第8話 真実への暗闇

「バディ、起きて、カトゥーンバに着いたよ」

 リディアのけたたましい声で、僕の目は覚めた。疲れていたのか、夢は見なかった。すっかり眠り込んでいたらしい。ぐっと伸びをする。座席横の通路で鞄を持ったリディアがじれったそうに僕を見た。もう片方の手に、食べ終わったポテチの袋の断片がちらりと見えた。

「あと五分」

 僕は目をこすりながら言った。

「電車出ちゃうよ」

「別にいいだろう」

「いいの?」

 僕の冗談にリディアは目を輝かせた。

「いいや、よくない、いこう」

 かすかな希望を砕かれたのが悔しかったのか、リディアは肩を落とした。あいにく網棚に乗せる荷物は特になかったから、忘れ物をする心配はなさそうだ。コートのポケットの財布、そして写真と切符を確認し、立ち上がった。

 駅のホームの内装は、ブラックタウンより古びていた。トンネルのような閉鎖的な通路に、ギターを弾き語る男の声が響いていた。

「おじいちゃんも、昔ギターを弾いていたのよ」

「そうなのかい?」

 家を見た限り、楽器はなかった気がするが。

「おばあちゃんが死んじゃったとき、一緒に埋めたの。おじいちゃんの一部だったから。そばにいられるように」

 その表情は、まだハンターバレーへの未練が残っているように見えた。当然といえば当然か。あそこは彼女の一部だったのだから。

「君はひかないの?」

「手が小さいから」

「じゃあ、大きくなったら弾けばいい」

 リディアはしばらく考え込んでから、言った。

「うん、やってみる」

 駅を出て、すぐそこに小さな出店があった。そこにはミートパイが売ってあり、二つ買うことにした。

 冬空に立ち上る湯気は、より食欲を引き立てた。

「お父さんや、もしかしたらこれが最後の昼食になるかもしれないぜ?」

 にやにやと店主は言った。傍から見たら僕は彼女の父親に見えてしまうようだ。

「どうして?」

 僕は聞いた。

「一九九九年の七月も、もうすぐ終わる。予言の日は近いのかもなあ」

「なによおじさん、そんな胡散臭いこと信じているの?」

 リディアは僕らの会話を遮っていった。

「おや、お嬢ちゃんは信じていないのかい」

「なあリディア、予言ってのはなんだい? 確かにカフェの人やら、あの悪ガキコンビも言っていた気もするけれど」

「ああ、そっか。知ってるわけないもんね。馬鹿な話よ。今年の七月に、恐怖の大王が降ってくるって。それでそいつは世界を滅ぼすらしいわ」

「恐怖の大王?」

 どこかで聞いたことのあるフレーズだが、思い出せない。

「うん」

「なんだい、それ」

「わからないわ。隕石に宇宙人、大地震にいろいろ言われているみたいだけど。あるわけないのにね」

 リディアの言葉に店主は笑った。

「そりゃあそうだ! 俺だってまだまだ商売したりねえ。そんな簡単に世界が滅ぶわけねえだろう」

 僕だって、記憶を取り戻していないのに世界が滅ぶなんて、そんなのはごめんだ。僕らは出店から離れたベンチでミートパイを口にした。真っ赤なケチャップのかかったサクサクのパイ生地の中には、口がやけどするほどの肉が詰められている。それは、甘すぎず、辛すぎず、まろやかな舌触りは、まさに肉そのものだった。食は進み、もう一口もう一口と食べるうちに、あっという間にミートパイはなくなってしまった。リディアも同じ状況だったらしく、手元のミートパイは、手元から消滅していた。同じくがっついて食べていたのか、口の周りはケチャップで真っ赤に汚れている。

「食欲は最高のスパイスって、本当なのね」

 茫然とリディアは言った。

「僕も初めて知ったよ」

「バディ、口の周りにケチャップついているわよ」

 どうやら我を忘れていたのはリディアだけではないらしい。食べ終わった後、二人でなんとなく空を見上げた。僕らの前を何人かの人が通り過ぎる中、僕ら二人だけはどこか遠いところにいたのかもしれない。

「もう帰らなきゃね」

 そういったのは、リディアだった。

「ああ、そうだね」

「ここからバスで行けば着くわ。ブルーマウンテンへの無料バスがあるの。途中でいくつかのバス停に止まるんだけど、ここから三つめのバス停よ」

 リディアは聞いてもいないのに家の場所を話し始めた。まるで覚悟が固まったみたいに、声色ははっきりとしていた。僕も「わかった」と、いつもより元気に言った。そしてリディアの手を握った。

 駅のすぐそばの商店街にちょうどバスが来ていた。大きなゴミ箱がとなりにあったからわかりやすかった。バスに乗り込み、僕らは後ろから三番目の席に座った。走り出した時、僕らまた何も言わずに、外の景色だけ眺めていた。だけど、さっきとは違って、手だけはぎゅっと握ったまま離さなかった。

 目的のバス停に着くまで、十分ほどで到着した。僕らは狭い通路を通り抜け、バスを降りた。バス停から緩やかな坂を登るとすぐに、ぽつんとその家は左手にあった。白く、大きな二階建ての家。屋根には煙突があった。

「ここかい?」

 僕はきいた。

「うん。ここ」

 リディアは少し寂しそうに言った。僕もリディアから離れたくなかった。けれど、これが役割なら、それを全うするしかない。

「さよなら、リディア」

 僕はリディアを抱きしめた。リディアの力は弱々しく、今にも消えてなくなりそうだった。インターホンを押すと、エプロン姿で赤毛の女性が出てきた。あまりリディアとは似ていなかった。

 ぱたぱたとやってきた彼女は、リディアを抱きしめた。

「お帰り、リディア」

 母親は涙声だった。

「ただいま、ママ」

 リディアもぎゅっと母親を抱きしめた。

「私ね、がんばったの。できる限りだけど、やることは、やったんだよ、ママ」

 母親は何も言わずに、リディアの頭をなでた。僕は離れたところで二人を見守り、ハンターバレーでのことを思い出していた。

記憶のない僕には、あそこが僕の記憶のほとんどだった。だから、大半の時間を過ごしたリディアは、僕の全てに近かった。

 確かに小さな子供だが、僕の大切な存在には変わりない。僕は二人に深々と頭を下げた。

「では、これで」

「バディさん。いろいろとありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ」

 それ以外に気の利いた言葉は浮かばなかった。僕は逃げるようにリディアの家を後にした。歩きながら僕は泣きそうになるのをこらえるため、ほほの内側を噛みしめる。それだけでは抑えられそうになかったから、道に落ちていた小石を、思い切り蹴飛ばした。別に誰が見ているわけでもないのに、僕は自分が涙を流すことを拒んだ。今泣いてしまったら、このオーストラリアが沈んでしまう恐れがある。大げさかもしれない。だがそれほど僕の心のダムは、水でいっぱいになっていた。

 どこに行けばいいのかもわからず、とりあえずさっきのバス停の横のベンチに腰掛け、次のバスを待った。足はカタカタと貧乏ゆすりを始める。なにかをしていないと落ち着かなかった。自分の心を癒してくれる場所があるなら、どこであろうと行きたかった。記憶を失う前の僕は、今何をしたらいいのか教えてくれるのだろうか。心に問いかけても、だれも何も答えなかった。

 バスがやがてやってきて、乗ることにした。ブルーマウンテンがそんなに美しいものだというのなら、一度見てみたいと思った。山道をゆっくりと登りだしたバスの窓に、ぽつりと水滴が付いた。すると五秒後には水滴の数は増え、やがて大雨になった。地面をたたきつける水はところどころの溝に、やがては水たまりを作った。

 観光目的のほかの乗客は、不服そうな表情を浮かべた。

「いやーみなさん、いい天気になりましたねえ」

 運転手の皮肉の混じった冗談に、乗客は苦笑した。僕も笑おうとしたが、顔の筋肉はそこまで融通をきかせてくれなかった。十分ほどで、ブルーマウンテンの展望台のような場所にたどり着いた。土砂降りの中人ごみにあふれ、みんな展望台から三つの大岩にくぎ付けになっていた。スリーシスターズと、看板には書かれていた。僕はそれを見ようと、展望台に近づいた時だった。

『聞こえるか、聞こえるか』

 頭の中に声が響いた。聞き覚えがある。だが、誰かはわからない。いったい誰だ。『聞こえるよ』と頭で言った。

『まさか本当に来るとは思っていなかった。よくたどり着いたな』

『どういうことだ』

『わからないのか? わからないのに、ここへたどり着いたというのか?』

『いったい何の話をしているんだ』

 脳内の声は黙り込んだ。雨脚はさらに強まり、僕の頭には何百ボルトかわからないほどの電流が流れるような痛みが走った。

『……一つきこう。いや、二つだ。僕が誰か、わかるか?』

 頭の中の声は、そう尋ねた。

『知るもんか、誰なんだ、君は』

 痛みに耐えながら、対応する。

『二つ目の質問だ、君は誰だ』

 僕は言った。

『バディ、バディノーブだ!』

 『回収だ』という声が聞こえた。その瞬間、僕の意識は途切れた。



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