鳥かごの中で
屋上から見上げる景色は、人を吞み込んでしまいそうな曇天の空だった。見ているだけで吐き気がしてくる。
上半身を起こし上げ、周りを見渡す。無機的なアスファルトと空を囲う鉄の網。どこからか車の音が聞こえるだけで、それ以外は静寂だった。
自分しかいない屋上はあまりに広く感じられた。
冷血。非情。人間嫌い。人が倒れていても見殺しにしそうな男。実際にそうかもしれない。人間ほど嫌いなものはない。どいつもこいつもむかつくようなやつばかりだ。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴る。それは四時限目終了の鐘だった。
「もうそんな時間なのか」
俺は再び体を倒し、硬い床の上に寝そべった。
ガチャリ。
俺は驚いて、半ば反射で上半身を起こした。
普段は重たく閉ざされている鉄の扉が、音を立てて開いた。入って来たのは一人の少女だった。俺を見つけるなり眉をひそめる。
ああ、むかつく。
彼女は一度屋上から出ようと扉に手をかけるも、すぐに手を引いた。そしてさっきのひそめた眉を誤魔化すように元に戻して、鉄網にもたれかかって座った。
どうにか俺と目を合わせないように下を向いているのが分かる。それから、ちらちらとこちらを覗くように様子見しているのがこざかしい。
誰もが俺を触れちゃいけないもののように必死に目を逸らしていた。母ですらそうだった。俺が学校に行かない日だって、今では何もとがめなくなった。俺に向けるのは常に諦めと失望。俺が出来損ないの不良品だと知っているのだ。俺にとっては静かなことに越したことはなかった。
俺は構わず朝に購入していたパンを貪る。彼女は何かする様子もなくただ俯いているだけ。弁当を持っている様子もない。
彼女は一体何しにここへ?
彼女は何も話しかけてこなかった。そして当然俺も話しかけなどしなかった。彼女から時々視線を向けられるだけだった。彼女の瞳は怯えているそれだった。それは見慣れた瞳だった。誰もが俺を見る時に使う瞳だった。
屋上に不用意に侵入した彼女の目的が分からないことに、俺はある種の苛立ちを覚えた。
昼休み終了の鐘が鳴った。
だが、彼女は動かない。俺のことをまっすぐ見ている。きっと俺が次の授業に行かないのか、と疑問に思っているのだ。その疑問への回答はもちろんノーだ。
五分後に五時間目の授業が始まる。時計は持っていないのに、時計の針がカチカチ刻一刻と刻まれている音を耳にしている気になる。まるで根競べをしているようだった。それともチキンレースか?だが、構わず車を衝突させる俺を相手にするのはあまりに分が悪すぎる。
しばらくして、ようやく彼女は立ち上がった。それまでがとても長い時間のように感じられた。
立ち上がってから彼女は、もう一度俺の目を見た。その目を見た俺は思わずハッとした。
その目を俺は知っていた。その目は子犬のように怯える瞳とは違っていた。
彼女は二度とこちらを振り返ることなく、屋上から飛び出した。
俺は、あの目を知っていた。
突然胸が息苦しくなってくる。心臓が悲鳴を上げるように激しく鼓動する。そして金縛りにあったように、体がピクリとも動かなくなった。
それからほどなくして、五時限目開始の鐘が鳴り響いた。
彼女は次の日もまた、この寂しい屋上にやって来た。空は相変わらず薄暗い灰色で、憂鬱な世界に俺を巻き込んだ。
彼女はやはりここで何をするわけでもなかった。当然俺たちは言葉を交えない。彼女もそれを望んでいたように見える。
俺は彼女の目を盗み見た。俺には真正面から彼女の瞳を見ることは出来なかった。彼女の瞳を、やはり俺は知っていた。それを見た時から、得体のしれない居心地の悪さが俺を取り巻いた。
そこで食べるメシは多分人生のうちでも過去最低を争うくらいにまずかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
そのとき。
彼女は俺を真正面から睨みつけた。
思わずたじろいだ。
それは憎悪だった。恐怖でも軽蔑でもない。俺に向けた憎しみだったのだ。
しかし、すぐに彼女の目の色は変わった。だが、それは元の彼女の瞳の色でなければ、俺の知っている色でもなかった。安堵のようだった。そして、彼女はゆっくりと息を吐いた。その吐息はとても震えていた。
ますます分からなくなった。
それからまた二、三日が経って、彼女は相変わらず屋上に来ていた。彼女は昨日今日と二日連続で弁当を持ってくるようになった。今では彼女がいることに違和感すら感じなくなっていた。ただ疑問とあの気持ち悪さだけは身体にぴったり染みついて離れようとしなかった。
無言でパンにかじりつく。
下の方からは時折甲高い叫び声が聞こえてくる。それは喜びと、驚きと、笑いに満ちあふれている。しかしここはその世界とは全く無縁で、あまりに静寂だった。
彼女の瞳はまたもあの瞳をしていた。知っているはずなのに、得体の知れないあの瞳に、俺は再び気分が悪くなってきた。
耐えられなくなった俺は、遂に屋上から飛び出した。俺はチキンレースで負けたのだ。
見覚えのある瞳。俺への憎しみを込めた瞳。何かに安堵する瞳。
彼女の瞳は、俺を呪うようにして取り憑いて離れなかった。
「おいおい、あれ見ろよ」
「うわっ、ほんとだ!」
「目を合わせない方が……」
外の空気は最悪だった。俺を見つけた同級生たちはみんな揃って、怯えた目と、その裏に珍しい物を見るかのように奇異な目を押し付けてきた。
ああ、イラつく。
彼らは怖がっていると同時に、俺を軽蔑していた。見下していた。
屋上だけが俺の居場所だった。そこだけが母の諦めたような瞳からも、教師の煩わしそうな瞳からも、周りからのごみを見るような見下した瞳からも、俺を解放してくれた。なのに、今度は彼女の瞳が俺を掴んで離さなかった。何が目的かも分からないあいつのせいで俺はさらし者だ。
同級生たちにその瞳を押し付けられるのに耐えかねた俺は、階段を下って学校の外に繰り出した。
外の世界では、セミがけたたましく鳴いていた。
もうこのまま帰ってしまおう。学校でも家でも屋上でもない。どこか遠くへ行ってしまおう。
ギギギ……
そう思ったときだった。
周りのセミの鳴き声に混じって今にも消えてしまいそうな鳴き声がかすかに聞こえてきた。足元からだった。足元で一匹のセミが鳴いていた。羽には穴が開き、ぎこちなくそして重々しく体を前進させる。次第に弱くなっていく鳴き声は周りのセミにかき消された。それは死を暗示していた。
そのセミはコンクリートの上で一人だけ、もはや生きられないと知りながら、それでも最後の力を振り絞って泣いていた。遂には泣き声が消えた。セミは動かなくなった。
ぎこちない何かが心の中に残って、体中を駆け巡った。突然あの居心地の悪さが蘇ってきて、体が重力に押しつぶされそうになる。
俺はあの目を知っていた。
何かが鼓動を早くする。
気付くと、俺は走っていた。
来た道を全速力で引き返す。誰かに正面からぶつかった。それでも俺は立ち上がって、走り出した。はるか背中の方から野次が飛んでくる。それでも構わなかった。
妙な胸騒ぎがした。
俺はあの目を知っていた。あの瞳を知っていた。
あれを見たのは鏡の中でだった。あの瞳は、紛れもなく俺と同じ瞳だった。
この胸騒ぎの正体が何なのか、分からない。なのに、確信があった。何に対する自信かも分からない。だけど俺は走った。
階段を飛び越える。屋上はすぐそこだ。
屋上の鉄の扉を勢い任せにぶち破った。
灰色の空と檻のようなフェンス。
そこに彼女はいた。
屋上ではない。
灰色の空の方に彼女はいた。
檻の向こう側に彼女はいた。
俺は言葉を失った。
彼女はこちらを振り向いた。
彼女は澄み切った笑顔でニッと笑って見せた。
瞳から一粒の涙が零れ落ち、笑う頬の上を伝う。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
「戻れ!!!!」
それは初めて彼女に投げかけた言葉だった。
彼女は返事をしなかった。
そして彼女は、灰色の空に向かって飛び出した。
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