ホットカフェオレ
泣村健汰
ホットカフェオレ
『ホットカフェオレ』
慎司さんが私の隣のカップに手を伸ばします。
居間に運ばれた茶色のコーヒーカップに、慎司さんは熱いコーヒーを注ぎます。
その姿を、私はいつも羨ましく思っていました。慎司さんがコーヒーを飲むのはいつもの事なのですが、それに私が使われた事は一度もありません。
私は慎司さんのお友達の、結婚式の引き出物としてこの家にやってきました。取っ手の部分に天使の羽があしらわれている白いカップです。この羽は、自分ではお気に入りなのですが、一人暮らしの慎司さんのご趣味には、あまりそぐわないようです。
ですがカップとして生まれたからには、そして折角この家に貰われたからには、慎司さんのお役に立ちたいと、静かに戸棚の隅で願い続けていました。
そんなある日、慎司さんのお家に、一人の女性が来訪しました。
栗色に染められた髪にはゆるくパーマがかかっており、目元のぱっちりと開いた、可愛らしい女性でした。
彼女の名前は、紗枝さんと言うのだそうです。
慎司さんは紗枝さんに、自慢のコーヒーをご馳走する事にしたのでしょう。戸棚からいつもの自分用のコーヒーカップに加え、私に手を伸ばしてくれたのです。
テーブルに置かれた私を見て紗枝さんは、可愛いカップ、と満足そうに呟きました。
「コーヒーでいい?」
慎司さんのその言葉に、紗枝さんは少しだけ顔を曇らせます。
「私、あんまり苦いの得意じゃないんだ」
「じゃあ、カフェオレにする?」
慎司さんの提案に、紗枝さんは嬉しそうに頷きました。
慎司さんは冷蔵庫からミルクを取り出すと、それを暫く電子レンジで温め、私の中に注ぎました。それから、自分のカップにはたっぷり、私には半分だけ、コーヒーを注いだのです。
湯気の立ったカフェオレは、内側から私を温めました。
紗枝さんは天使の羽の根元をそっと摘み、唇へと近づけます。指先には薄桃色のマニキュアが塗られていて、彼女の可愛らしさに花を添えております。
二、三度カフェオレに吐息を吹きかけた後、紗枝さんは私に口をつけ、カフェオレを一口啜りました。
「おいしい」
そう漏れた紗枝さんの言葉に、慎司さんは満足そうに頷きました。
紗枝さんは、それから度々慎司さんの家を訪れました。紗枝さんの存在により、自分の存在に価値が産まれた事に、私は喜びを感じました。
紗枝さんは慎司さんに、自分の恋人の事を楽しげに話すのです。それを慎司さんは、コーヒーを啜りながら、穏やかな顔で聞いているのでした。
コーヒー一杯分。
時間にしては、長くても2時間ちょっとでしょうか。
二人は他愛も無い会話で、カップにコーヒーを注ぐように、その限られた時間の中に、温かさを注いでいくのです。
信二さんは、いつも紗枝さんの言葉に耳を傾け、紗枝さんはそんな慎司さんが話しやすいのでしょう、いつも饒舌に、慎司さんに言葉を投げかけるのです。
紗枝さんがある日、恋人と喧嘩をしたと言って、泣きながら家を訪れた事がありました。
あんな奴最低、もう別れてやるんだから、そう涙ながらに話す紗枝さんに、慎司さんはいつものように、私にカフェオレを入れ、彼女に差し出すのです。
そして、紗枝さんに優しい言葉を一杯かけ、紗枝さんの心を少しずつ救っていくのでした。
ミルクをいれ、本来苦いはずのコーヒーを飲みやすくカフェオレにするように、慎司さんは紗枝さんに言葉をかけ続けました。時に同意し、時に共感し、紗枝さんの心を汲んで、少しずつ解きほぐしていくのです。
紗枝さんは、そうだよね、私も悪いんだよね、仲直りしてくると言い、そして慎司君ありがとう、と頭を下げ、急いで部屋を出て行きました。
慎司さんは紗枝さんが笑って出て行くのを見つめながら、私を手に取り、まだ半分程残った、冷めたカフェオレを飲み干して、俺は何やってんだ、と哀しげに呟くのでした。強く握り締められた天使の羽は、信二さんの悲しさを感じ取っているかのように、小刻みに震えました。
紗枝さんはそれから、慎司さんの家を訪れる事はなくなりました。
慎司さんと疎遠になった訳では無いのでしょうが、紗枝さんは紗枝さんなりに、今忙しい時期なのだそうです。紗枝さんと電話で話す慎司さんは、とても明るい声で紗枝さんを元気付け、その表情にはどこかアンニュイな物悲しさが浮かんでいました。
少しして、慎司さんの元に手紙が届きました。
慎司さんはその顔を哀しげに見つめ、ベッドに身体を倒し、呟きます。
「まぁ、幸せならいいんだけどさ……」
そう言う慎司さんの声には、少しだけ涙の色が浮かんでいました。
そこでふと思い立ったのか、慎司さんは立ち上がり、私の事を手に取りました。そして、私がここに貰われてきた時の箱に私を詰めたのです。
暗闇の中、箱の外側から慎司さんの寂しげな溜息が聞こえてきました。
箱の外が次第に賑やかになっていきます。
がやがやと騒がしく、だけどどこか厳かな雰囲気が漂う、そんな不思議な空気の中、私は再び光を見ました。
そこには、綺麗なウェディングドレス姿の紗枝さんが、私の事を見て微笑んでいました。
隣には白いタキシードをした、優しそうな知らない男の人が座っていて、私の事を眺め、可愛いカップだねと呟きました。
その言葉に紗枝さんは、笑顔で頷き、再び私を箱の中へを押し込めました。
紗枝さんが笑顔なら、きっと慎司さんも幸せなのでしょう。
そんな事をぼんやりと思いつつ、華やかな結婚式の空気の中、紗枝さんが私を見つけた時に一瞬だけ見せた、切なそうな表情の真意を考えていました。
ホットカフェオレ 泣村健汰 @nakimurarumikan
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