女神は幸福を授けれども、
soldum
女神は幸福を授けれども、
「助かったよ、へへ、あんたは俺達の女神サマだぁな」
「はいはい、また来いよ」
ひょろ長い男がその背を目一杯縮めて卑屈に笑うのを見るともなしに見送って、私は息をつく。何が女神だか、バカが。
アパートの短い廊下を引き返してリビングに戻ると、出しっぱなしだった計量器とスプーンを片付け、舞い上がらないよう慎重に袋の口を閉じて薬を仕舞い込む。
私がああいう連中――世の中の悪い部分に足首を沈めながら、そこからのし上がることも這い出ることもできずにいるバカども――相手に売っているコレがなんなのか、私自身がよく知っているかと言われれば別にそんなことはない。そりゃあそれがどんなもので、誰が何のために売り、誰が何のために買い、取引の場でなんと呼ばれているのか。そのくらいは知っているけれど。
成分がどうだとか、それを吸ってバカが悪化した連中が最終的に何がどうしてあんな無様を晒す羽目になるかだとか、それを知って買いに来る連中が何を思っているかなんてことは、興味もないし知りたくもない。
何を言ったところで、何を知ったところで、私だって連中とそう変わらないバカでしかなく、こうして仕入れた薬を売った金を組に納めることで、どうにか自由のフリをして生きるしか生き方を知らない。
ロクデナシの家に生まれてロクデナシに育てられロクデナシが出来上がった。私の半生を語るならそれで十分。今も私はロクデナシのまま、きっとロクな死に方もしないだろう。
取引の片付けを終えて、ぼふっとソファに身を沈める。付けっぱなしだったテレビに目をやったがチカチカしてうるさいのですぐに消した。
今日の予約はさっきの男で最後。駆け込みが来るかもしれないが、それを相手にするかどうかは私の気分次第なので別に気にすることでもない。ひと眠りしようか、それともまたカモを探しに出かけようか、逡巡の後、私はそのままソファで目を閉じた。
客と対面で薬を売るなんて、いくら組の人間だと上から言われたところで末端も末端、いつ切り捨てられたっておかしくない。組の名前を出しても、代紋を示すことは許されない私が組員だなんて、客の誰一人として信じちゃいないだろう。連中にとっちゃ私が誰かなんて関係ないから、なるほどなるほどと頷いているだけ。
そんな吹けば飛ぶような木っ端売人でいるのを嫌がって、アガリを増やすために血眼になってカモを探す同業もいると聞くが、私はそんなものに興味はない。
組に納める金が増えたところで、一度私達みたいな末端の末端に放り出された人間を組が拾い上げることなんてあるはずがない。アガリが増えればその分利用されるだけ。こんな社会の裏側で飲み食いして生きてる人間が、それなのにまだ努力が報われると信じている姿を見ると憐れみさえ覚える。
こんな人生に至った時点で、この先も決まったようなものなのに。
ぴんぽーん。
間の抜けたチャイムの音に目を開けた。寝ていたか、と時計を見上げたが時刻は針は五分ほどしか進んでいない。
無視しようか、と思ってしかし、アポ無し突撃をやらかすバカの一人に心当たりがあった私はのろのろとソファから身を起こし、玄関に向かった。
ぴんぽーん。ぴんぽぴんぴんぽーん。連打するなとあれほど言ったのにと思いながら、どうせまともにものを考えられる状態でもないだろうから言うだけ無駄かと諦める。
私がチェーンはかけたまま玄関扉の鍵だけを開けるとガシャっと力いっぱい扉が向こうに引かれた。もちろんチェーンがガチャガチャとがなるだけで、わずかな隙間以上に扉が開くことはない。
「開け、開けて、お姉さん! なんで、なんでチェーン、かぎ、ドア、開けてよ!」
がちゃがちゃとチェーンに指をかけて揺さぶりながら、悲鳴じみた女の声がそう言った。
「……用心のために、来る時は事前に連絡しろっつったろ」
「だって、だってもう、無理、無理っ、今しか、今じゃないとって」
かろうじてこちらの言葉は聞き取れているようだが、返答は要領を得ない。いつものことだからと私は「はいはい」と流して、通れるはずもない扉の隙間になんとか潜り込もうとする女を押し返すと、チェーンを外して女を部屋に入れた。
「くす、くすり、お姉さん、いつでも、来ていいって言った、言ったから」
「わかったわかった。用意してやるからそこで待ってろ」
女、というより少女と呼ばれるべき年ごろの彼女は、うちの常連。ただし、金は取ってない。彼女の分の金は、私が自分の財布から出している。
最初に彼女がここの戸を叩いてから、もう一年ほどの付き合いになる。こちら側じゃあ薬に浸かった人間が一年も何事もなく生き延びるなんて珍しいことだが、彼女はまだかろうじてあちら側に生きている。それが幸運かどうかは、見る人によるだろうが。
「制服で来るなって言ったろうが」
言いながらちらりと背中越しに振り返ると、倒れ込むように玄関に膝をついた少女は小刻みに震える自分の体を抱きながら「だって、だって」と同じ言葉を繰り返す。
まぁ、限界だったのだろうし、服装に気を遣う余裕なんてなかったんだろうけれど。
彼女の制服はシワもなく綺麗で、髪も手入れされて美しい。肌も若さあふれる瑞々しさを保っている。客の女には身なりがどんどんと崩れていく人間も多いが、彼女は一年経ってもその辺りはしっかりとしたままだ。性格か、習慣か、周囲に大事にされているのか。その全部だろうなと思いつつ、私は彼女に渡す分と分けて、いまこの場で吸わせる分を用意する。
制服も髪も、肌も綺麗なままだが、ふらふらと彷徨う焦点の合わない目と、その下に色濃く浮かぶ隈だけは彼女の状態をはっきりと告げている。
「ほれ」
最後に火を付けてやると、彼女はずるずると這うようにしてリビングに入ってきた。追い詰められて、もう一秒だって我慢できないという目をしながら、それでもじっとテーブルの前で私を見上げている。
「いい子だ、よし、いいぞ」
「っ」
私が許可を出すと、彼女はテーブルに飛びかかるようにかぶりついて、待ちわびた幸福で脳を満たす。私はその対面に腰を下ろして、彼女がきゃらきゃらと調子ハズレに笑いながら転げ回るのを満足感とともに見下ろしていた。
***
「……ん」
目を覚ますと、隣から幼い寝息が聞こえた。
ちらりとそちらに目をやると、私にしがみつくようにしてあの少女が目を閉じている。脱ぎ捨てた私達の服や下着がベッドの周りに散乱し、私も彼女も何も身につけていない。
彼女を抱き、そのまま同じベッドで眠るのはほとんど毎度のことだ。出会った当初の数回を除けば、彼女がこの部屋を訪れた時は例外なくこうなっている。初めに誘ったのは私だが、今では彼女の方からねだってくるようになった。
「……ふへぇ」
情けなくふやけた、笑っているんだかなんだかわからない寝息に苦笑する。幸せそうな顔をしている。人生を、進行形でとんでもなく踏み外している人間とは思えない寝顔だ。
彼女に薬の世話をしているのは、私が勝手にしていることだった。別に彼女でなければいけない、外的な理由があったわけでもない。
ただ、どこで聞きつけたのか、妙に育ちのいい身なりをした、裏どころか表の社会のことだってまだ知らなそうな少女が「薬がほしい」とうちの戸を叩いた時、ああこいつがいい、とそう思っただけ。
ロクデナシの家に生まれてロクデナシに育てられロクデナシが出来上がった。そんな自分を受け入れて、諦めたフリをしながら、私はきっと誰よりもそんな自分の人生を呪っていた。
自分がこの社会のもっとも薄暗い場所に敷き詰められた玄関マットみたいな存在だと平然とうそぶきながら、心の奥底では誰のせいだと私をこうさせたあらゆる人とモノと仕組みとを恨んでいた。
私はこうして這いつくばって生きるしかなかったのに、そんな私の存在を気にも止めずに毎日のように踏みつけて、笑っている人間がいる。社会の底に這いつくばる人間のことなど知りもせず、望まれて、愛されて生きることを当然と、あるいはそんなことを意識すらしない人間がいる。
そんな連中を一人でいい。私と同じ場所に這いつくばらせてやりたかった。
こうならざるを得なかった私が、こうならなくても良かったはずの誰かを引き摺り下ろせたなら。それは私の人生というとんでもなく小さなスケールで、でも明確に、確実に、間違いなく勝利だと思った。
私を生まれた瞬間から底辺に押し込めた社会への、ささやかな復讐。
だから私は右も左もわからない様子の彼女に二つ返事で薬を与えた。お金は頑張って用意しますから、と二度目に訪れた彼女に「金はいらねぇよ」と微笑んだ。お薬きもちいいですねと笑う彼女に、もうちょっとだけ気持ちよくなろうかとその制服に指をかけた。
そうやって一年も経てば、こうして立派に薬と私に依存してくれた。
彼女はまだ、表の社会に生きている。それは別に、どちらでもいい。こちらの世界に転げ落ちてくるならそれはそれ、ざまぁみろよと嗤ってやるし、あちらの世界で生き続けるならその上っ面の下をボロボロにしてやればいいと思う。
私にとって大事なのは、この女が私という沼から絶対に逃げられなくなることだけ。
生まれた時からくそったれな生き方を押し付けられてきた私が、生まれた時から平凡という幸福を与えられてきた少女をドロドロに穢して、どん底の私に縋らせてやりたい。
私はそのために、この少女を飼っている。
「……ん、お姉さ、ん」
「まだ寝てていいぞ」
「んー……」
薄く目を開けた少女の髪を撫でてやると少女はもぞもぞと布団に潜ろうとして、けれど途中で気が変わったのか潜りかけた布団から顔を出して私を見上げた。
禁断症状が収まり、薬とセックスによる快楽と興奮の絶頂も通り過ぎた、彼女にとってごく短い凪いだ時間。彼女本来の濁りのない瞳と表情が、私を伺う。
「ね、お姉さん」
「なんだよ」
「お姉さんは、わたしのこと、捨てないでね」
「……は?」
何を言われたのかわからなくて、私は思わず彼女の目をまじまじと見返してしまう。
「お姉さん、だけは、私のこと……」
最後まで言い終える前に、彼女のまぶたは落ちて、また規則的な寝息が聞こえる。私は、呆然としたまま彼女を見下ろすしかなかった。
なんだよ。
なんだ、捨てないでって。なんだ、私は、って。それじゃまるで、こいつはもう誰かに捨てられたみたいじゃないか。
生まれた時から平凡で幸福だったんじゃないのかよ。こちら側のことなんて、知りもしないで生きてきたんじゃなかったのかよ。綺麗に髪を整えて、綺麗な服を着て、愛されて育ちましたって健康的な顔色をしてよく笑って、そんな風に生きてきた人間が、ほんの出来心でこちら側に手を伸ばした。それを掴んだ私がニッコリ笑って、彼女を沼に引きずり込んだ。……そういう話だった、はずだろう。
頭の中で冷静な私が言う。寝言だ、悪い夢でも見たんだろう、薬漬けで頭空っぽのこんな女の言うことをいちいち真に受ける必要なんてない。
でもその「冷静な私」は、そんな風に言いながらもう一つの可能性も告げてくる。
本当に幸せに生きてきただけの人間が、薬にここまでのめり込んでしまうと思うか、と。彼女が周囲に愛されているなら、目の下の隈をどうして誰も心配しない? 禁断症状が出るほどになっても、なぜ通報されたり、保護されたりしていない? どうして彼女は一年もの間、何の問題もなく私の部屋に通えているんだ?
衣食住に困っていなければ、それだけで幸福だと思うのか?
お前が引きずり込んだと思っていた相手は、はじめから同じ沼に腰まで浸かっていただけなんじゃないのか?
ひどい寒気がした。
***
「助かる……あんたは、俺達にとっちゃ女神みたいなもんだ」
「ふふ、褒めてもうちに値引きなんてありませんよ」
微笑んで応じると、そんなんじゃねぇよと照れくさそうに笑って、小指の欠けた男は薬を受け取ると部屋を出ていった。スマイルゼロ円、顧客満足度に繋がるならそれくらいしてもいいだろう。
客の男を見送ってリビングに戻り、すっかり慣れた手順で取引の後片付けを――しようとして、そういえばと一服分の用意を整えた。
そして寝室の隣の扉を開ける。
「お姉さん、お薬の時間ですよーっと」
「…………」
焦点の合わない目が、ぼんやりとわたしの方を向く。気温とは関係なく震える指で、がりがりとしきりに頭を引っ掻いている彼女の周りには、抜けた頭髪が散らばっている。
「く、すり」
喜ぶわけでも、嫌がるわけでもない。けれど彼女はのろのろと身を起こし、わたしのあとについてリビングへと移動した。
「はい、どーぞ」
「…………、……っ」
手の痙攣を必死に抑えながら、お姉さんは目を閉じて薬の快楽を味わう。その様子を微笑んで見守るわたしは、客観的に見てどう見えるのだろう。あの頃のお姉さんみたいに、壊れて見えればいいのだけど。
わたしがお姉さんのところに通うようになって、一年と少しが経った頃、彼女は突然自殺した。正確にはたまたまその日部屋を訪れたわたしが発見したことで自殺は未遂に終わり、一命をとりとめた。彼女にとっては、とりとめてしまった、と言うべきことなのかもしれないけれど。
わたしはお姉さんの身柄を引き取り――といっても彼女の部屋に転がり込む形になったし、書類上の手続きなども何もしていないけれど――、組の人間とも話をつけて、お姉さんのしていた仕事をまるっと引き継いだ。
お姉さんは少しだけ嫌がったけれど、彼女がわたしにしたように薬とセックスをお返ししてあげているうちに、今のようにすっかり大人しくなってしまった。
別にそれでいい。わたしはお姉さんに元気でいてほしいわけでも、あの頃と変わらず抱いてほしいわけでもない。
ただ、わたしはお姉さんのもので、お姉さんはわたしのものだって、そう思えるだけでいい。
お姉さんはもともと、薬をやらなかった。商品に手を出して身を滅ぼした人間を何人も知っている、そんなバカとは違う、いつかそんなようなことを言っていたと思う。わたしも彼女を見習って、仕事を引き継ぐと同時に薬をやめた。
はじめのうちは酷い禁断症状に苦しんだけれど、そのたびに嫌がるお姉さんに無理やり薬を与えて、殴って、蹴って、抱いて、そうやって我慢しているうちにお姉さんは大人しくなって、わたしの禁断症状はなくなった。
愛とか、幸せとか、そんなのは要らない。どうでもいい。ていうか、信じてない。そんなのきっと嘘っぱちで、手にしたと思ってもどこかで絶対に裏切られる。
わたしは、お姉さんがわたしの手元にありさえすればいい。それ以上は何も望まない。
誰かに今が幸せかと訊かれたら、きっとわたしはこう答える。
薬が生活の一部になってるロクデナシの人生。そんなの、売る側も、買う側も。
「幸せなわけ、ないじゃないですか」
女神は幸福を授けれども、 soldum @soldum
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