第10話 僕の涙でオーストラリアが沈んだ日
展望台にたどり着いた時、岩は崩れ、建物はほとんど倒壊していた。展望台もじきに危なくなるのはわかっていた。それでも僕はここにたどり着いた。研究所のいくつかの抜け道を利用して、ここのマンホールにたどり着いた。彼女がいることなんて期待していなかった。僕は彼女に会っても、何も言えなくなるんじゃないかって、そんな不安に駆られて、足がすくんでいた。目線もまっすぐには向かず、展望台のほうを見ることがこわかった。
歩け。自分に言った。歩け。もう一度自分に言った。
「歩け!」
「歩かなくても大丈夫だよ」
やさしい声が聞こえた。俯いた顔を上げる。信じられないと思った。会うのはたった一日ぶりなのに、何年も会っていなかったような気分になった。
会えてうれしい、素直にそう感じた。
「ありがとう」
僕は言った。リディアはなんともないよと言うように笑った。その様子は地震にこわがっているようには思えなかった。
「どうして、君は逃げないんだ? こんな山だ。海の次に危険なのはわかるだろう」
どこにいても一緒だというのに、僕は何を言っているんだろう。
「関係ないでしょ?」
そうだ。君はそういうやつだった。
「バディが来たらどうしようって思ったの。だからここでいたの。誰にも見つからないように。でも私はバディを見つけられるように」
「器用な子だ」
「でしょ」
リディアは笑った。僕はリディアの小さな身体をそっと抱きしめた。
「リディア、リディア、ごめんよリディア」
「どうしたのよ、バディ。どうして謝るのよ」
「ごめんよ、リディア。本当に、すまない」
謝罪以外の言葉が出なくて、僕はひたすら謝り続けた。
ハンターバレーの悪がき二人はどうしているんだろう。リンゴ農家のエドガーさんはどこに避難したんだろう。ターナーさんの遺体はまだ安置されているのだろうか。
僕の記憶がよみがえる。元の記憶も何倍も大切になった、思い出が。
ロッカーの生臭さ。
駅の喧騒の騒がしさ。
トラックの荷台の不快感。
悪がきコンビの言いあいのほほえましさ。
ターナーさんの柔らかい笑み。
パンの香ばしさ。
スープの温かさ。
晴れても肌寒いハンターバレーの空気。
雨の日の凍えるような寒さ。
リディアとあたった暖炉のぬくもり。
バスでの静かな時間。
リディアの手のぬくもり。
それが僕のすべてだった。それを、かつての僕は奪おうとした。人々のやさしさを、幸せを奪うことが、役割だと思っていた。
なんて馬鹿げた話だろう。僕の大切なものがせっかくできたのに。
「ねえバディ、話して、どういうことなの?」
「リディア。きっと君は信じてくれない。信じてくれたとしても、君は僕を嫌いになる」
誰かに嫌われることが、こんなに怖いと思ったことはなかった。彼女はどんな顔をするんだろう。
「いいえ、何をきいても大丈夫よ。私はバディが好きだから」
その言葉で僕の瞼から熱いものがこみあげて来そうになった。だめだ。泣いたらだめだ。ここで泣いたら、すべて台無しだ。
「リディア、きいてくれ。僕の本当のことを」
僕は話した。自分が世界を滅ぼす片棒を担いだことを。そして、未来からきたことを。
リディアは何も言わなかった。地震の揺れはさらに強くなり、地盤はさらに緩くなっているのを感じる。もう何メートルほど沈んだんだろう。地上の町はもう沈んでいるかもしれない。
「これで全部終わりだ。リディア」
僕を殺してくれ。僕は君に殺されたい。そう思った。すると、唇になにか柔らかいものが重なった。それがリディアの唇だと気づくのにしばらく時間がかかった。初めてのキスかもしれない。それはとろけるように甘酸っぱく、自分の心の中のどろどろとした泥団子が一瞬で溶けてしまいそうなほどだった。
「ねえ、バディ、このまま二人で死んでもいいよ。私はそれがいい」
長いキスが終わった後、リディアの瞳はまっすぐと僕を見据えた。僕はひざまずき、リディアの肩に思い切り体重を乗せ、もたれかかった。
自分がすっかりみじめに思えた。そして、一つの結論が出た。
僕はコートの右ポケットに手を突っ込んだ。そこには一錠だけ残った錠剤があった。一錠ケースから取り出し、手元に出した。
「リディア、口をあけてくれ」
リディアは「何?」とききながら口を開けた。僕はそこにさっき出した錠剤を放り込んだ。
「飲んでくれ」
「苦いわ。なにこのお薬」
「いいから」
リディアはしぶしぶ薬をのみ込んだ。瞼はとろんんとして、体中の力が抜けていくように見えた。
「いいか、リディア、幸せに生きてくれ。そのことだけを考えてくれ。そこはここよりいくらかはましな世界のはずさ。僕のことなんかすべて忘れて、君の人生を生きるんだ」
「ねえ、バディ、どういうこと?」
眠そうな声でリディアは言う。
「さよならだ、リディア」
僕は言った。
「嫌よ、いや」
「嫌じゃない」
「いや、はなれたくない」
「わかった。最後までここで抱きしめる。それでいいか?」
「ううん、だめ」
「じゃあどうしたらいいんだ」
「どうしても離れなきゃだめなら、一つだけ、おしえてよ」
リディアはすっかり限界と言うように、眠そうな目をこすった。
「なんだい?」
「バディの、本当の名前は?」
僕は言った。
「チャールズ・ブラック」
リディアは笑った。
「チャーリー・ブラウンみたいね」
僕は彼よりかは髪の毛がある。
そう言おうとした時には、リディアの身体は消えていた。どうやら無事に時間を超えられたようだ。胸をなでおろし、空を見上げた。ポケットに手を突っ込み、世界が沈んでいく時間を、このまま過ごそうと思った。ポケットの中の写真が手に当たる。それを取り出した。僕とリディアは、相変わらず間抜けな顔をしている。
「ひどい顔だ」
こらえていた涙が、一斉に溢れだした。
目からこぼれる涙が揺れる地面をぽたぽたとぬらす。いくら叫べども山にこだまするだけで、誰も助けてはくれなかった。揺れは収まらない。手の中の写真は、くしゃくしゃに歪んでいった。さらに強くなって世界の終わりが近づいているのを示してくる。僕が泣けば泣くほど、それが強くなるようで、まるで僕の涙でオーストラリアが沈んでいるみたいだった。
オーストラリアが沈んでいるのは僕の仕業なんだから、実質間違ってはいないだろう。そう言えば、僕を追いかけていたあの集団。彼らは何者だったんだろう。僕の組織はあんなすご腕はいなかったし、それに僕の迎えはいらないと判断していたんだ。じゃあ、何者なんだろう。涙が次第にひいてきたと同時に、揺れは次第に収まってきた。まるで僕の涙が止まったから、世界の沈没を防いだように。
「そんな、なんで」
手の力は緩み、握りしめていた写真は、ふわりと落ちる。驚愕の気持ちを抑えながら、震える膝に力を入れ、ゆっくりと立ちあがった。平衡感覚は乏しく、立ちあがった途端にバランスが崩れ、膝まずいた。
「あははっ、かっこ悪いわねえ」
後ろから声が聞こえた。聞き覚えがあるようで、ないような、そんな不思議な声だった。子供のようで、大人のようで、どっち付かずの声色に疑問を覚えつつ、僕はゆっくりと振りかえった。
そこにいたのは背の高い女性だった。髪は金色のブロンド。見覚えのある透き通るようなブルーの瞳。まるでさっきまで一緒にいた少女を大人にしたかのようにだった。
「君は?」
僕はかすれる声で言った。
「苦労したわ。大陸全体のハッキングをばれないように阻止するなんてこと。私の技術とアイデアと記憶がなかったら不可能ね。よく頑張ったって褒めてほしいわ」
何を言っているかわからず茫然とする。流す涙はとうに枯れていた。
「あなたがいるかなあって思ったところに思いつきで人員を配置してみたら、見事にビンゴ。だけど全員捕まえられないなんてすばしっこいったらありゃしない。そこからどこにいったのかは覚えてなかったから、とりあえず中心街には人員を配置しといたの。気まぐれ野郎のカミーユなんだけどね、今日あんたを発見していたとか抜かすのよ? ほんと、いい加減なやつを雇ったものだわ。あれが兄だったなんて、信じたくないわね。どう? 私が言っていることわかる?」
僕が怒涛の展開に動揺しているのを理解できたのか、彼女は腰をおろし、姿勢が崩れた僕に目線を合わせた。ブルーの瞳は、僕の心を安定させた。
「つまり、オーストラリアは沈みませんってこと。恐怖の大王計画はおしまい。ジェット機も捕獲させてもらったわ。あなたの若いころはなかなかカッコいいけど、今のほうが素敵かもね。ねえ、きいてる? 私の話聞いてる?」
僕はもう笑うしかなかった。ひたすらおなかを抱えて、ありったけ笑った。
とりあえず次の僕の役割はわからないけれど、今はこれくらいしか、できないなあって思った。役割なんて、そんなもの知るか。
「なあリディア、どこまで覚えていたんだ? 君は過去にいってから今まで、何をしていたんだい?」
リディアは言った。
「関係ないでしょ?」
その顔はどこか誇らしげだった。リディアは僕の鼻をちょんちょんと突いた。僕はまた笑った。
END
僕の涙でオーストラリアが沈んだ日 ろくなみの @rokunami
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