弟
みりあむ
弟
家に帰ると、弟が首をつって死んでいた。
あたしはやけに冷静だった。驚かなかった、っていうと、ちょっと嘘になる。ああ、まじか、とは思った、たしかに。ああ、まじか。まじにやっちゃったんだ、って思った。
ドアを開ける前から、じつは覚悟していた。というのも、弟は部屋のドアノブにひもをくくって死んでいたからだ。ドアがやけに重くて、大きな生き物が行く手をふさいでいるような手応えがあったから、あ、これもしかして、とは思ってたんだ。ドアの向こう側であたしを阻んでいるのは、弟の死体なんじゃないかなって、頭のすみでちらっと思った。でも、まさかドアノブで首つり自殺を図って、しかもそれが成功しちゃうなんてね。なんだよ、ドアノブって。腰の高さしかないじゃん。首をつろうとしたってさ、ちょっとひるんだら、いくらでも助かっちゃうじゃん。失敗確率のほうが高いじゃん。まじ? だっさ。
まじだっさいよ、弟よ。
なんだか気が抜けちゃって、部屋の真ん中で、しばらくへたりこんで壁の絵をながめていた。弟の死体を見ないですむように。
弟は死ぬ間際、何枚も何枚も、いかにも精神異常ですってかんじの絵を描いては、壁にべたべたはりつけていた。壁一面がなかなかのホラー状態。笑っちゃうのが、ちゃんとマスキングテープではっていたこと。気の小さい弟らしい。賃貸のアパートの壁にガムテープや画鋲で絵を飾ったりしたら、引き払うときに敷金を返してもらえなくなることを、まじに心配してたんだ。敷金なんか、どうだっていいのに。そんなもん、あたしがいくらだって払うのに。そういうとこ、ほんと、律儀だったんだよね。
首つり自殺をしたあとの死体って、体中のすべての穴の力が抜けて、涙からよだれからうんちからおしっこから、ぜんぶ垂れ流してまじやばいっていう話をどこかできいたことがある。弟はそんな無残な死に様はしていなかった。首つりっていっても、全身を宙ぶらりんにされているわけじゃなかったからかな。わかんないけど。想像してた悲惨な状態よりは、よっぽどきれいだった。もしかして、あたしのためかな。ちょっと思った。
汚物を垂れ流していなくても、やっぱり死体はくさい。
あたしは窓を開けて、換気扇を回し、弟を抱きかかえてちょっと持ち上げ、ドアノブに引っかかって弟を殺したひもを外して、ドアの前に横たえさせた。なんだか体勢が苦しそうだったから。苦しそうだったっていうか、苦しんだからこそ、死ねたんだろうけど。
やけに重い弟の体を持ち上げながら、これってやばいのかなってちょっと思った。
本当は、まず最初に救急車か警察を呼んで、あたしはなんにもしないほうがいいのかな。ほら、死体って、自殺とは限らないじゃん。他殺の場合、現場は保存しておかなきゃいけないのかも。ほら、現場検証のために。したら、刑事さんが来て、おやこれはおかしいですねえとか言って、探偵みたいに推理して、事件を解決していくかもしれない。なのにあたしがあちこち勝手に触ったら、きっと華麗なる推理の邪魔をしてしまうよね。まあ、いまどきの警察にそんな能力があるなんて、思っちゃいないけどさ。テレビドラマの見過ぎだよね、わかってる。やっぱ、弟が死ぬって、わりとショックでかいんだわ。思ったよりは冷静だけど、やっぱ判断力は著しく低下してるよね、うん、自覚あり。
弟の引き出しをあさった。手が震えてるのは無視。ない。ない。あった。三段目のいちばん奥。弟が隠しておいたあたしのタバコ。止めてくる弟が死んじゃったから、あたしはこれを思う存分吸える。
開け放った窓枠に半ケツ乗せて、タバコと一緒に隠されていたライターをこすって、火をつけた。思いきり肺に煙を吸い込んで、吐いた。自由の味。びっくりするくらい不味かった。
何度か吸って、灰をベランダに落としながら、弟をちらりと見た。あたしがタバコを吸ってるのに、怒りもしない。あたしは弟を褒めてあげたかったのに。よくも捨てずにとっておいてくれたねって。やっぱ、あんたって気が小さいよねって。なのになんで首つりなんて大それたことをしちゃったのかな?
返事はない。
まあそうだよね。
それにしても、なんでドアノブなわけ?
わかってる、ドラマや映画のようにはいかないよね。このアパートには天井にわたしてあるような梁なんかないから、ひもを引っかける場所がない。でもそれなら天井の照明にひもをくくりつければよかったんじゃないの? と思ったところで、あたしは気づいた。お気に入りの赤いランプシェイドが天井からぶら下がっていないことに。天井の真ん中から、電球につなげられているはずの配線が、だらりと垂れているだけだ。
窓枠からちょっと身を起こしたあたしは、部屋のすみにおいやられたゴミ袋をみとめた。半透明の袋の中に、あたしの赤いランプシェイドが入っている。リサイクルショップで見つけたレトロかわいいやつが。たぶん壊れてるし、電球は割れている。
思わず、笑い声が出た。息だけでするようなやつ、でもいきおいはいい。笑い声っていうのはいつもそう。つまりながらも気前よく口から飛び出すんだ。それが本物の笑い。いまのあたしの笑い方みたいに。カッカッカ。
ああ、弟よ!
試したんだね。ちゃんと試した! 天井から首をくくろうと思って、セオリーにのっとって、ちゃんと実践したんだ。でも、体重を支えきれなくて、配線がぶちっと切れた――で、あたしに怒られちゃまずいと思って、きれいに床を掃除して、さあやり直すぞっていって、ドアノブに目をつけたわけ?
まじで、天才!
ばっかじゃないの!
笑うっしょ、これは。やばい。まじでやばい。
笑いのきらいなところは、いきおいが良すぎて、そのままべつの何かに移り変わっていってしまうところだ。たとえばいまのあたしみたいに。お腹を抱えて笑っていたのに、いつのまにか笑い声が低くなっていって、目から出てくる涙が尋常じゃないくらいあとからあとからわいて出て、いつのまにか「笑ってる」とは言えない状態になってるところ。
あー、くっさい。
まじで死体ってくさいわ。どうしてくれる、弟よ。これじゃ、どうせ引き払うときに敷金返してもらえないじゃん。てゆーか事故物件だよ。どうすんの? 大家さんに謝れ。
そろそろ警察に電話したほうがいいかなあ。警察って何番だっけ。これ、放っといたらあたしが死体遺棄で捕まるんだよね? まじで迷惑。知らない人を家に入れるの大嫌いだって、知ってたはずでしょ。最悪。
タバコはとっくに火が消えていた。いつもなら台所で空き缶に水を入れて処理するけど、いまは台所へのドアの前に弟が横たわっている。ほんと邪魔。あたしは吸いがらをベランダにポイ捨てした。窓枠から腰をあげると、ちょっとお尻が痛くなっていた。半ケツをもみながら、弟のかたわらに座り込んで、しげしげとそれをながめた。
なんで先に行っちゃうかな。
一緒に暮らそうって言ったじゃん。共存契約結んだじゃん。
罪悪感に耐えきれなくなっちゃった? あたしはどうなんのさ。
これから、どうなるんだろ。やっぱ親戚一同に報せがいくんだよね。ニュースにはならないだろうけど。ほら、年に三万人も自殺で死んでるんでしょ? なら弟の死もだれも知らずにいるかもね。でも、親とか親戚はさすがに別でしょ? それが嫌。
あの母親と父親に会わないといけないのが嫌。
こうなったのは全部おまえのせいだって言われるのが目に見えるのが嫌。
そのご意見に一理あると思っちゃうのが嫌。
嫌。嫌。嫌。
「……葬式なんか出たくねえよ」
ぼそっとつぶやいた。怒りを込めて。
帰ってきてからのお姉ちゃんの第一声がそれって、弟からしたらさみしいかな。でもあたしの性格知ってるんだから、わかってくれるはずでしょ? あんたの葬式なんか出たくねえっての。大げさな衣装を着たお坊さん呼んで、ぽくぽくちーんとか楽器奏でながらお経唱えるわけでしょ。なんでそんなくそつまんない儀式に出席しなきゃいけないわけ。まじ無理なんですけど。あたし、そんなに悪いことなにかした?
さっきタバコ吸っちゃった罰かな。
でも、あんたが死んだのはあたしがタバコを吸う前でしょ? じゃあ違うじゃん。
じーっと弟の顔をながめる。こわくなってきた。
なに、この肉塊。弟じゃないじゃん。
でも、弟なのかな。やっぱり。弟にしか見えない。あたしの知るかぎり、これは弟が死んだらこうなるであろう弟の死体そのものだ。てことは、やっぱりこれは、弟なんだ。
真実の愛のキスとかで、起きてこないかなあ。
むらっとしたわけじゃないけど、さみしさが勝った。
髪の毛を肩の向こうにおいやって、あたしは弟にキスをした。
冷たい粘土にキスしてるみたいだった。いつもの弟じゃなかった。ぜんぜん違う。
座って、新しいタバコに火をつけた。
くそ。くそ。くそ。
キスなんかしなきゃよかった。
そうすればあんたは……まだ生きてたわけ?
ふたたび、笑いがこみ上げてきた。わかってる、ちょっと大げさ。涙の比率が多いときは、「笑う」じゃなくて「泣く」って言ったほうが正しい。でも「正しさ」なんて言葉はあたしに向かって使わないでほしい。ほんとに嫌いだから。なにひとつできてないから。
ひとしきり泣いてから、観念してスマホを取り出した。
番号はちゃんと知ってるよ。覚悟はできてる。
弟を、社会的にちゃんと死なせてやらないと。だってそれが望みだったんでしょ?
わかってる。さよならだ。
悪いお姉ちゃんで悪かったね。でもきっと、あんたは許してくれるよね。
あ、無理か。許せるわけないか。
許すも許さないも、生きてないとできないもんね。
はは。
なんか、乾いた笑いが出た。
110に電話をかける。コール音をききながら、弟に向かって口だけ動かした。
――ばいばい。
弟 みりあむ @Miryam
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
まあ、いっか/みりあむ
★35 エッセイ・ノンフィクション 連載中 82話
映画部☆活動報告/みりあむ
★19 エッセイ・ノンフィクション 連載中 85話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます