第二編
花は咲く
「こんにちは、伊藤さん。具合は大丈夫?」
「………はい、大丈夫です」
「それなら良かった」
その言い方ひとつで、先生が心からそう思っているのが伝わってくる。
「伊藤さんが、あの日以来、学校に来ていないから心配でね。私に力になれることはないかな?無理して話してくれとは言わないわ。でも、苦しんでいることを話すだけで楽になるかもしれない。伊藤さん、何か話したいことはない?」
「私は……」
空飛ぶ鳥は地に落ちた。
その瞬間、花壇の真っ赤な花は、努力の結晶は、はかなく散った。
花を踏みにじったのは彼女だった。適当に生きていた彼女だった。
日生友香は、そこからピクリとも動かなかった。
身体の奥底から湧き出た言葉は喉の奥で詰まってしまった。足は震え、今にも倒れそうになる。なのに私は花壇の上から目を逸らすことが出来ない。金縛りにあったかのように体は動かない。私はただその場に立ちすくんでいた。
横たわる彼女の背中からは真っ赤な血が静かに広がっていく。下敷きになった真っ赤な花は、彼女の暗赤色の血を被りながら、なんとか這い出そうとしていた。
動かなかった彼女の口が、突然もぞもぞと動き出した。
「…………た………すけて………」
彼女の瞳は間違いなく私を捉えていた。
「キャーーーーーーーー!!!!!」
彼女の擦れた声を掻き消すように背後から悲鳴が上がる。その衝撃にようやく私の足は崩れ落ちた。体が震えて、世界が反転するような感覚がした。頭の中がジンジンと痛み、呼吸が震えて苦しくなっていく。
「おい、なんだ!?何があった!?」
「人が落ちたぞ!」
「誰か先生を!先生を呼んで来い!」
「救急車を!救急車を!!」
視界は真っ暗になって、叫び声が遠くなっていくような感じがした。それは立ち眩みのそれとよく似ていた。
「……すか……ですか」
後ろから肩を掴まれ、視界が開けていった。私は驚き勢いのままに振り返る。
「大丈夫ですか?」
上級生が私の肩に優しく手を添え、私の顔を覗き込んでいた。少なくともその人の顔色は大丈夫ではなかった。声は震え、頬は赤みを失っていた。必死に向こうから顔を逸らしていた。
「だ、大丈夫です……」
手を借りて立ち上がった私は大きく深呼吸をした。花壇の方を向くと、そこにはすでに数人の大人が取り囲んでいた。その隙間から彼女の顔がちらりと見える。
彼女の瞼はもう閉じていた。そこから一粒の涙が流れ落ちた。そのとき、彼女が死んだと私は知った。
それから数日、私は部屋から出ることが出来なかった。お母さんはそんな私を心配した。
私は死んだ日生さんのことを何とも思っていなかった。葬式にも出なかった。友達じゃなかったし、むかつくとさえ思っていた。なのに心の中は悲しみと恐怖で埋め尽くされていた。あの光景が私の頭にしがみついて離れてくれなかった。
「あなたには相当なショックな出来事だったはず。苦しかったでしょう?」
先生は柔らかい表情で、私に同情するように言葉を投げた。
「私は……私は…………」
そういえば、私のいない間にあの花壇はどうなったんだろう。いや、そんなことはどうだっていい。
どうせいつかは枯れるんだ。
どうせいつかは…………
「あれ、なんでだろ……なんで……?」
出てこない言葉の代わりに、涙が頬を伝って零れ落ちた。
「大丈夫。大丈夫よ。」
「なんで……なんで……?」
何が悲しいのかも分からないまま零れ落ちる涙は、意外にも重かった。
目覚めたとき、時計は朝の七時半を指していた。いつもなら学校へ行っている時間だった。私はもう一度ベットに沈み込んだ。
身体は重く、酷く瞼が重かった。目はまだ少し腫れているようだった。今日も学校になんか行ける体調じゃない。
そうやって、私はずっと現実から逃げ続けていた。
あの花壇はどうなったんだろう…………
そのとき。何かが私を動かした。
「真子、もう大丈夫なの?」
制服姿で現れた私を見て、お母さんは心配した様子で尋ねる。
「……分かんない。でも……」
「無理する必要はないのよ?」
「うん、分かってる。でも私…………ちょっと学校へ行ってくる」
私は玄関を飛び出した。私は走った。やらなきゃいけないと思った。
校門の前に立って、一度深呼吸をする。あの事件以来、学校に来るのは初めてのことだった。
花壇が見えた。私の花壇。そこにはもう花はなく、無機的に冷たい地面が広がるだけ。それが視界に入った時、頭の中がねじれるような感覚がした。突然の目眩。目の前が白くなっていく。その白の上で、赤い絵の具が垂れてじんわりと広がった。それから、茶、黒の色に次々と染まっていく。キャンパスの上であの光景がはきはきと色づいていった。茶はあのこげ茶の髪の色。黒は悲しみの瞳の色。
私は何とか気を持ち直した。私にはやらなければならないことがある。
私は日生さんの花壇の方を見た。花壇のつぼみは元気を失ったように微かに頭を垂らしていた。私はじょうろに水を急いで汲んできて、しおれかけている花にかけてやった。
間に合わないかもしれない。それでも私は手を止めなかった。
それから何度も、私はこの花壇に訪れた。
調べてみると、この花はペチュニアという花らしい。生まれて初めて聞く名前の花だった。私は何もかも知った気になっていた。花のことも、人生のことも、日生さんのことも。
私は全てを知った気でいた。
吐き気がするような日もあった。頭痛が止まらなくなって、逃げるように学校を早退したこともあった。それでも毎朝この花壇のもとに足を運んで、水をやり続けた。
意味があるかは分からない。周りから無駄だと言われたら私も同意するだろう。私は日生さんを知らないし、きっと日生さんも私を知らない。
それでも、それでも……
それから数日が経った頃。
私はいつものようにあの花壇へやってくる。花壇が目に入るなり、私は大きく目を見開いた。
ペチュニアは、大きく、美しく、花開いていた。
嬉しくなって思わず顔を綻ばせる。
この感覚は二回目だった。
そしてすぐさま私は辺りに人がいないのを確認する。
「ごめんなさい」
初めて来る屋上は、あまりに無機質だった。灰色のコンクリートと空を閉じ込める鉄網。
何と言えばいいのか、分からなかった。私は日生さんの友達じゃない。
ただ手に持ったペチュニアの花を、屋上に添えた。これに何の意味があるのか、日生さんにも自分にも説明できない。
「ねえ、日生さん……」
何故だか声が震えていた。
「……あなたはどうしてあの日、死んじゃったの?」
静かに流れる空気の音。
返事はなかった。代わりに下から聞こえてくるセミの鳴き声に、活気が付いたように感じた。
ギギギ。
足元から弱々しい鳴き声と羽の音が聞こえてくる。一匹のセミが腹を天に向けて裏返っていた。地面を探して空中に足を這わせる。
私は控えめに手を伸ばした。虫を触りたくないのは今も同じだった。それでも私はそっとセミに触れて、羽を空に向けさせた。
「日生さん。私は生きるよ。」
そのセミは灰色の地面を蹴り上げて大きく飛び上がる。
「私は美しく生きたい。日生さんみたいに。」
私は空を見上げた。
そのセミは大きな青空の中へ、大きく羽ばたいていた。
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