つぶみさん、こちらもつたねえ文ですが、どうかお手柔らかに

池田

ストーカー

自宅のマンションに帰ってきたのは夜の十一時ごろだった。仕事終わりに同僚兼友人の真紀に無理やり飲みに連れて行かれ、さっきまで駅前の居酒屋にいたのだ。私はあまりお酒が得意ではなかったので、ちびちびと梅酒を飲んでいただけだったが、それでも少し頭がぼーとしていた。

 エレベーターが一階にとまっていたので、私はすぐに乗り込んだ。七階のボタンを押す。出てすぐ左に曲がり、突き当りにあるのが私の部屋だった。

 廊下に出て左に曲がると、ちょうど他の住人が部屋に入ろうとしているのが見えた。隣人の長谷川という20代後半くらいの男の人で、多分私とそんな年齢は変わらないはずだ。今の時間帯でスーツ姿のところを見ると、この人もさっきまで飲んでいたのかもしれない。

 「こんばんは」

 「こんばんは」

 それだけの挨拶を交わす。ただ向こうは快活さが滲み出たスマイル付きだ。長谷川さんはいつも笑みをたたえて挨拶をしてくれるのだが、正直私はそういう挨拶も含め、この人が苦手だった。多分私の感性がおかしいのだと思う。真紀が私の部屋に遊びに来たとき何度か長谷川さんとすれ違ったことがあるのだが、その都度真紀は振り返り「かっこいい」と声をこぼしていた。たしかにイケメンで職場でもブイブイ言わせてそうだが、何故か私はこの人に得体のしれない不気味さを感じずにはいられなかった。

 部屋に入ると、電気もつけないままベッドにダイブした。いつもなら着替えてシャワーを浴びるまでは絶対にベッドで横にならないと決めているのだが、今夜ばかりはアルコールがそれを邪魔した。

 明日は休みだからもうシャワーいいかな、とそのまま眠りそうになる。だがもう少しでとういうところで鼻孔が反応し、私は重い体を起こした。

 なにこの臭い?

 少しだが生臭さが漂ってくる。私は鼻を犬みたいに突き出し、臭いの元を探した。

 すると、どうやら生臭さはベッド脇にあるゴミ箱からしているようだった。覗いてみると、くしゃくしゃになったティッシュの上に何かが被さっている。だがそれが何なのかは部屋が暗いせいでわからない。

 私は何の躊躇いもなくそれをゴミ箱から取り出した。触れた瞬間、ぬめりとした感触が手に伝わってきた。

「ひっ」

私は咄嗟にそれを投げ捨てた。壁に当たり、ぺちゃっと間抜けな音がする。条件反射で手を激しく擦りつけるようにズボンで拭いた。

なんであんなものが。

 今自分が投げたものが何なのかは、嫌な感触がした後に視認できた。私は何故自分の部屋のゴミ箱にあれが入っているのかを、さっきまで全く働かなかった脳みそで必死に考えた。酔いは覚めている。しかし全く意味がわからなかった。私の記憶違いかとも一瞬疑ったが、間違いなくそれはないと断言できる。

 私は恐怖で鼓動が速くなっているのを感じながら、床に落ちた使用済みコンドームに目をやった。


 スマホを操作する手が小刻みに震えてしまう。それでも、どうにかして電話をかけることができた。

 繋がって。私はついさっき履き替えたスウェットパンツを強く握る。

 「もしもし?」

 「もしもし私、伊織」

 電話が繋がったのと、真紀の声を聞いて少しだけ落ち着くことができた。

 「ごめん、今外にいるから聞こえづらいかも」たしかに電話から風の音が聞こえてくる。

「それでどうしたの?」

 私は深呼吸をし、呼吸を整える。

 「一応聞くけど、真紀じゃないよね?」

 「なんのこと?」

 「勝手に私の家に彼氏とか連れ込んだりしてないよね?」

 「は? そんなことするわけないじゃん」

 唖然失笑だった。当然の反応だと思う。合鍵は誰にも渡していない。真紀でないのは最初から分かっていたことだ。それでも真紀が「バレた?」とお茶目に言ってくれるのを、私は心のどこかで期待していた。

 「じゃあいったい誰が……」

 私は頭を抱える。誰かが私の部屋に勝手に入ってきたという恐怖が依然として離れない。

 「どうしたの、なんかあったの?」

 真紀は私のただならぬ様子であることを電話口から察したみたいだった。

 「さっき見つけたの。ゴミ箱に……使った後のコンドームがゴミ箱に入ってたの」

 「えっ?」

 本来ならスマホから耳を離してしまうほどの甲高い声だった。

「それで……どうしたの?」

「キッチンのゴミ箱の方に捨てた。あと言っとくけど、そういったことした覚えはないからね?」

「わかってるよそんなこと。てか最初に私を疑うとはね」

「一応って言ったでしょ? それより何でそんなものがあると思う?」

「えー、んー」

顎に手を添えて考える真紀が目に浮かぶ。

「さっきは分かってるって言ったけどさ、本当は酔った勢いでやったんじゃないの? 忘れてるだけで」

「有り得ない。私が下戸ってこと知ってるでしょ?」

「知ってるけど、もしかしたらたまたま酔うまで飲んで……ってこともあるかもじゃん」

「ない、絶対にない、断言できる」

私はつい口調を強めてしまう。

「あっそう。まあ分かってたけどさ」

「分かってたなら最初から言わないでよ」

「だってそれしか思いつかないし……あっ」

真紀が何か思いついたらしい。

「ストーカーとか?」

「ストーカー?」

「うん。そういうのよく聞くじゃん。最近誰かにつけられたりとか、ないの?」

ここ最近のことを思い出してみる。しかし思い当たる節はなかった。今日だって普通に何事もなく帰ってきたのだ。

「ないと思う」

「ほんとに? 知らない間に勝手に家に入られてたとか、よくある話だよ?」

それを聞いて、はっとした。私はスマホを耳に当てたまま、ベランダに通じる掃き出し窓を確かめる。だが鍵は閉まっていた。それに私が帰ってきたとき玄関扉も施錠されていた。 私は今更ながら、恐ろしいことに気づいた。

私はリビングにある食器棚の引き出しを開ける。入居時、そこに合鍵を入れておいたのだ。そのはずだが、中には通帳と印鑑しかない。息が苦しくなり、自分の心臓の音が聞こえてきた。

「鍵、なんで、鍵が消えてる」

「どういうこと?」

「入れてたはずの合鍵がないのよっ」

あまりのことで私は過呼吸気味、ヒステリックになってしまう。

「落ち着いて伊織。ほんとにストーカーされた心当たりはないの? もう一度よく思い出してみて」

私は何とか呼吸を整え、言われた通りもう一度よく思い出してみる。外でつけられたり、部屋で違和感を覚えたことはなかったか。

すると、あっ、と一つ思い出すことがあった。思い出すほどではない。ついさっきの出来事だ。

この部屋に帰ってくる前、エレベーターを出ると、長谷川さんが部屋に入ろうとしているのを私は見た。それは一見、ごく普通の光景に思える。

しかし、よくよく考えてみるとおかしかった。マンションに着いた時、エレベーターは一階に止まっていたのだ。なのに私が七階で降りた時は、ちょうど今帰ってきたと言わんばかりの長谷川さんがいた。本当にあのタイミングで帰ってきたのだとすれば、階段を使わない限り、エレベーターが一階にあるのはおかしくないか。私がマンションに入る時、入れ違いになった人はいない。かといって長谷川さんが七階まで階段で上るのは、有り得ないことではないが考えづらい。

長谷川さんは私が帰ってきたのを見計らって、あたかも偶然を装ったのではないか。

そう仮定すると、腑に落ちる点が私の中であった。仕事に行くのに朝部屋を出る時、そして帰ってくるとき、どちらも長谷川さんとタイミングが被ることが多かったのだ。今までは気にも留めていなったのでそんなこと思ったことないが、もし本当だとすると私の動向が筒抜けということになる。

私はそこで、はっとしたように周りを見渡した。カメラがどこかに設置されてるのではないかと思ったのだ。今のこの状況も私は監視されていて、壁の向こう側で男が卑しい笑みを浮かべているのではないか。

「もしもし?」

考えていたことを話すため、私は真紀に呼びかけた。

しかし、返事が来なかった。そういえばさっきから真紀の声が聞こえない。スマホの画面を見ると、電話が切れていた。間違って押したかもしれない。

私がもう一度掛けなおそうとスマホを操作する。

その時だった。

ピンポーン。

インターホンが鳴り、私の肩が跳ね上がった。セキュリティマンションではないので、玄関扉の横に付いているそれを誰かが押したのだろう。つまり扉の前に何者かがいるということだった。私は意識せずとも、隣の男の顔を思い浮かべていた。

私は慌てて真紀に電話をかける。手がぶるぶると震えていた。

お願い、真紀、出て、助けて。

そう心に願った時、聞き覚えのある着信音が玄関の向こうから聞こえてきた。

「なんだやっぱりいるんじゃん。伊織、私だよ、真紀だよ。心配だから来たんだけど」

私は崩れるようにしてその場にしゃがみ込んだ。涙が出ていたことを今になって気づいた。

 私は何とか立ち上がり、玄関に向かう。

だがその途中で、私はある違和感を覚えた。

真紀は私と同じ最寄り駅の近くに住んでいるが、駅からは互いに反対方向に進んで行く。つまり真紀の家から私の家に来るとなればそれなりの時間がかかるわけだが、真紀は元々私の家に来る予定だったのだろうか。

そんな疑問が頭を過ったが、私はすぐにどうでもよくなっていた。

サムターンを回し、チェーンを外した。何の警戒も無しにドアを開けた。

「真紀ありがとう。わざわざ来てくれて」

「うんいいよ、気にしないで」

それを言った真紀の瞳が、どす黒く濁ってるように見えた。

様子がおかしい。

そう私が訝しんだ時、真紀が何かを握っているのが視界の下に映った。私は目線を落とし、それを確かめた。

「えっ」

咽喉から漏れたその声は、真紀が包丁を持っていたことに驚いて出たものなのか、それとも自分が刺されたことで発したのか、私にも分からなかった。

自分のお腹を見ると、刺さった包丁から血が放射線状に染まりつつあった。その様子を目にし、私の視界はぐらりと揺れ、そのまま横に倒れた。

視界が暗くなっていく中、わずかに光が残った視線の先で、真紀の笑う顔が映った。


 最初、長谷川は画面の中で何が起きたのか分からなかった。

 伊織の部屋を終始モニターで監視していると、突然来客が訪れたのだ。一瞬彼氏かと思い、激しい嫉妬が彼を渦巻いた。

 だが伊織にここ一年彼氏がいなかったことをすぐに思い出し、長谷川は冷静を取り戻した。では一体誰なのかという疑問が残る。時刻は零時を回っていた。

 モニターの画面で伊織が硬直していると、ヘッドホンから別の女の声が聞こえてきた。

 「なんだやっぱりいるんじゃん。伊織、私だよ、真紀だよ。心配だから来たんだけど」

 伊織の玄関に設置しておいた盗聴器が反応していた。どうやら、さっきまで電話で話していた真紀という女がやってきたらしい。長谷川は安堵して胸を撫で下ろした。

 そして伊織の方も画面の中でしゃがみ込んでいた。やはり気持ちが繋がっている、と長谷川は思った。俺が安心すれば伊織も安心し、伊織が喜べば俺も喜ぶ、俺たちは目に見えない糸で繋がっている――。

 伊織は何とかいった様子で立ち上がり、玄関の方へと向かった。モニターの画面をリビングから廊下へと切り替える。伊織は鍵とチェーンを外し、扉を開けた。真紀、という女が立っていた。時々伊織の部屋に遊びに来る女という認識でしかなかった。

 「真紀ありがとう、わざわざ来てくれて」

 「うんいいよ、気にしないで」

 長谷川が目を疑った出来事は、次に起きた。

 突然、女の腕が伊織の胴体に伸びた。長谷川はモニターを凝視する。すると、女の手に銀色の何かが握られているのを確認した。何だあれと思ったが、忽ち伊織の腹が赤く染まっていくのを見て、女が持っていたのは包丁だったのかと彼は愕然とした。

 殺された。伊織が殺された。嘘だ、嘘だ嘘だ。

 長谷川は椅子から落ちていた。悲しみ、怒り、恐怖、様々な感情が混ざり合って彼の心を乱した。

 長谷川は震えた足で立ち上がる。画面を見ると、伊織は倒れていて、その横で真紀という女が佇んでいた。

 その女がにやりと笑い、黒い目をカメラに向けた。

 「これで私だけを見てくれるね」

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つぶみさん、こちらもつたねえ文ですが、どうかお手柔らかに 池田 @suy

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