鳥かごの外へ

「ずっとあなたと話をしたいと思ってた。あの日を境に、あなたはばったり学校に来なくなって、家でもずっと部屋に引きこもってるって聞いたから。」


 先生は母のいる扉の方に目をやってから、声の調子を落とした。


「あなたのお母さん、あなたのことを随分と心配していて私にも何度か連絡をくれたの。」

「……」

「もちろん無理に言えとは言わない。言いたくないならば、無理に話さなくても大丈夫。」

「……いえ、大丈夫です。」

「何があなたをそこまで追いつめているのか、教えてくれないかな?」

「何も、ありませんよ……本当に…………」






 彼女は俺の前で飛び降りた。


 それだけだった。

 名前も知らない。話したこともない。


 カーテンの奥からまばゆい光が差しこんできた。でも、布団から這い出る気力は起きない。体におもりが入っているようにぐったりと沈んで起き上がれない。瞼は重かった。だけど眠る気にもなれなかった。真っ暗な部屋の中で、ただ暗闇に視線を乗せた。その方が気持ちを落ち着けられた。


 彼女は俺の前で飛び降りた。


 その瞬間、俺の体から感覚が消えた。目には確かに屋上の景色が映っていたのに、俺にはそれが何も見えなくなった。体を動かす方法も動かす意志も分からなくなった。頭の中は真っ白になった。ただ強い衝撃が心臓を大きく打ち付けている感覚だけは、痛いほど体に伝わってくる。


「キャーーーーーーーー!!!!!」


 その声で、俺は世界を再び認識した。


 今、目の前で何が起こったのか、ようやく頭が理解しようと動き出す。しかし、理解すればするほど胸の奥が苦しくなった。


 彼女は自殺した。


 自殺という言葉が頭に浮かんでようやく、俺はそこで何が起こったのかを理解した。それと同時に生まれた疑問が脳内で繰り返されて離れなくなる。


「なんで…………?」


 体が震えて、足が崩れる。体に力が入らなくなった。


 脳裏には、死ぬ間際の彼女の笑顔が鮮明に映っていた。あの笑顔は泣いていた。何が彼女をそうさせたのか、俺には分からなかった。


 まさか飛び降りるなんて……


 思ってからその言葉が嘘であることに気付いた。






「あなたは彼女と関わりがないと言っていたけど、ほんとは何かあったんじゃないの?」

「俺が?彼女と?ありませんよ。会話だってしたことのないですよ?彼女が俺の前で飛び降りた。ただそれだけです。」


 それだけだったのに。


「………」

「彼女、屋上に来るたび俺のこと睨んでくるんですよ。そんな奴と仲がいいと思います?

 なるほど、今考えてみればそういうことだったのか!みんな怖がって、誰も目を合わせないのに。なんで彼女は俺のこと睨むのかなって思ったんですよ。ははっ、そういうことか!死ぬつもりだったから怖いもの知らずだったってことか!なんだそれ、最強じゃん!ハハッ!」

「塩川くん……」


 その言葉は余韻を残して、空気の中でほつれていった。先生は俺のことをまっすぐと見つめていた。


「無理して笑わなくてもいいのよ。」


 心臓が張り裂けるような思いがした。


 彼女が毎日屋上に現れる理由。


「…………本当は気付いていました……分かっていました。彼女が毎日、なぜ屋上に来ていたか……分かっていたはずなんです……」


 弁当も持たずに現れる理由。その瞳に映る哀しみと苦しみ。心のどこかでは、その正体にずっと気づいていた。


「彼女を救えたのに……救えたはずなのに……」

「違うわ。あなたは……」

「俺があのときもう少しでも早く戻っていたら……俺があのとき屋上にとどまっていたら…………彼女は死ななかったかもしれないのに……生きていたかもしれないのに……くそっ!!」

「違う、あなたのせいじゃないわ。」

「もし俺が彼女を一人にしなかったら…………俺のせいだ……俺のせいで彼女は…………彼女は…………」

「いいえ、それは違う!」

「俺が彼女に話しかけていたら……一言でも、たった一言でも……声をかけていれば……話しかけていれば…………救えたかもしれないのに、救わなかった……くそっ、くそっ、くそぉぉお!!!」


 あの日。俺が屋上を出てから時間は十分にあったはず。なのに彼女はそれまで飛び降りなかった。


「くそっ!くそぉ!このクズ野郎が!!」


 机に拳を何度も打ち付けた。これ以上ない激痛が腕を走った。でもそれじゃあ足りないと思った。


 俺がいない間、彼女は最後までもがき苦しんでいた。最後まで葛藤していたんだ。自分の運命に抗い続けていた。


 鐘が鳴ると同時に向けられる憎しみと、果てしない安堵。


 あれは俺に向けた彼女の憎悪と感謝だ。彼女にとって俺は邪魔者だった。俺がいたせいでずっと飛び降りることが出来なかった。彼女にとって俺はストッパーだった。俺の存在が彼女を生かしていた。俺の存在が彼女に死ぬことをためらわせた。


 なのに、なのに…………


 俺の不在で、彼女の孤独は完成した。


「生きる価値もないゴミクズがッ!!なんで救わなかったんだよっ!くそっ!!!くそっ!!!」

「あなたは悪くない!あなたのせいじゃないわ!塩川くん、落ち着いて!」

「龍吾!?一体どうしたの?落ち着いて!!」

「なんで……なんでだよぉ……なんでっ!!!」


 あの涙は生への憧れだった。あの涙は決別の意思だった。あの涙は心臓から込み上げるこの世の哀しみだった。


「なんで……」


 あの笑顔は、死ぬ間際に浮べたあの笑顔は………


「何でだよォ!!!」


 さよならだった。






 疲れ切った俺が目を覚ましたのは、母の車の中だった。窓の奥に見える外はすでに黒ずんでいて、はるか向こうには真っ赤な空も見えた。


 車が止まる。そこはもう家だった。


 俺は重くなった手を伸ばして、車のドアを掴んだ。


「待って!」


 母が俺のことを制止した。腕が重力に負けて座席に落ちる。


「話してくれないかな、龍吾の考えてること、悩んでいること。何が龍吾を苦しめてるのか、聞かせてほしい……」

「言って何になるんだよ……」


 自分の声に力がこもっていないのが分かる。


「分からないよ…………でも、話が必要……」

「今更話ってなんだよ!ずっと俺と関わらないように避けていたくせに!ずっと俺から目を逸らしてきたくせに!!」

「…………」

「俺がつらかったとき、助けてなんてくれなかっただろ…………あんたはずっと学校に行けと怒鳴っただけじゃないか………………ぜんぶ……ぜんぶ、俺が悪いんだろ?」

「違う。龍吾は悪くない。ごめんなさい…………私は龍吾が一番つらいときにそばにいてあげなかった。私はずっと龍吾を一人にしてきた。そんな私にこんなこと言う資格なんてないのかもしれない……でも母親だから、あの日みたいなことを繰り返したくないから。だからちゃんと話がしたいの。龍吾が思ってることを全部聞きたい……」


 母の目からは一粒の涙が零れ落ちた。


「お願い、話してよ…………」

「うるさい!!俺は、俺は!!」


 声が震える。


「俺は……俺は…………」


 気付けば、母は俺を抱きしめていた。


 その温かさに体が沈み込んでいって、体に力が入らなくなった。声ももうでなくなった。


 あれは、小学生のとき。俺が友達のことを不意に殴ってしまったとき。何事も思っていないような平然な顔つきで、無造作に謝って家に帰ったとき。母は俺の態度に、何も言わなかった。その代わりにその腕で俺のことをギュッと抱きしめてくれた。


 俺はあのとき罪悪感に耐え切れずに母の胸で大泣きした。


 俺は幼い自分をそこに見ていた。気付けば俺は、あのときと同じように涙を流していた。






 ガチャリ。

 扉を開くと同時に、全身目掛けて風が駆け込んでくる。それから身を挺して花束を庇った。風がやんで、目を開けてみると視界にはあの景色が広がっていた。あれ以来、屋上に来るのは初めてのことだった。


 適当に屋上内を歩いてみたが、何だかこの屋上が昔に比べて狭くなったような感じがした。


 俺は記憶を頼りに歩幅を進め、フェンスを掴んだ。あの日、この網の向こう側に彼女はいた。俺はそっと手に持っていた花束を置いた。


 あれから学校側で調査が行われたが、結局彼女の自殺の動機は何一つ分からなかった。いじめはもちろん、友人間でのトラブルもなく、家族関係も至って良好だった。遺書もなければ、何か犯罪に巻き込まれていたわけでもなかった。


 なぜ、彼女が自殺したのか。真実を知るただ一人の少女は、灰色の世界へ吞み込まれてしまった。真実は永遠に闇のなかだ。


 それでもこの場に立って、何となくその理由が分かるような気がしてきた。あのとき、彼女は俺と同じ目をしていた。


 彼女は死ぬことで、生きようとしたのではないか? この檻から飛び出して、生を掴み取ろうとしたのではないか?


 彼女はこの鳥かごから飛び立とうとした。


 この屋上は彼女にはあまりにも狭すぎた。彼女はそこでもがき続け、外の世界に憧れ続けた。彼女はこの狭い世界を飛び出して、もっと広い大空で羽ばたきたかったんだ。


 彼女は俺と同じだった。


 俺はぐっとその檻を掴んだ手に力を込めた。


 あのときの景色が今でも鮮明に蘇ってくる。


 網の向こう側に、俺は彼女の姿を見ていた。彼女の瞳を見つめていた。


 しばらくして俺はそこに置いた花束を拾い直した。


 でも、そのやり方を間違えてしまった。この鳥かごから出る方法を彼女は誤ってしまった。こんなにも近く簡単なところに、出口があったのに。どうして、それに気付かなかったんだ。


 俺は屋上の扉を開けた。最後に一目、振り返った。網の向こうには、いっぱいの青空が広がっていた。






 日生友香。

 その名前が刻まれた墓を前に、俺は大きく息を吐いた。来るのは今日が初めてだった。

 墓の前にはすでに花が添えられていた。どこかで見たことのあるような、でも名前の知らない花だった。


 俺は花束をそこに置いた。マッチで火をつけて、線香を寝かせる。手のひらを合わせて、目を閉じる。


 その暗闇に一瞬彼女が見えた気がした。


 それから、ゆっくりと目を開ける。


「俺はあれからちゃんと授業に出るようになったんだ。最初教室に入った時、それはそれはみんなビックリしてたよ。頑張って目を合わせないようにする人もいた。

 気にしてなかったよ、最初は。どうでもいいと思った。とにかく勉強だけでも頑張ろうって思った。

 でも、あるとき、俺に伊藤さんとか神無月さんが話しかけてくれて。いざ話してみたら、みんな思ったよりも普通な奴で、自分と何も変わらないって気づいた。しょうもないことに悩んで、しょうもないことにキレて、しょうもないことに喜んで……。

 大学はたいそうなところに行けるほど甘くなくて、それでも頑張った自分がいたから不思議と苦しくないんだ。今もそこで必死にかじりついてる。」


 顔を上げて彼女の方を見る。


「いろんな人から君の話を聞いたよ。何が好きだったとか、何が得意だったとか、何が嫌いだったとか…………やっぱり、俺も話しかけてみればよかったなあ……あの日、あの時、あの瞬間に…………」


 俺はただそこにいる彼女を見つめていた。


「ねえ」


 喉の奥から自然と言葉が湧き出る。


「君はあの日…………」


 それに続く言葉が喉の奥に詰まって下を向く。そこに生まれた空白を、埋めてくれるようにセミが鳴いた。


「いや、なんでもない。君はきっともう聞き飽きただろうな?」


 顔を上げた俺は、にっこりと微笑んだ。


「そういえば、自己紹介がまだだったよね。俺のこと話すから、君のことも聞かせてよ。俺の名前は…………」


 どこからともなく、爽やかな風が流れた気がした。


「…………塩川龍吾って言います。」

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鳥かごの少女 シュンジュウ @o41-8675

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