の団長を務めるなんて、社会が好きそうじゃないか」

「……」


 俺は二種類の対応をされる。眼鏡をかけて髪の毛がしおれた男子から、同類の目で声かけられるのを待たれた。容姿に自信のある男は、アドバイスと人との関わりと大切さを説いてきたりする。彼は後者だろう。


「無視するなよ。世間話だろ」

「俺の世間に兄はいない」


 彼は椅子をひいた。机上のスマホを操作し、再生を止める。入口で立ち尽くす俺に大股で寄った。


「な、なに」

「お前合格だよ」

「え?」

「お前の世間に兄はいない。普通の人なら自慢するか嫌がるだけだ。その返し方は特別だ」

「と、特別って」

「俺は普通の返しが嫌いなんだ」


 放課後はクラスメイトの別色を見せるようだ。分け隔てなく接する彼の姿はなく、ひどく自分に酔っている。


「アイツらは同調にまじることを美徳とする。確かに、それは生きるために必要なスキルだ。だが、俺は生きることに重きを置いていない。花火のように華々しく散るような死が好きなんだ」

「う、うん」

「その散り方を見せる奴らは独特な表現をする。お前は面白いことを言える。何がそうさせたんだ?」

「何がって、普通だよ」

「言い方を変える。お前をだれが歪ませた」


 特別と言われて舞い上がった。クラスで誰も俺をみつけようとしない。次第に期待したくないから、嫌われるイメージを通した。なのに、心は侘しくなる。


「兄貴かな」

「嫉妬か?」

「いや、兄の性癖」

「性癖?」


 兄貴はふたつの側面がある。誰にでも話しかける優しさをもちあわせ、相手に丁寧な対応をした。しかし、家に帰ると豹変する。俺を自分の部屋に誘い、服を脱がせた。俺の陰茎を撫でながら涙を流す。ごめんなと謝りながら、自分の性癖をプレゼンしてくる。

 自分は抵抗できない男子を殴りたい。でも、手を出したら犯罪だからお前で我慢する。身内に手を出す方が犯罪にならないから、代わりに発散した。許してくれ。それを30分繰り返したら、真顔になり追い出す。


「それは、キモイな」

「きもい?」

「お前、辛くないのか?」


 質問の意図が掴みかねた。兄の性癖が嫌いだったが、自分のつらさと結びついたことがない。


「河崎。つらさも知らないのか。教えてやるよ」


 そう言うと、彼は手首を取り親指を押した。咄嗟の痛みに手を引き戻す。血管の上に青い点が発生した。


「俺はお前に攻撃をした。被害者は辛い思いをして、泣くか怒る」

「いや、辛いぐらいわかる。でも、兄の行動と俺の辛さが分からない」

「つまり、お前は屈辱を受けてるんだ。普通の人は抵抗するか押し黙りながら泣く。でも、お前は嬉々として嫌いなところを語った」

「そう、なのか」


 夢屋は自分の端末から性的虐待の定義や家庭内の性被害の事例を見せてきた。常日頃から、世間にアンテナを張って情報を収集しているらしい。彼いわく、特別な人間になるための修行のようだ。

 目から鱗だった。俺は性的虐待を受けているようだ。ブラウン管の中に入ったような錯覚がする。


「お前はバカにされたんだよ。そう思うと腸が煮えくり返るものがないか?」


 自分の正常な立ち位置を知った。その衝撃は感情を後ろにおいやる。怒りや悲しいが表出る前に、頭がまっさらで口が開けない。


「殺したいほど憎いって言え」

「殺したいほど憎い」

「お前は兄に侮辱された」

「侮辱されていた」

「そう。お前は特別な人間なのに、普通なやつに遊ばれている」


 そう言うと、スマホからギターのカッティングが響く。その強烈なサウンドは人を殺しそうほど鋭い。その喧騒と雨音が同じ波長になり、昼休みより熱気が返ってくる。


「この曲は俺が作った。感じたことを忘れないために投稿している。いいか、お前は兄を攻撃するんだ。殺してしまえ。殺したら、俺の曲のひとつに加えてやる。そうしたら、認めてやるよ」


 まるで救いのような提案だった。自分の知らない感情に名前がついたわけだ。俺は誰かの特別になりたいし、兄よりも優れていると認められる。

 俺は彼に認められたくなった。特別な存在、それは普段の会話に飢えている俺にとって毒だ。

 雨は少しづつ勢いが弱くなっていた。その隙に校舎から出て、帰路を急ぐ。その頃には、頭の中は殺人で鮮明に埋まっていた。兄の腸が飛び散り、血がカーペットになる。開腹され胃が半分に割れ、器官を溶かす。兄に遊ばれたぶん、殺したい。


 到着し、家に入る。兄の靴は既に横並びされていた。両親は共働きだから深夜2時まで二人きりだ。


「来たか」


 兄の目に光が宿っていない。関わる人を不幸に落とすような暗さが身についている。自然と、体が膠着していた。


「脱げ」


 立ち上がり、肩に手を伸ばす。俺はそのまま抵抗に脱いだ。陰茎を撫でられながら、夢屋の曲を再生する。攻撃的な曲はどこか寂しさがあった。歌詞を想像していたら、兄は輪っかを作って襲いかかる。

 無理だった。

 俺には殺人ができない。特別になれないし、兄に抵抗するのは怖い。既に心は支配されていて、効いていないフリで精一杯だった。自覚してから遅かった。俺は余計な一言で、自分を守っていた。特別と言われ舞い上がっただけで、何も変えられていない。俺は歌になれない。



 性被害は続いた。襲われた直後は夢屋のチャンネルで曲をシャッフルして流す。彼に憧れや羨望を乗せて泣いた。自分を知って傷つくから、知らない方がマシだった。しかし、兄は高校を卒業して突然終わる。身体や心と共に疲れた。結局、助けを呼ぶには努力が居る。その力さえなかった。


「いや、殺せよ。だって、お前をバカにしてたんだろ?」

「災害だ。ただ過ぎるのを待つしかない。あの時はそう思っていた。誰かが助けてくれると無意識に思っていたんだ。夢屋が助けてくれると思ったんだ」

「曲になりたかったか」


 でも、夢屋は俺を助けなかった。高校時に殺せなかった。それを見抜いて無視ばかり続けてくる。彼の曲に陥りながらも、現実の距離に過呼吸になった。


「夢屋だろ。兄の愚行を広めたのは」


 兄は卒業と同時に性的虐待が暴露された。俺以外の子供にも手を出す映像がネットに流される。逮捕され、家族共々引っ越すことになった。俺にはカウンセリングが配置され、今でも診断受けている。


「ああ。お前は特別じゃなかった。だから、普通の対応をした。殺せば言わなかった」

「今なら、殺さないとはっきり言える。俺も色々あった」

「へえ。お前が?」

「いま恋人と同棲しているし、社会は思ったよりも冷たくて疲れる。過去を振り返る暇ない」

「つまんない人間だな」

「そうかな。劇的な過去なんていらないよ」


 実は夢屋のチャンネルを今も見ている。しかし、前のような情熱は俺の指に残っていない。卒業した彼は家を追い出され、その日暮らしをしながらライブ配信で酒を飲んでいる。もう歌を歌うことが少なくなったし、クオリティも低い。前のような尖り方は減った。むしろ、空回りしている。復讐心の中身が転げ落ち、復讐のふりが上手い大人だ。


「もう行くよ」

「まだ雨が降ってるぞ」

「こんぐらいの勢いなら帰れるかも。待ってる人もいるし」


 雨の勢いは傘を差す程度ではない。まばらに広まった人達は傘を閉じたり、つけたりしている。俺は肩をそのまま濡らしながら、自分の家に帰る。

 鍵をまわし、扉を開けた。


「ただいま」

「おかえ、え、濡れてんじゃん!」


 出迎えた彼は俺のTシャツを着ていた。昨日干したばかりなのにそでを通されている。


「どしゃぶりだよ」

「いや、そんな降ってねえじゃん」

「かもな」


 手洗いを済ませ、マスクを捨てる。夢屋がライブ配信をしていたので、チャンネルを登録解除した。

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雨は肌を刺すように強い 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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