君
「杉山さん、あなたと日生さんはとても仲が良かった。あなたにはとても信じられないことだったと思う。でもあなたはあの日から毎日ちゃんと学校に出席している……私にはあなたが無理しているんじゃないかって心配なの。自分ひとりで抱え込んでしまってない?」
「いえ……」
先生の声色とは反対に私は冷めた声で返した。
「何か、私たちに伝えておきたいことはない?」
「いえ、何もないです……」
「今は無理して言わなくても大丈夫。でも、心が落ち着いた時に、もし何か相談したいことがあったら……」
「いや、本当に……なにもないんです……なにも……」
「ね、ねえ、今なんか落ちてこなかった?」
誰がそう言ったか、思い出せない。
桃花と美咲は互いに顔を見合わせる。愛はおびえた様子でその場に立ちすくんでしまう。私が窓に駆け寄ろうとしたそのとき。
「キャーーーーーーーー!!!!!」
突き刺すような不協和音が窓ガラスを破って、教室内にこだました。教室の中は一瞬の静寂をまとった。
「おい、なんだなんだ。」
「すごい悲鳴だったな」
好奇心を抑えきれず笑って窓に近づく男子たち。
行ってはいけない。
心の中で警告される。
だが、私はその一歩を踏み出した。悪いことが起きるとは分かっていた。あの悲鳴の異様さにも気づいていた。それでも本能的に私は足を進めた。
「人が落ちたぞ!」
外からの叫び声に、教室の中で小さな悲鳴が漏れた。
私の足はいつの間にか早足になっていた。
ガシッ。
「飛鳥、行かない方がいいよ……」
私の腕を掴んだのは、美咲だった。見ない方がいい、表情はそう告げていた。美咲にとって、それはまだ他人事だった。
でも、悪い予感が私の心を覆っていた。私は落ちてきた何かを見ていないはずなのに、それが何であるのか、確かに見たような気がしていた。
私が美咲の手を振りほどこうとした時だった。
「日生だ。落ちたのは日生だ!」
誰かが真っ青な顔でそう叫んだ。
「うそ……」
私の腕を掴む力が弱まった。後ろを振り返ると、美咲の顔は一瞬にしてひどく赤みを失う。そして倒れるように足から崩れ落ちた。私はすぐさま彼女のことを支えた。
美咲は私の胸の中で泣いた。声を出して泣いた。私はただその体を抱きしめた。
それからよく知らない先生が神妙な面持ちで教室に飛び込んできて、私たちを静かにさせた。カーテンはすべて閉じ切った。誰もが沈黙を受け入れた。
それでも外からは、大人の険しい声が止まなかった。しばらくしてからサイレンの音が聞こえてきた。私たちは速やかに下校するように言われた。
日生友香はその日、病院で死んだ。
それを聞いたとき、不思議と涙は流れなかった。ただ、そうか、と思った。
遺書は見つからなかったという。
翌日にお通夜が行われ、その次の日には葬式が行われた。その日々はあっという間に過ぎ去った。
美咲や愛、友香と特別仲の良かった人はその日から学校を休むようになった。事件に少なからず関わってしまった伊藤や塩川もそうだった。なのに、伊藤や塩川よりも友香の傍にいたのに。私だけが毎日、変わらぬ日常を送っていた。
学校側はすぐに調査を開始した。なぜ彼女は自殺したのか。学校側はいじめに関してひどく神経質になっていたのだ。でも、いじめの事実はなかった。それが一層、友香の死を謎に包ませた。友香の人生のどこを切り取っても、自殺するようには見えない。
調査の段階では、私たち、友香と仲の良かったこのグループも先生から話を聞かれた。本当にいじめはなかった。そう断言できる。
それからしばらくして、今度は私だけが先生に呼び出された。
「言わなくても大丈夫。でも、もしつらくなって耐え切れなくなったときは、一人で抱え込まないで、ちゃんと相談しなさい。私じゃなくてもいい。親御さんでも友達でもいい。」
先生は温かみのある声で言った。だが、私にはそれはあまりに無価値だった。
「みんないつでもあなたの味方よ」
「はい……」
内心ではそんなことは起こらないと確信していた。
「それじゃあ。」
私は席から立ち上がった。そのまま振り返らずにドアを押し開けた。
「つらくなったらいつでも話に来なさい」
最後に、先生は念を押すようにその言葉を繰り返した。その言葉に私は足を止めた。
「先生……」
ドアの手前で私は振り返った。
「私には友香の死をつらく思う資格なんて……ないんですよ」
あれは葬式の日だった。
どこからか嗚咽が聞こえる。隣を見れば、制服に身を包んだみんなはこらえきれずに泣いていた。私だけはきまりが悪くてただ俯いていた。
私と友香の関係はあのときをもって終わっていた。いや、もっと前からかもしれない。いつの日か私と友香は上辺だけの関係になっていた。多分それを認めてしまった日からだと思う。
私の心臓に流れ込むのは冷たい血だけだった。
私は手に花を持って、棺の方へ向かうの後ろに続いていく。
日生友香は死んだ。私はその事実を知っている。その事実を言葉として知っている。
なのに私は棺の中には、何もないと思った。誰もいないと思った。
そこにいたのは、友香だった。友香は目をつむって、そこに横たわっていた。
頭ではわかっていた。理解していた。
友香は死んだ。
私はその事実を知っている。その事実を言葉として知っている。でも、その内実を思考しようとはしなかった。ずっと考えることを避け続けていた。
あれ?
哀しみはない。辛さはない。
友香ってこんな顔だったっけ?こんなにまつげが長かったっけ?こんなに小さな手をしてたっけ?
だって、私は友香のことが嫌いだったから。
手に持った花を見る。
そういえば、友香って花が好きだったなあ……
まるでそれが新しい事実の発見であるかのように、頭の中で駆け巡って、体が小刻みに震え始めた。心臓が強く体を打ち付けて、ドクンと大きく音が鳴る。
「ねえ、友香…………」
目の前が曇ってきて、友香の顔がぼやけて見えなくなる。
「…………笑ってよ?」
そのとき。花が私の手から滑り落ちた。
そこに彼女がいることの驚きと、その驚きへの驚きが混ざり合って、もう何が何だか分からなくなって、頭がぐちゃぐちゃになった。でも、すぐにその驚きは消えた。
友香は死んだ。
その事実が頭から心臓に下ってきて、悲しみと共に弾けた。熱い血が心臓を巡って、それが神経を伝って指先まで刺激する。
友香なんて嫌いだ。鬱陶しく絡んでくるのも、卑屈な考え方も、うざいくらいにずっと笑ってるのも、全部大嫌いだ。
急いでつばを飲み込んだ。でも、ダメだった。悲しみはそのまま首を伝い上ってきて、瞳から溢れ出した。
「なんで……ねえ…………なんで…………」
顔を覆った手から静かに零れ落ちていく。必死に涙をこらえようとする。
私に涙を流す資格なんてないのに。私に悲しむ資格なんてないのに。私は彼女のことを嫌っていたのに。
私は友香のことを何一つとして知らなかった。
こらえようとすればするほど、涙が流れ出してとまらなくなる。心の中で何度も謝罪の言葉を繰り返す。今更言っても無駄だって知りながら。
「友香…………友香……」
ねえ、友香……あなたはどうしてあの日、死んじゃったの?
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