第9話 僕の名前は
チャールズ・ブラック。それが僕の名前だ。孤児として身寄りのない僕は、田舎のしがないパン屋の息子として引き取られた。運動神経は悪いが、勉強はできる子供時代を過ごした。ただ、明るい学校生活とはいいがたく、パンツを脱がされたり、教科書を破かれたりと、嫌な思い出は多い。高校に入るころには、パン屋の両親は死に、真の孤独に苛まれた。そしていつしか僕は、悪者というものにあこがれた。悪の組織。大魔王。秘密結社。そんな言葉にときめくようになっていった。
そして僕は秘密結社を作ろうと思った。世界を滅ぼす秘密結社、恐怖の大王という名前にした。
志したのは、大学時代のことだ。長年研究を重ねて、一つの事実が明らかになったのだ。
地球という土地は、一つのプログラムのようなものだということだ。プログラムなら制御できると考えた僕は、手始めにこの国、オーストラリアをハッキングすることを試みた。完璧とは言えないが、オーストラリアを自由に使える可能性は出てきた。気温。湿度。放射線。そして、どれくらいの高度に維持するか。そしてある年、ある噂が流れ出した。
一九九九年七月。天から恐怖の大王が降ってくる。それを僕は実現するため、世界中の大陸を沈めてやろうと思った。
もちろん僕は死ぬだろう。だけど、友達もおらず、人間というものをすっかり信用しなくなった僕は、自分もろとも、人類が滅亡することを心の底から望んだ。
「だけど、間に合わない。そう思ったんだろ? 僕は」
目の前の男が僕に言う。その姿かたちは、鏡で何度も見てきたものに、とてもよく似ていた。いや、まぎれもない、若かりし僕自身だった。
「その通りさ、チャールズ」
僕は目の前の僕、チャールズにそういった。
「ああ、まさにそうなろうとしているところだ、チャールズ」
チャールズはヘルメットをかぶる僕こと、チャールズに言った。
二人の僕の邂逅だった。
「予言の日に沈められない。つまり間に合わない。だから僕は時間を飛び越える研究を始めることにしたんだ」
「ああ、制御はできても沈めるには程遠い。パスコードが存在するんだ。誰が設定したのかわからない、大陸の制御パスワード。それを未来の僕は」
そこから先は僕が言った。
「見つけることができた」
「ご苦労だった、未来の僕」
「どういたしまして、過去の僕」
僕は頭の重たい銀色のヘルメットを脱ぎ棄て、立ちあがる。
「なかなかいい刺激だったよ」
「こんな事態を考慮して記憶再生用の電流を用意していたんだ。正確には僕の生い立ちと役割を植え付けるものだがね」
霧が晴れたようにクリアな頭は、自分の状況も、役割も、すべて把握できていた。
「何年から来たんだ?」
過去の僕は言った。
「二〇三五年。妥当なところだろ?」
「おお、予想より二年早かったな」
「それはよかった」
立ちあがりながらブルーマウンテン地下に位置する研究所の廊下を進む。何人かの研究員とすれ違う中、奇妙な視線を投げかけられながら、敬礼をされた。
「記憶があやふやになるのはなんとなく予想できたんだ。だけど、そこまでタイムトラベルってのはやばいものなのか?」
過去の僕は僕の顔を見ずに言った。
「ああ、薬を使って身体全体を過去に飛ばすからな。脳への負担は尋常ではない」
おかげで僕はこの研究所に来るまでの過程のことを何一つ思い出せない。いったいどこをほっつき歩いていたんだろう。こんな重要な役割を忘れて、どこで遊んでいたんだ。
「そういや奇妙なことを言ってたぞ、未来の僕」
「そうなのか?」
「ああ、自分の名前とは全く別のものを名乗っていた。なんだったかは忘れたが、緊急事態と思ってな。強制的に拉致させてもらった」
なるほど、と言いたいところだけれど、ここまでの記憶はなにもないだけに、曖昧な相槌しか打てなかった。
「それでだ、さっそく始めようか。もう時間がない」
廊下の終点。大きな銀色の扉。恐怖の大王の部屋。ここからすべては完遂される。
「帰りはどうするんだ? 未来の僕は」
「帰り用の錠剤を用意している。これを飲んで元の時代に戻って、終わった世界を堪能させてもらう」
ある意味本望な結末だ。世界の終焉がどんなことになっているのか。それが僕の子供のころからの願いだった。コートのポケットの財布が無事なことに胸をなでおろした。なにか、紙のようなものがあるが、なんだろう。僕が記憶をなくしている間、そこらへんで遊び呆けていたのだろうか。まあいい。それより任務の遂行だ。
「コンピューターの使い方は」
過去の僕の言葉を待つ前に、僕はコンピューターの電源を入れた。
「説明は不要みたいだな」
過去の僕の言葉を受け流しながら、僕はオーストラリアの制御エリアにアクセスする。パスコードを誰が設定したかはわからないが、ここからすべてを始めることができる。
ここを沈めた後、上空に設置したジェット機でニュージーランドへと移動する。そこからのニュージーランドのハッキングまでに三日とかからない。それの繰り返しで、世界を飛び回り、やがて、世界は海の底へと沈む。これが恐怖の大王計画だった。
パスコードの入力画面になり、三十桁のパスを入力する。アクセス完了の画面が出た。
「ようやく、完了だな」
過去の僕が言った。
「今まではせいぜい地震を疑似的に起こすことや、動物の大量死くらいが精一杯だったが、これで完璧だ。もう覚えた。あとは僕だけでなんとかできそうだ」
「どうする? もう沈めるか?」
「ああ、そうしよう」
僕はオーストラリアの浮上度の画面を開いた。これのマイナス値を最高にすれば、大陸はすべて、海の底だ。その時間はおよそ一時間といったところだろう。
過去の僕はアナウンスで十人程度の研究員を集めた。彼らもすべて破滅を願う者たちだ。志は変わっていない。研究員たちには全員にワイングラスを持たせ、シャンパンを注いだ。全員に表情はない。目はうつろで、すでに死んでいるように見えた。
「よし、みんな。今日は記念すべき日だ。天から恐怖の大王が降ってきた。僕の横にいる、この、僕だ。彼がパスコードを分析してくれた。ここからはもう破滅への道だ。もう後戻りはできない。さあみんな。滅びを喜んで迎えよう」
『乾杯!』
研究員と僕と僕は、ワイングラスを高々に掲げ、滅びを祝福した。全員失うものはなにもない。これが僕たちの正義なのだ。
僕はマウスを操作し、値をマイナスにまで下げた。
「いくよ」
僕は後ろを振り返る。全員何も言わず、ただ僕をうつろな瞳で見つめていた。適応のスイッチを、入れた。
途端に平衡感覚が崩れた。大きな揺れが施設全体を襲う。非常用エレベーターに全員乗り込んだ。轟音とともに揺れはどんどん強くなっていく。施設の機材にはヒビが入り始め、視界もどんどんブレ出した。大陸が、沈む。まさにそう感じた。
屋上には三十秒程度でたどり着いた。揺れはひどく、うまく歩けないが、なんとか一人ずつジェット機に乗り込み、最後は僕一人になった。
「よし、僕らはもうニュージーランドへと移動する。わざわざありがとう、未来の僕よ」
「礼には及ばないさ、過去の僕」
僕らは世界を滅ぼそうとしているのに、全員満面の笑みで手を振っていた。なんという奇妙な光景だろう。
長い屋上の滑走路を進み、ジェット機は轟音とともに空の向こうに消えた。地震でもここの滑走路はびくともしていない。相当丈夫に作ったんだろう。さすが僕だ。そこらへんの記憶があいまいなのが悔しいが。さて、未来に戻るため薬を飲もう。そう思って僕はズボンのポケットをまさぐった。
いや、確か錠剤はコートのポケットだ。間違えた。そう思ったその時、指先になにか髪のような感触が当たった。レシートのようでもあるが、折りたたまれている。まるで小さな書置きのようだった。
僕は揺れが激しくなる中、ズボンから紙を取り出した。表にはこう書かれていた。
「バディへ」
黒いボールペンのような素朴な字で書かれていた。バディ。バディ。バディ。頭の中で三回繰り返す。誰だそれはと僕は思った。だけどそのあと、馬鹿かお前は、と頭の中の僕に言われた。バディ、バディ。バディ。
手紙をひっくり返す。心臓の鼓動は早い。まるでなにかとんでもない勘違いをしていたような焦燥感に駆られる。それは電車の予定時刻を勘違いしていたような、旅行の日程を間違えたような、映画の上映時間を誤っていたかのような、宿題の締め切りを間違っていたかのような、そんな焦りだった。
ひっくり返した先には、小さなかわいらしい黒い文字。おそらく同じボールペンだろう。書かれていた言葉は、
「リディアより」
だった。
僕は何も考えなかった。考えたら答えが出ることがわかっていた。リディアと言う名前も、バディという名前も、僕の脳内にはっきりと残っていた。だけどそれが何なのか、想起するのを、脳が激しく拒絶した。いやだいやだと頭を振る。それでも僕は、紙を開かずにはいられなかった。
そこにはこう書かれていた。
バディへ。こうして手紙で伝えることになったのを許してください。バディにはいろんなことを話したけれど、肝心なことを話していなかったのだと思っています。今まで誰も私のことなんてわかってくれないと思っていたけれど、バディはなんだか違いました。なんだかバディといると、私は生まれてきてよかったんだよって言われる気分になりました。
私は孤児院で生まれて、今のお家に引き取られました。誰がお父さんで、お母さんなのかわからないのは、とてもとても不安でした。私は生まれてから一度も、安心をしたことがありませんでした。いつも『お前なんていらない、消えてしまえ』って言われるんじゃないかって、怖かったんです。でも、バディといたら、そんなばかな考えはなくなってしまっていました。バディといると安心しました。バディも一人じゃないかってこわかったのかな? だったら手紙だけど言うね。バディ、こわくないよ。私がいるよ。なにかあったら私のところにきて。そしてお話をしよう。
今日からずっと、夕方はブルーマウンテンの展望台で、待っています。
p・s 大きくなったら結婚してあげてもいいよ
ポケットの中の紙切れを取り出す。それは写真であることは、もう思い出していた。映っているのは、間抜けな顔をしている僕と、リディアだ。
僕は自分のことを殴りたいと思った。僕の名前は、バディ、ノーブだ。
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