ゲイビ
M
第1話
ランチタイムの社員食堂はいつもより混雑していた。木原がトレイを持ったまま空席を探してキョロキョロしていると同じ営業1課の後輩、海野が手を振って指差しているのが見えた。後輩の前の席がちょうど空いている。木原はいそいそと教えてくれたその空席に移動した。
「サンキュー、海野」
「どういたしまして」
海野はニコニコと人懐っこく笑った。海野は爽やかイケメンとして社内だけでなく取引先の女子からも絶大な人気の1個下の後輩だ。そして、実はゲイである木原も顔に加えて性格もいい海野の事が密かに好きだった。しかし木原がゲイであることは会社にも家族にもカミングアウトしていない。片思い相手の海野にも告白するつもりは全くなかった。
「社食今日混んでますね」
「うん。給料前だからね。食事を安く済ませたいのはみんな同じってことだよな」
木原も海野も食べているのは税込300円のA定食。今日のA定食は生姜焼きだ。外で食べると倍はするだろう。お互いがつがつと肉を頬張りながら他愛もない会話に興じる。
「で、実はこう見えて僕、ゲイビ出身なんですよ」
何気ない会話の中から飛び出した海野の言葉に木原は思わず生姜焼きを吹き出しそうになった。
「へ、へえー」
何とか平静を装い、グラスの水で肉片を流し込む。「ゲイビ」とは「ゲイビデオ」の略で、要はアダルトビデオのゲイバージョン(男女間の行為ではなく男同士ということ)のことだ。大声で真っ昼間から口にするような言葉ではない。爽やかイケメンの、まさかのゲイビ出身発言に木原はドキドキした。ゲイである木原はゲイビもかなりの数見てきたと思うが、海野が出ているビデオは見たことがない、と思う。……たぶん。目の前にいるイケメン顔の男優に記憶がなかった。
「見てください、これです。ほら!」
どんないかがわしい画像が出てくるのか、木原はドキドキワクワクしながら海野のスマホを覗き込んだ。
「え……? これって……」
予想もしなかった類の画像に、木原は戸惑った。期待した分、ガッカリ感が半端ない。一体これのどこが「ゲイビ」なんだろうか。
「我ながらちょっとこれ自慢なんです。この前たまたま同期の飲み会でこれを咲ちゃんに見せたら色々話が弾んじゃって。で、咲ちゃんとお付き合いすることになったんです」
咲ちゃんというのは海野の同期で商品開発室に所属するデザイナー桜井咲のことだろう。桜井はグラマラスな迫力美人なので「ちゃん」呼びは若干違和感を感じなくもない。そして、当事者の口からもたらされた恐らく社内一の美男美女のカップル誕生のニュースに、隣に座っていた女子社員のグループがチラチラと海野に視線を送っている。
「ゲイビだったあの頃は僕も完全ガチ勢だったんですよねー。最近仕事にもなんとか余裕がでてきましたし、また再開してみたいと思ってるんです」
木原には海野の話がちんぷんかんぷんだった。そもそもスマホの画像とゲイビの繋がりが全くわからない。どうやら木原と海野の示す「ゲイビ」には天と地ほどの開きがあるらしい。
「ところで海野。さっきから何度も『ゲイビ』っていうけど、『ゲイビ』って何?」
「あああ!すみません!説明しないとわからないですよね!『ゲイビ』っていうのは僕の通ってた高校の専攻のことです。芸術科美術専攻で通称『芸美』でした」
「な、なるほど」
やっと木原にも話の内容が理解できた。とんだゲイビ違いだったようだ。海野が見せてくれた「ゲイビ」の画像も、恐ろしく上手い水彩画だった。
「さっきのあの絵、海野が描いたの?」
「はい。昔部活で描いたヤツで、コンクールに入賞したヤツです。咲ちゃんも美術専攻のある高校出身らしくて、二人で高校話がめちゃくちゃ盛り上がったんです。で、話の流れで咲ちゃんに告ったら『いいよ』って」
「よかったじゃん。咲ちゃんにフラれないようにがんばれよ!」
「はい!」
木原は自らの想いには蓋をし、同じ課の先輩として海野を応援した。海野への想いは木原の片思いに終わった。ショックではあるが、ゲイという存在は日本社会においては圧倒的にマイノリティーだ。ゲイであるとわかっている相手以外に想いが通じることは万にひとつ程度の確率だろう。悲しいが木原の想いを海野に押し付けることはできない。本当の感情を封じ込めた笑顔で会話を続ける。
「でもさ、こんなに絵が上手いのに、なんで海野は営業にいるの?」
確か海野はGMARCHのどこかの経済学部出身だったはずだ。芸術科美術専攻からGMARCHって受験勉強が大変だったんじゃないだろうか。
「まあまあ、それは聞かないでください。僕にも色々あるんですよ、色々と」
「ふーん」
「先輩ー!」
わざと棒読みで返事をすると、海野は困ったような顔になった。イケメンは困り顔もちゃんとカッコいい。
それにしてもとんだ「ゲイビ」違いだった。社内で変なことを口走らなくてよかったと木原は胸をなで下ろしたのだった。
ゲイビ M @kaerusan
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