門出を迎えた青年。信じていたはずの村仲間に裏切られたので、悪魔と契約しその力で村をぶっ潰す

じゃけのそん

第1話

「結婚おめでとう」


「ありがとうございます、ラルグ村長」


 とある世界の小さな村。

 人同士の繋がりと助け合いが日常を創るこの村で、今日新たに二人の若者が、人生の門出を迎えることになった。


「アルトよ。どうかアイナを幸せにな」


「はい、任せてください」


「アイナもアルトを側で支えてやってくれ」


「はい、ラルグ村長」


 新郎、アルト・ラルグレイ。

 新婦、アイナ・ラルグレイ。


 契りを交わしたこの二人は、生まれながらにしての家族。つまりは実の兄妹であった。


「二人が無事結ばれて、私は心から嬉しく思うよ」


「俺もこの日を迎えられて、本当に嬉しいです」


「私も兄さ……じゃなくて、アルトさんと夫婦になれてとても幸せです」


 笑顔で会話を交わす、村長のラルグと新郎新婦の二人。


 幸せに満ちたそのやり取りを前に、この場に集まっていた村人達、そして今までたった一人でアルト達兄妹を支えてきた母のアイシャは、揃って涙を流していた。


 若者が減り、結婚すること自体が珍しくなってしまったこのチャネル村では、こうした実の兄妹同士の婚約を、村の意向で大々的に認めている。


 それは村の更なる発展のためでもあり、愛し合う二人の男女の真心を、何者にも侵させないためでもあった。


 故にこの村では、兄妹同士の結婚は当たり前。

 生まれながらにして、婚約する兄妹だっているくらいだ。


「君たちはこれから夫婦だ。何事も二人の力で乗り越えなさい」


 例に漏れず、アルト達兄妹の婚約は早かった。

 二人が物心ついた頃には、母親に結婚の話をされ、妹であるアイナが成人したこのタイミングで、挙式を挙げることになったのだ。


『愛し合う男女の真心を侵させないため』という村の意向が、この二人の婚約に正しく働いているのかどうかはわからない。


 でもアルトは、確かな幸せを感じていた。

 たった一人の妹を真心のままに、何者にも侵されることなく愛していいのだから。これ以上の幸せは、世界のどこを探しても見つからないのだろう。


「それでは二人とも、誓いの口づけを」


 恥じらいながらも、口づけを交わした二人。

 実の兄弟から晴れて夫婦となったこの二人の愛を、会場に集う村人達の大きな拍手が包み込んだ。






 * * *






 野外での挙式を終え、一度自宅へと戻ったアルト達。

 晴れて夫婦となっためでたい二人だが、新郎新婦としてやらなければならないことは、まだまだ残されていた。


 村の掟。


 しがらみの無いこの自由なチャネル村にも、守らなければならない決まり事がいくつか存在している。


 中でも新郎新婦に課せられる掟は、村の守り神のほこらの参拝。村の住人達の前で永遠の愛を誓ったように、神の前でも嘘偽りのない真実の愛を示さねばならない。


 今アルト達は、急ぎその下準備を行なっているところだった。


「よし、これでバッチリだな」


 先に準備を終えたアルトは、自室でアイナを待つ。

 祠を参拝する際には晴れ着に着替える必要があるので、女性であり、生まれつき身体が不自由なアイナは、特に時間がかかるのだ。


「それにしても……いいのだろうか」


 参拝のためにと母に渡された服は、とても立派だった。

 それは普段着ているような汚れた布地ではなく、まるでどこぞの貴族様が召しているような純白で高貴な厚手の服で、初めて身に纏うせいか、全然心が落ち着かない。


 下手に動いたら破れてしまうんじゃないか。そもそもこんな服、誰が用意してくれたものなんだ。不安や疑問ばかりだが、参拝にはこの服が必要らしい。


 アルト達が住むチャネル村は、お世辞にも裕福とは言えない。みんな平等に暮らしている中、自分だけが裕福な身なりでいいのだろうか。村を心から愛しているアルトだからこそ、少しの負い目を感じていた。


 先ほどの華やかな挙式といい、この服といい。村のみんなは、アルト達の結婚を心から祝福してくれている。まるで自分のことのように、二人の幸せを喜んでくれているのだ。


「幸せにしないとな」


 ならばその恩を違う形でみんなに返す。

 必ずアイナを幸せにすると、アルトは心に誓ったのだった。







「お待たせ兄さん」


 準備を終えたアイナが、車椅子でやってくる。

 服装はアルトと同様の純白色の羽織物。車椅子に乗っていながらも、その華やかさはとても際立っていた。


「もう準備はいいのか」


「うん、今終わったとこ。母さんに手伝ってもらったの」


「そうか」


 一息つき、アルトはもう一度アイナの姿を目にする。


 母に結ってもらったであろう愛らしい髪。そして催し物の際に施される化粧。こんな美しい姿の妹を、過去に一度たりとも目にしたことはなかった。


 まるで何処かのお姫様を見ている様な。

 そんな気分さえ、アルトは感じていた。


「どうしたの兄さん?」


「その……凄く綺麗だ」


 恥じらいながらのアルトの言葉に、アイナも頬を赤く染める。


「い、いきなりどうしたの⁉︎」


「ああすまん。あまりにも綺麗だったからつい」


「もう兄さんてば。褒めても何も出ないからね?」


 あたふたしている妹の姿が、アルトの目にはとても愛らしく映った。あれだけ身体が弱かった妹の晴れ姿に、目頭が熱くなる感覚さえ覚えた。


「そういえば母さんは?」


「ああうん。多分ラルグ村長とお話してる」


「そうか」


 するとアイナは自らの手で車椅子を動かし、肩に力が入っているアルトの隣へそっと身を寄せた。


「緊張してる?」


「いや、今はだいぶ落ち着いてる」


「そっか。私はちょっと緊張してるかも」


 これから二人は、村人達に囲まれたウエディングロードを渡ることになる。今までお世話になった仲間達に晴れ姿を見せる最後の機会なので、緊張するのは必然だった。


「なあアイナ。お前は今幸せか?」


「どうしたの。いきなりそんなこと聞いて」


「いや、俺と結婚して本当に幸せなのかと思ってな」


 生まれた時から決められていたこの結婚。不満は一切無いが、二人に選択の余地が無かったことには変わりない。


 故にアルトは疑問だった。

 本当にアイナが幸せなのかが。


 最愛の妹が幸せになること。兄としてそれを心から願っているからこそ、不安に思う気持ちが生まれてしまう。アイナを一番に想うからこそ、同様に悩んでしまう。


「ずっと考えてたんだ。俺なんかでいいのかなって」


 幸せを共有する相手が自分でいいのだろうか。アイナにとって、それが本当の幸せと呼べるのだろうか。今日を迎えるまで、アルトはずっと考え続けてきた。


「なあアイナ。教えてくれ」


 そしてアルトは、己の意を決した。


 これは婚約が決まってから。

 いや、兄弟になったその日から、ずっと抱えていた確かな疑問。


 誰よりも妹を愛しているからこそ。

 妹の幸せを心から願っているからこその問い。


「俺はアイナにとって、良い兄貴でいられたかな」






 * * *





 アイナは昔から、身体がとても弱かった。

 自力で立つことはおろか、物心ついた時から車椅子生活を余儀なくされ、少し身体を動かしただけで、体調を崩してしまうのは当たり前の事だった。


 1人ではろくに外出することもできず。その上人との会話にも、ある程度の制限が設けられていた。


 病気にかかれば人より重く、回復も遅い。外を走り回りたいと思っても、身体が言うことを聞いてはくれなかった。


 いつ亡くなってもおかしくはないだろう。

 そんなことを、村の医者に言われたこともあった。

 自由を持たずに生まれてきたことを恨んだりもした。


 だけど——。


 アイナはそれを何度も何度も乗り越えた。

 15年間必死に生きて、大人になることだってできた。

 これはまさに奇跡だと、誰もがアイナの健康を喜んでくれた。






「俺はアイナにとって、良い兄貴でいられたかな」


 だからこそアルトは疑問に思った。

 果たして自分はアイナの生きる力になれたのだろうか。兄として、妹の支えとなることはできていたのだろうか、と。


 本当はもっと早くに聞くつもりだった。

 でもうまく言葉が出てこなくて、気づけば挙式の日を迎えてしまっていた。それはきっと、答えを聞くのが怖かったからなのだろう。


「ねえ、兄さん」


 身構えているアルトの手を、アイナは優しく握る。

 そして瞳を真っ直ぐに見つめ、一切の迷いなく言った。


「兄さんは私の自慢に決まってる」


「……⁉︎」


 目を丸くして驚くアルトに、アイナは続ける。


「兄さん知ってる? 私がどれだけ兄さんに救われたのか」


「……えっ?」


 アルトは気づいていなかった。

 自分がどれだけアイナの支えとなっていたのか。

 アルトの優しさが、幾度としてアイナを救ったのかを。


「兄さんのおかげで私元気になれたんだよ?」


 辛い時、いつも支えてくれたのはアルトだった。寂しい時、いつも側にいてくれたのはアルトだった。一人では出れない家の外に、連れ出してくれたのはアルトだった。


 アルトがいたから、こうして元気になれた。

 アルトがいたから、頑張ろうって思うことができた。


「兄さん。今まで本当にありがとう」


 アイナは想いの全てを打ち明けた。

 あなたと夫婦になれて本当に幸せだよ。

 だから何も心配することはないんだよって。


「これからは夫婦だけど、変わらず幸せに暮らそうね」


「ああ、もちろんだ」


 実の兄妹から夫婦へ。

 それでも変わらず幸せに暮らしたい。

 アイナのその気持ちを訊いて、アルトは改めて決意した。


 必ずアイナを幸せにする——。


 兄として、夫として。

 生涯をかけてアイナに寄り添い続けると。






 * * *






「二人ともそろそろよー」


 母に呼ばれたのは、それから間も無くのこと。

 アルト達は改めて気を引き締め、揃って部屋を出た。


「あらあら、とってもよく似合ってるわ二人とも」


 二人の晴れ着姿に表情を綻ばせる母、アイシャ。

 面と向かって褒められ、アルトは照れ臭そうに頬を掻いた。


「準備不足とかはない? 大丈夫かしら」


「うん、大丈夫だと思うけど」


「けどじゃダメじゃない。これから神様にご挨拶するんだから」


 少し適当なアルトの言葉を不安に思ったのか、やれやれと言った様子で、アイシャは二人の身なりに注目した。


 まずはアルトから。


「水浴びは済ませた? 服は大丈夫なようだけど、装飾品は?」


「大丈夫。母さんに言われた通り全部済ませてあるから」


「そう、なら大丈夫ね。アイナはどうかしら」


 続いてアイシャはアイナの身なりを確認する。


「水浴びはさっき母さんと済ませたわね」


「うん、服も母さんに着せてもらったから大丈夫だよ」


「そうね。とってもよく似合っているわ。お姫様みたい」


「もう、母さんてばっ」


 えへへ、と照れ臭そうに笑うアイナ。

 いくら晴れ着姿とはいえ、やはり笑顔は年相応で可愛らしい。アルトは思わず見惚れそうになるも、イカンイカンと気を正した。


「あらアイナ、髪留めがまだ付いてるじゃない。さっきあれほど外しなさいって言ったでしょ?」


「いけないいけない。取るのすっかり忘れてた」


「もう、ちゃんと確認しないとダメでしょ?」


 そう言うとアイシャはアイナの髪留めを外してあげる。解けた髪を手で優しく梳いてもらい、アイナはとても気持ち良さそうだ。


「この髪留めはお母さんが預かっておくわね」


「うん、わかった」


 アイシャの懐に入ったこの髪留めは、アイナが6歳の誕生日を迎えた時に、母であるアイシャが、娘のアイナのためにプレゼントしたものだった。


 当時今よりも身体が不自由だったアイナに、少しでも役に立つものはないか。そう考えたアイシャが、身に付けていると不幸を払ってくれるというこの髪留めをプレゼントし、それ以来アイナはずっと大事に扱ってきた。


 自分にとっての宝物は何か。

 そう質問されれば、きっとアイナは真っ先に、この髪留めを挙げるだろう。


「結婚おめでとう二人とも」


 その後もアイシャは念入りにアイナの身なりを確認し、完璧になったところで、改めて二人に祝福の言葉を伝えた。


「ありがとう母さん」


「ありがとう」


 アルトとアイナも笑顔で答える。

 今までたった一人でアルトたちを育ててきた。その苦労を考えれば、この二人の晴れ着姿は、母にとって何よりもの喜びだろう。


 笑顔を浮かべ、アイシャは二人の背中を押した。


「さあ、村のみんなが待ってるわ。二人とも頼むわね」






 * * *





 

 家から続く、村人達によるウエディングロード。

 その先は村の端まで繋がっていて、新郎新婦の二人はこの道をゆっくりと潜って、その先の森にある祠参りへと向かうことになる。


 ウエディングロードには、特別な花や飾りが施されているわけじゃない。でもみんなからの声援、そして祝福の言葉、何よりもアルト達二人の笑顔で、この道は幸せの色に染まっていた。


「おめでとう、アルト」


「アイナもおめでとう」


 家が隣のバルーバおばさん。そしていつも野菜を分けてくれるラドルフおじさん。その他にもたくさんの人が、アルトたちを心から祝福している。


 一人一人が知り合いで、一人一人がとても大切な存在。アルトは車椅子のアイナを優しく押して、みんなとの短い会話を交えながら、ゆっくりとその道を辿った。


「体調大丈夫か?」


「うん、平気だよ」


 時よりアイナの体調を気遣いながら。

 たくさんの祝福の言葉を浴びるアルト。


「それより兄さん」


「ん、どうかしたのか?」


 ちょうど半分に差し掛かった頃、ふとアイナは言った。


「私今、人生で一番幸せだよ」


 キラキラと青い瞳を輝かせながら。

 アルトにだけ聞こえるような小さな声で。


 アイナは今までたくさんの人に支えられてきた。家族はもちろんのこと、ここにいる村のみんなにもだ。


 だからこそ、今この時が最高に嬉しい。


 無事大人になれた自分の晴れ着姿をみんなに見てもらえるのだから、アイナにとってこれ以上の幸せは無いだろう。


「ああ、そうだな。俺も凄く幸せだ」


 そんなアイナの気持ちは、アルトが一番理解している。


 アイナの笑顔。

 母であるアイシャの笑顔。

 そして村のみんなの笑顔。


 幸せなこの時間をいつまでも感じていたい。

 アルトはそう思いながら、残された道を辿った。






 * * *






 アルト達の登場からおよそ15分。

 幸せいっぱいのウエディングロードも、名残惜しくも終わりに近づいていた。


 村の端まで続いたこの道を抜ければ、いよいよ次は参拝だ。森の中にあるとされる守り神の祠を、新郎新婦の二人だけでお参りすることになる。


「あ、アルト」


 華道はなみちは最後の数メートル。

 終わりが目前に迫った時、一人の少女がアルトに声をかけた。


「おお、ルーロ。いないと思ったらここにいたのか」


「う、うん。他に空いてるところ無かったから」


 この少女はルーロ。

 ラルグ村長の一人娘で、アルト達兄妹とは幼馴染でもある。特にアルトとは小さい時から仲が良い、同年代の村娘だ。


「どうしたんだよ、浮かない顔して」


「べ、別に浮かない顔なんて……」


 いつもは快活で屈託の無いルーロなのだが、どうしてか今日は、いつもよりも元気がないように見えた。


「もしかして、具合でも悪いのか?」


「ううん。全然平気……だよ」


 アルトが心配すると、露骨に目を逸らす。

 歯切れも悪いし、明らかに体調が悪そうだった。


 アルトが首を傾げていると。


「どうかしたの、ルーロ」


 他で話していたはずのアイナも、不思議に思って声をかけてきた。


「あ、アイナ。大したことじゃないんだけど」


「ルーロ、なんだか顔色悪いよ? 大丈夫?」


「うん、大丈夫。こういう場に慣れてないだけだから」


 愛想笑いを浮かべたルーロは、誤魔化すように話題を変える。


「それよりもアイナ。身体の方は大丈夫?」


「う、うん。兄さんがついてくれてるから」


「そ、そっか。なら良かった」


 見せた笑顔もなんだかぎこちない。

 いつもはもっと自然に笑う子なんだけど。


 何か言いにくいことでもあるのだろうか。

 アルトは少しルーロのことが心配だった。


「そ、そ、そう言えば。頑張ってね祠参り」


「あ、ああ。神様に失礼のないようにするよ」


「アイナも。あまり無理はしないようにね」


「……うん」


 会話にもいつものような弾みはなく、追い打ちをかけるように、たちまち三人をこの場に合わない沈黙が包み込む。


 重い空気の中、アイナだけが何か勘付いていたようだが、らしくないルーロが心配な故に、アルトはそれに気づく様子もなかった。








「……あのね」


 沈黙を破るようにルーロが呟く。


「実は二人に話しておきたいことが……」


 何かを言いかけた瞬間。


「三人でお話かしら」


「ひっ……」


 三人の死角から、誰かが声をかけてきた。

 揃って振り返れば……そこにいたのは笑顔のアイシャ。突然のことに驚いたのか、ルーロは喉を詰まらせたような声を漏らし、ビクリと肩を弾ませた。


「アイシャおばさん……」


「あらあらルーロ。どうしたのそんな暗い顔して」


「そ、その……別に大したことじゃ……」


 目に見えて慌てているルーロの顔を、アイシャは横から覗き込む。


 何をそんなに怯えているのか。

 アルトからすれば、全くもってわからない。


(母さんと仲悪かったりしないよな?)


 そうも思ったが、おそらくそれはないだろう。

 アルトの経験上、二人はとても仲が良いはずだった。


「ほら、笑ってルーロ」


 アイシャは優しく微笑みながら、ルーロの頬にそっと手を触れる。そして何やら顔を寄せては、耳元で何かを囁いていた。


「         」



 アルト達には聞こえていない。

 アイシャの背中で、ルーロの表情も掴めない。


(どうしたんだよ一体)


 明らかに様子がおかしい。

 そうは思ったアルトだったが、訳は聞かなかった。場の空気的にも話を深堀りできる雰囲気でもなかったのだ。


「さ、二人ともそろそろよ。早く行かないと日が暮れてしまうわ」


 そう言いつつアイシャは、アルトにあるものを渡した。


 それは祠参りの際に使うための短剣。

 神に永遠の愛を誓うため、新郎新婦は自らの血で血判を押さなければならないのだが、その時に指を切る用にと、アイシャが用意してくれたのだ。


「もっと小さいのでいいけど」


「いいから。これを持って行きなさい」


 とはいえ、いささか大げさな気もする。

 血判などもっと小さなナイフで十分なのだが、せっかく母が用意してくれたものなので、アルトは有り難くそれを使うことにした。


「それじゃ二人とも、行ってらっしゃい」


「行ってきます母さん」


「行ってきます」


 そうしてアルトとアイナは、村のみんなに見送られ村を発った。


「二人とも気をつけてね!」


 その時鮮明に聞こえたルーロの声。

 アルトとアイナは笑顔で手を振り返す。






(神様、どうか二人を……)


 心の中で呟いたルーロの願い。

 それはアイナの体調を心配してのものなのか。

 それとも全く別の理由からなのか。


 二人を見送るルーロの表情はどこか儚く、悲しげで、それに気づいたのは、小さく後ろを振り返ったアイナだけだった。






 * * *






「ねえ、兄さん」


 祠まで向かうその途中。

 アイナは何の前触れもなく、アルトに尋ねた。


「兄さんはさ、今幸せ?」


「どうしたよ。いきなり」


 唐突すぎて、アルトから小さく笑みが溢れる。

 だがあくまで、アイナの面持ちは真剣だった。


 つい先ほど、アルトに聞かれたこと。

 お前は俺と結婚して、本当に幸せなのか。

 お前にとって、俺はいい兄貴と呼べるのか。


 当たり前だと返事をしたアイナだったが、彼女自身も、アルトと全く同じ不安を抱えていた。


 本当に私なんかと結婚して幸せなのだろうか。身体の弱い私が、兄さんの妹でよかったのだろうか。アイナが抱えている不安は、アルトに負けないくらい大きかった。


 今まで押し殺していたはずの不安が、こうして表に現れてしまったのは、つい先ほどのこと。悲しげな顔でアルトを見送る、ルーロの姿を見てからだった。


 いつもは元気で、頼り甲斐のある。アイナにとっては、お姉さん的存在であるはずのルーロ。


 そのルーロが、最近になってよく落ち込むようになった。アルトと話している時、突然悲しげな表情をするようになった。


 誰も気がつかなかったルーロの小さな変化。

 その変化にアイナだけは気がついていたのだ。


 そしてある時、アイナは思った。

 ルーロも自分と同じくらい、アルトと時間を共にしている。アルトのことを特別に想っているのは、自分だけじゃないんだって。


 言葉にするのは難しかった。

 だからこそアイナは、誰にも相談できなかった。


 思い過ごしかもしれない。

 そう思いたかったが、先ほどのルーロを見て確信した。


「兄さんは私と結婚できて幸せ?」


 アイナは確かめたかった。

 自分のために、ルーロのために。

 そして何よりも、愛するアルトのために。


「そうだな」


 アイナの真剣な眼差しに、アルトの表情も変わる。自分が抱えていた不安をアイナも抱えていたという事実。それを知って、少しホッとしたような気さえしていた。


 誰かに決められたこの結婚。

 思うところがなかったと言えば、嘘になるかもしれない。


 でもそれ以上に、アイナと結婚できること。世界で一番大切な人と、ずっと一緒にいられること。アルトにとっては、それがたまらなく嬉しいことだった。


「アイナがいるだけで、俺は凄く幸せだよ」


 アイナの頭にそっと手を乗せる。

 不安にさせてしまってごめんな。

 アルトはそう呟きながら、優しく頭を撫でた。


「そ、そっかぁ。兄さんは幸せかぁ」


 わかりやすく照れるアイナ。

 これにはアルトもホッとして笑みをこぼす。


 アルトが抱えていた不安。

 そしてアイナが抱えていた不安。

 互いにそれをさらけ出すことで、絆は更に深いものになった。


「それじゃ、早くお参り済ませちゃおっか」


「こらこら、無理すると身体に良くないぞ?」


「これくらい平気だよー」


 照れ隠しなのか。

 無邪気なアイナは自分で車椅子を走らせる。

 そんな彼女にはもう不安や迷いは一つもない。


(ルーロ。あなたのためにも私頑張るから)


 この時二人はようやく真の夫婦となった。

 そんな気がしていた。






 * * *






「兄さん、あれじゃない?」


 村を出発してからおよそ10分。

 ここでアイナが、何かを見つけ指差した。


 木々が開けた先にあったそれは大きな祠だった。

 上半部の広い範囲をコケが包み、まるで何かを封印しているかのように、中心部分を太い縄が交差している。


 おそらくあれが、村の守り神が眠るという祠で間違いないだろう。


「思ったよりも立派なんだな」


 神を祀っているというだけあって、そのスケールは二人の予想を超えていた。石造りなため村の建物よりも遥かに頑丈で、どこか神聖な空気さえも感じられる。


 まさに村人にとっての聖地。

 普段近づくのを禁じられているため、アルトは少しの緊張を覚えた。


「ここに血判を押せばいいんだな」


 祠の前には、二つの受け皿が置かれている。

 そこに血判を押すことによって、その二人は生涯を通じて愛し合うことができると、村では言い伝えられているのだ。


 神の前であまり長居するわけにもいかない。

 そう思ったアルトは、早速儀式に取り掛かる。

 まずは自らの指を軽く切って、少量の血液を出す。


「悪いアイナ、ちょっと痛むぞ」


 続けてアイナの指も少し切り。

 二人はそれぞれの受け皿へと向かい合った。


「それじゃいいか」


「うん」


 血判を押すというよりは、受け皿に血を垂らす感覚に近い。ピリッとした痛みに耐えながら、二人は言い伝え通り血判を押した。


 その時アルトは、祀られている神に願う。

 いつかアイナが自分の足で外を歩けるように。

 いつまでも2人で人生を添い遂げられるように、と。


 閉じていた目をゆっくりと開ける。

 するとアイナも何かお願い事をしていた。


「もういいのか?」


「うん、バッチリ」


「そうか」


 アルトは少し気になったが、願い事を聞くような真似はしなかった。


「それじゃそろそろ帰るか」


 こうして祠参りは終わりを迎え、膝をついていたアルトは、おもむろに立ち上がる。


(村に帰ったら、みんなにお礼を言おう)


 そんなことを思いながら、アイナが乗る車椅子に手を触れた。



 その時だった。


「に、兄さん……!!」


 突然アイナが、怯えた声をあげたのだ。

 何事かと、アイナの視線の先に目を向ける。







「な、なんだよこれ……」


 視界には赤黒い不穏な霧。そして喉を詰まらせるような重い空気。霧は瞬く間に広い範囲に広がり、気がつけば祠ごとアルト達二人を覆っていた。


 何かがおかしい。


 そう思ったアルトは、すぐさまアイナに身を寄せる。

 何があってもアイナだけは守れるように。


「祠参りってあれで合ってたよね……?」


「ああ、そのはずだ」


 こんなことになる説明はされていない。

 血判を押せば、それで祠参りは終わるはずだった。


 まるで心まで霧に侵食されていくように、二人を恐怖の感情が包む。逃げようにも、赤黒い霧が邪魔して帰り道がわからない。


 それに車椅子のアイナを、急いで押すわけにもいかなかった。


(嫌な予感がする……)


 霧は更に深まっていく。

 空の色さえもわからないほどに。


 そして——。


 深い深い漆黒の中。

 あいつは姿を現した。







「……なん……なんだ」


 闇のような黒に染まる大きな身体。

 影にも似たその姿は、熊の数倍は大きい。


 そして牛のように鋭いツノが二本生えた頭部。その恐ろしい面構えを目の当たりにすれば、誰もが『鬼』を連想することだろう。


 この世のものとは到底思えない。

 そう、言ってしまえばそれは……。


「……悪魔」


 アルトから咄嗟にそんな声が漏れる。

 それを聞いてしまったアイナは、目を見開かせ言葉を失った。


 これはきっと夢だ。夢に決まってる。


 アルトは自分の心に何度もそう言い聞かせたが、先ほど切った指の痛みが一向に治まらない。


 滴り落ちる血も。身が破裂しそうなほどの恐怖も。目の前で起きていることの全てが、紛れもない現実だった。


 二人がそれを悟ったその時。

 黒き化け物は尋ねた。


『此度の”生贄”は貴様らか?』







 * * *







 ”生贄”


 化け物が吐いたその一言は、二人の身体を芯から恐怖させた。祠参りだと信じていた者にとって、この光景は悪夢でしかなく、夢か現実かもわからないほどに、凄まじい衝撃と困惑に襲われていた。


 身体ごと押しつぶされそうな圧。気を抜けば気絶してしまいそうなほどの邪気。それらに当てられ、二人からはまともな言葉が出てこない。


 自分たちは村の慣わしでここに来ただけ。祠に眠るのは、村を守る神様だと聞いていたのに。蓋を開けて現れたのは、神とはほど遠い存在だった。


 人は本当の恐怖を前にすると理性が崩壊するという。受け入れ難い現実を前に、脳が拒否反応を起こしてしまうのだ。


 この時の二人はまさにそれだった。

 逃げようとすらも思わない、思えない。

 ただ現実かもわからない光景を前に立ち尽くすだけ。


「……にぃ……さ……」


 アイナに至ってはまともに声も出ない。

 それほどまでに現れた化け物の姿は悍ましく、二人に計り知れない恐怖を与えていた。


『ふむ、また異血いけつの人間か』


 そんな中、化け物何かを呟いていた。

 酷く混乱したアルトはその意味を理解できない。

 異血という言葉自体、初めて聞くものだった。


『まあ良い。その分味わいがいがある』


 続けて化け物はほくそ笑む。

 困惑していても、流石にこの意味は理解できた。


「……に、ぃさん……に、逃げよう……?」


 このままじゃいずれ喰われてしまう。

 そう思ったアイナは、アルトの手を強く握る。


「……そ、そうだ。に、逃げないと」


 怯えている場合じゃない。

 何としてもアイナを助けなくては。

 全身を恐怖に支配されながらも、アルトは気持ちを奮い立たせた。


 震えたアイナの手を、両手で包み込む。

 いつもは温かいはずなのに、その手は血が通っていないように冷たい。肌を通して、アイナの恐怖がひしひしと伝わってくるようだった。


「……兄さん」


 早く逃げよう。

 アイナの目はそう訴えかけていた。


 だがしかし——。


 此の期に及んで、アルトの足は動かなかった。アイナを連れて走りたいのに、その一歩が踏み出せない。脳が酷く混乱していて、身体を思うように動かせないのだ。


 それはまるで、生まれたての子鹿のよう。

 更には立つことの感覚さえ麻痺し始めた。

 アルトは又してもパニック状態に陥ってしまう。


『まずは娘の方から頂くとしよう』


 そうしている間に化け物の大きな手がアイナに伸びる。

 アルトは少ない気力で必死に庇おうとしたのだが、それも虚しく、最も簡単に化け物にアイナを奪われてしまう。


「やめてくれ……」


 いくら懇願してもアルトの声は届かない。

 まるで物のように、アイナを車椅子から掴み取った化け物。どこからか現れた四本の鎖が、抵抗するアイナの手足を拘束する。


「……嫌……私……嫌ぁぁぁぁ‼︎」


 恐怖から泣き叫ぶアイナ。

 妹を奪われ、心が壊れかけているアルトが顔を上げると、目の前には、まるで処刑場のような悍ましい光景が完成していた。


『さあ、拷問を始めよう』






 * * *






 このままだと殺されてしまう。

 拘束されたアイナは本能的にそれを察した。


 何とかしてこの拘束を解きたい。

 そしてアルトと一緒にみんなの元へ帰りたい。

 その想いから、アイナは力の限りの抵抗を見せた。


 しかしすぐさま身体に力が入らなくなる。

 徐々に息も苦しくなって、凄まじい脱力感がアイナを襲う。生まれつきの身体の弱さが、ここへ来て出てしまったのだ。


 激しく抵抗することができない。

 そんなアイナを前に化け物は言った。


『さあ、拷問を始めよう』


 もう逃げ出すことは叶わない。

 それを悟った瞬間、アイナの中の恐怖心が膨れ上がった。


 殺される。殺される。殺される。

 考えたくもない結末が、無理やり脳内に流れ始め、疲弊していたはずの肉体が本能のままに暴れ狂う。


 そして、次の瞬間——。


「ギャァァァァァ‼︎」


 アイナの指の爪が一枚、勢いよく宙を舞った。

 耳を刺すような悲痛な叫びが、辺りいっぱいに響き渡る。


『ふむ、良い反応だ』


 凄まじい痛みと恐怖でアイナの瞳からは涙が溢れる。

 過剰な体力消費に、すでに身体は限界を迎えているが。


「ギャァァァァァ‼︎」


 化け物は容赦なくアイナの爪を次々と剥ぎ取っていく。一枚、二枚、三枚……右手が終われば次は左手。決して一気には剥ぎ取らず、一枚ずつじっくりと。


「……もう……やめて……」


 少ない気力でアイナは助けを乞う。

 しかし化け物の拷問は止まることを知らない。


「……ギャァァァァァ‼︎」


 再びアイナの叫び声が響き渡る。

 指の爪に続いて、今度は足の爪も剥ぎ始めたのだ。


 爪が一枚剥がれるごとに、アイナの白い晴れ着は徐々に血で赤く染まり、その様子をただ眺めることしかできないアルトにも、アイナの血が雨のように降り掛かった。


 あまりにも残酷で残虐な光景。

 凄まじいまでの激痛が何度もアイナを襲った。


 そして気がついた時にはもう……アイナの手足に爪は残っていなかった。


 ようやく終わった。

 これで解放してもらえる。

 二人は一度はそう考えた。


 だが——。


「がぁっ……ギャァァァァァ‼︎」


 死よりも辛い拷問は、まだ始まったばかりだった。






 * * *






 爪を全て剥ぎ取られ、疲弊したアイナ。

 体力の限界を迎えた彼女に、化け物はさらなる拷問を与えた。


「がぁっ……ギャァァァァァ‼︎」


 アイナを襲ったのは、森に生息している大型の多足類。

 今度の拷問はその蟲を利用した体内の侵害だった。


「痛い……頭がぁっ……‼︎」


 化け物の手によって、耳の穴から体内へと侵入した蟲は、本能のまま奥へ奥へと進み、やがてアイナの脳を貪るように駆け回る。


 この時アイナを襲う激痛は、爪の時とは比べ物にならない。まるで頭を破られるような、そんな凄まじい頭痛が永遠と続くのだ。


「ギャァァァァァ……‼︎」


 疲弊しきっていたアイナが再び暴れ狂う。

 我を忘れて鳴き叫び、爪の無い両手で無意味に頭を掻き毟った。


 白く可憐な髪が自らの血で真っ赤に染まった。やがて身体の制御が外れ、体内にあった排泄物が、穴という穴から滴り落ちていく。


 もう殺して——。


 微かな気力で、アイナは願った。

 だがそれでも、化け物は殺してくれない。






 その後も化け物は、残酷な拷問をアイナに施し続けた。


 疲弊したアイナの首元に、鋭い棘のついた鉄の輪を付ける。そしてどこからか現れた鋭利な刃物で、身体中を無造作に切り刻み、暴れれば首輪についた棘が、アイナにさらなる激痛を与えた。


 更にその棘の先には、即効性の猛毒が。その毒によってアイナの身体は麻痺し、著しい呼吸困難を引き起こす。


 意識が朦朧とし、だんだんと痛みを感じなくなる。毒が全身に回ったのか、傷口からは青黒い血が、湧き水のように噴き出していた。


 死の淵に立たされたアイナ。

 そんな彼女を今度は灼熱の炎で火あぶりにする。


 熱に当てられ身体から吹き出す汗。

 その塩気で、全身の傷口が燃えるような痛みを覚えた。


「……ろ……して……」


 この頃のアイナの顔はやつれ、可憐だった髪や服は血の色に。全身をめちゃくちゃにされたその姿はもはや……もはや、生きていると呼べるのかすらわからない。


「……ろ……して……」


 蟲の鳴くような声で何度も何度も。届くことのないたった一つの願いを、アイナはすがるように囁き続ける。自分をめちゃくちゃにした化け物に向け『どうか殺してください』と。


 そんな悲惨な妹の姿を、アルトはずっと眺めていた。


 花のような笑顔が、苦痛の色に染まるその瞬間も。そして最愛の妹が、人ではない悍ましい何かに変わるその時を。


 助けることもできず、ただじっと。

 恐怖に身体を侵され、側で眺めていただけだった。







(もう……やめてくれ……)


 アルトが願った瞬間だった。


『喰らいがいがあったぞ、人間よ』


 化け物はアイナを縛っていた全ての拘束を解いた。

 手足を支えていた鎖は消え、アイナは空中に投げ出される。


「……にぃ……さ……」


「アイナ……ッッ!!」


 重力に従うまま、真っ逆さまに落下するアイナ。

 その身体を受け止めるべく、アルトは覚束ない足で駆け寄った。


 一歩、そしてまた一歩。

 少しずつ縮まるアイナとの距離。

 アルトは精一杯、震える両手を伸ばした。








 プシャッ。








 一瞬の出来事だった。


 たった数メートル。

 決して人が致命傷を受ける高さではないはずなのに。地に着いた瞬間、アイナの身体は水風船が割れるが如く弾け飛んだのだ。


「……イナ……」


 残ったのは生々しい血痕と血に染まった晴れ着。

 アイナを肌に感じられるものは、もう何一つ無い。


「……どう……してだよ……」


 凄まじい喪失感がアルトを襲う。

 ついさっきまであんなにも笑顔だったアイナが。自分を兄と慕ってくれた最愛の妹が。もうこの世界のどこを探しても存在しない。


 あの優しい声も。愛らしい笑顔も。温かな日常も……掛け替えのない全てを、一瞬にして失ってしまった。


 アルトが感じるその苦しみは、到底計り知れない。


「ぐあぁぁぁぁぁぁ……っっ‼︎」


 叫んでも叫んでもアイナが戻ることはない。

 虚しく散った最愛の妹を前に、アルトは大粒の涙を溢した。


 




 * * *






 初めはただの祠参りのはずだった。

 これは村の掟だからと村のみんなに見送られて、血判さえ済めば帰れるという母の言葉をアルトは信じていた。


 村へ戻ればお祝いの宴会が開かれる。

 その時一緒に酒を飲んで朝まで語り明かそうって、村の大人たちに言われたあの言葉、本気で信じていた。


 口づけを交わし、愛を誓い合ったあの時間。

 幸せに包まれながら、村を出発したあの感動。

 今まで生きて来た16年をアルトは心から信じていた。


 それなのに——。


 聞こえたのは祝福の言葉などではなく、アイナの叫び。

 感じるのは幸せなどではなく、息が詰まるほどの絶望。


 今アルトの目の前にあるのは、未来なんかじゃない。

 無残にも散っていった、最愛の妹の血痕だけだった。


 アルトはこの時気がついた。

 絶望を以って気づかされた。


 この世界の本当の色。

 そして自分たちが置かれていた確かな現実に。


 俺達はただ、村人やつらに仕組まれた生贄だった——。








『さあ、次は貴様だ』


 だからなのだろうか。

 化け物にそう囁かれても不思議と恐怖は感じなかった。あれだけの光景を前にしても尚、心だけは不気味にも冷静だったのだ。


 アルトはふと自分の胸に手を当てる。

 さっきまでの恐怖がまやかしかと思うほど、心臓の鼓動は安定していた。


 アイナを失った時の喪失感も消えた。これから死ぬというのに、恐怖すらも感じない。大切だったモノが、一つずつ価値のないモノに変わっていくこの感覚……。


「……そうか」


 やがてアルトは気がついた。

 心は落ち着いているんじゃない。

 もうとっくに壊れてしまっているのだと。








「どうした。殺さないのか」


 アルトは化け物に尋ねる。

 アイナが殺されてからもう随分と時間は経った。そろそろ俺の番だろうという投げやりな意味も込めて。


『貴様、恐ろしくはないのか』


「恐ろしい? 今更俺にそんな感情はないさ」


 決して嘘ではなかった。

 そしてその異変に化け物も気がついていた。


『確かに貴様からは恐怖の感情が感じられない』


「そんなこともわかるのか」


『ああ。悪魔である我には、人間の感情など手に取るようにわかる』


 その姿を目にした時、アルトが咄嗟に言ったように。化け物は自らのことを『悪魔』だと言った。


 思い返せば昔、本で読んだことがあった。

 この世界には悪魔という概念が存在している。そして悪魔は『感情を喰らう者』として、広い世界に長い年月をかけて言い伝えらえれて来た、神話上の存在だと。


『我は”拷問の悪魔”。感情の中でも人の恐怖を欲す者だ』


 悪魔にも様々な種類系統があり、描かれる形も全て異なる。その中でもこの”拷問の悪魔”は、人の『恐怖』を欲する悪魔。人から恐怖を貪るためなら、いかなる手段も選びはしない。

 

 故にアイナをあれだけ痛めつけた。

 死の狭間に置かれた人間の恐怖心を引き出すために。悪魔へ捧げる『生贄』として、アイナは村人やつらに殺されたのだ。


『我が欲するのは恐怖だ。だが貴様にはそれがない』


 恐怖がなければ、生贄には成り得ない。

 村人やつらの算段もこれでは失敗というわけだ。


「一つ聞いていいか」


『うむ。特別に許そう』


「さっきお前は俺たちを異血いけつと言ったが、あれはどういうことだ」


『言葉通りの意味だ。先の娘の血は、貴様が持つそれとは違う』


 アイナの血がアルトとは全くの別物。

 つまりは血縁関係にはないということになる。


「俺とアイナは本当の兄妹じゃなかったということか……」


 妹だと思っていた相手が、実は他人だった。

 これを知った時のショックは、到底計り知れない。

 普通なら受け入れるまでに、相当な時間を有するのだろう。


 だが——。


「……やはりな」


 アルトは違った。

 それを聞いた瞬間、全てが腑に落ちたのだ。


 自分とアイナは本当の兄妹ではない。

 それを初めて疑ったのは、アルトが物心付いた頃だった。

 妹であるアイナの子守を母に任され、二人で遊んでいた時。


(何でアイナは、僕と髪の色が違うんだろう)


 不思議だった。

 母とアイナは可憐な白い髪をしているのに、兄であるはずの自分だけが、夜の闇のような黒髪だったのだから。


 おかしい。


 当時のアルトはそう思い、すぐに母に尋ねた。

 しかし『そういうこともあるのよ』と、上手く言いくるめられ、それ以上深く追求するようなことは、なるべく避けて生きてきた。


 今思うとおかしなことだらけだった。

 家族であるはずなのに、目の色も自分だけが異なっていたし、アイナとは兄妹なはずなのに、顔立ちも決して似ているとは言えなかった。


 生まれた時期だってそうだ。


 アルトの生まれは真冬。

 母から聞いてそれは知っていた。

 そしてアイナの生まれが夏だということも。


 アルトは今年で16歳。

 15歳のアイナとは、1年も歳が変わらない。


 なのに二人は兄妹として過ごしてきた。

 たった数ヶ月で次の赤ん坊が生まれるはずがないのに。


「アイナは俺の妹じゃない……か」


 今までたくさんのことを疑い。そしてその全てをかき消されて育ってきた。それは全てこの時のためだったのだろうと、アルトは察する。


 泣きたい、苦しみたい。

 アイナの死を少しでも噛み締めたい。

 そう思ったがダメだった。


 事実を知っても何も感じやしない。

 死ぬとわかっても涙の一滴も出てこない。


『貴様、本当に人間なのか』


「さあ、俺にもよくわからない」


 それには悪魔も尋ねるしかなかった。

 お前は本当に感情を持った人間なのかと。


 アルトは事の全てを知った。

 だが目の前に、救えるものはもう何もない。


 母親に騙され。

 村のみんなにも騙され。

 心から愛した妹も殺された。


 帰る場所も行く場所も無い。

 生涯を掛けて守りたいものも無い。


 過去も未来も全てが灰となって消えた。

 そんなアルトに一体何があるというのか。


『……憎悪』


 不意に悪魔は呟いた。


『貴様からは憎悪を感じる。それもかなりのものだ』


「憎悪……?」


 気にはなっていた。

 このふつふつと湧き上がる感情が何なのかと。


『貴様のような人間を見るのは、これが初めてかもしれない』


 悪魔が言うならきっとそうなのだろう。

 アルトは今、凄まじい『憎悪』を抱いている。

 そしてその矛先は、考えるまでもなく村人やつらだ。


『面白い。貴様は本当に面白いぞ』


 愉快そうに悪魔は笑った。

 人の恐怖を喰らうこと以外で、こんなにも気分が満たされたのは初めてのこと。それだけで悪魔の中でのアルトの存在価値が、生贄以上のものとなったのだ。


 殺すのは勿体無い。

 やがて悪魔はそんな考えすら抱いた。


 膨大な憎悪を抱いた人間の行く末を確かめたい。

 絶望すらも超えたアルトがその命をどう燃やすのか。

 悪魔はそれが見たかった。


『憎悪に塗れた人間よ』


 そして悪魔は一つの提案を持ちかけた。

 

『我を楽しませる気はないか』








 * * *







 悪魔は言った。

 我の力を貴様にやる。だから貴様は、貴様の望むままに世界を創れ。その先に我の望む真の未来があるはずだ、と。


「俺は何を得られる」


『全てだ。我の力の全てを貴様に託そう』


「それで村人やつらに復讐できるのか」


『もちろん、容易いだろうな』


 悪魔の力を授かれば、村人やつらに復讐もできる。

 あのクソみたいな人間供を一様に皆殺しにできるのだ。


「お前はそれでいいのか」


『ああ、構わない』


 アイナの仇が撃てる。

 悪魔も俺に力を貸すつもりでいる

 その事実を前にアルトの心は決まった。


「わかった。俺がこの腐った世界をぶっ壊す」


 どうせ一度死んだような命。

 使うなら徹底的に村人やつらを殺すために使う。

 この腐った世界に生きる人間を地獄に落とすために。


 ただ殺すだけじゃ足りない。

 アイナが受けた以上の苦しみを与える。

 それでなければ、アルトの気が収まらなかった。


 アルトの憎悪は本物だ。

 人の域をとうに超えていた。

 それを悟り、悪魔も愉快に笑う。


『いい憎悪だ、人間よ』


 そして悪魔はアルトに自らの全てを授けた。

 ”拷問の悪魔”と呼ばれる、世界に深淵をもたらすその力を。






 * * *






 アルトとアイナを送り出した後。

 村では今夜行われる宴会の準備が着々と進められていた。


 15年に一度やってくる節目の日を、無事に乗り越えられた。その達成感が村人達の緊張に綻びを与え、村の中は笑いと活気で溢れる。


 火起こしのためのたきぎを運ぶラドルフも。宴会で囲む酒や料理を準備するバーバラも。誰もが村の安泰を喜び、お互いの15年を称えあった。


「しっかし、一時はどうなることかと思ったな」


「ああ、運良く貴族落ちが村に来てくれてよかったわい」


 この村にいる誰もが、アルトたちの末路を知っていた。

 森に建てられた祠が、村の守り神の祠ではないことも。


 それなのに二人の安否を心配するような声はない。

 二つの尊い命が絶たれたことで、涙を流している者もいない。


「ほんと、アルト達あいつらが居てくれて助かった」


 それどころか、誰もが安寧あんねいを感じていた。

 無事やり遂げたという、達成感で満ちていた。


 尊い命が二つも失われたというのに。

 今自分が生きていることを、何よりも喜んでいた。


 ずっと前からアルト達は、こうなる運命だった。村人達にとって、二人は同じ村の仲間などではなく。自らの居場所を守るために使う、生贄でしかなかったのだ。


 15年に一度目を覚ますとされる悪魔。その悪魔を封じるためには、二人の生贄が必要だった。村を脅かす災厄に、人の命を捧げなければならなかった。


 村人たちは揉め、一度は争いも起きかけた。

 誰もが他人のために、自らの命を使うことを拒んだのだ。


 そんな時生まれたのがアルトとアイナだった。

 誰もがその誕生を喜び、生贄に利用することで合致。まだ幼い二人を兄妹とし、管理しやすい環境を築いた。


 今日まで15年。

 村人達はこの日のために、15年間かけて備えて来た。


 だからこそ、安心してこの日を迎えられる。

 だからこそ、こうして美味い酒を好きなだけ飲める。

 この時村の誰もが、心の中でそう思っていた。


 村の平和のために人が二人死んだ事実など、些細なこと過ぎない。今はただ、この喜びを村の仲間達全員で分かち合いたいと。


 互いの15年を称え合う。

 村の安寧をとことん盛大に祝う。


 そのためにアルト達は生まれ、嘘まみれのこの村の中で、生涯何も知ることなく、幸せに暮らして来たのだ。




 * * *




 夕暮れ時。

 村を挙げての宴会は盛大に幕を上げた。


 村や森で採れた作物をふんだんに使った料理。そしてこの時のために用意された、特上の酒。燃え盛る薪を囲んだ村人達が、15年の成果を噛み締める。


「今夜は祭りじゃ! じゃんじゃん飲め飲め!」


 男達は騒ぎ、女達は踊る。

 何も知らない子供達は、笑顔で外を駆け回っていた。


 悲しみも罪悪感もない。

 そんな雰囲気の中、一人の少女だけはある疑問を抱く。二人を見送った時の光景が脳裏に浮かび、胸が苦しくなる。


(どうしてそんな顔できるの……)


 その少女はアルト達の幼馴染。

 家族のように親しかった、村娘のルーロだった。


「何やってるルーロ! まだまだ酒が足りてないぞー!」


「い、今持っていくから」


 恐ろしくて仕方がなかった。

 アルト達を忘れ、笑っているみんなの顔が。

 誰かの犠牲で成り立っているこの村の平穏が。

 

 なぜ平気なままいられるのか。罪悪感を感じたりはしないのだろうか。目の前に広がる異様な光景に、不気味ささえ感じていた。


 だからルーロは、必死に働いた。

 身体を動かせば、少しだけ気が紛れる気がしたから。みんなと話せば、少しだけ罪悪感が薄れた気がしたから。


 でもそれは、一時の幻想でしかない。

 アルトとアイナは、生贄として命を落とした。

 その事実は、何があろうと変わらないのだから。


(アルト……アイナ……)


 二人のことは決して忘れたくない。

 できることならもう一度会って謝りたい。

 また三人で、幸せな日常を過ごしたい……。


 ルーロは泣いていた。

 誰もが笑う中、たった一人で。


「ルーロ! こっちも酒が切れた!」


「……う、うん、すぐに用意するから」


 でもその涙は、誰にも見せられない。

 この悲しみは、誰とも共有できない。


 だってこの村は、歪んでいるから。

 ここに本当の幸せなんてないのだから。


(……二人とも、ごめんね)


 ルーロはずっと苦痛だった。

 事実を知らされた時からずっと。


 今日が来なければいい。

 いつか二人に真実を打ち明けよう。

 そうやって今までずっと一人で悩んできた。


 どうにか二人を助けてあげたい。

 その想いから、一度は村を出ることまで考えた。


 でも結局、それはできなかった。

 恐ろしかったのだ、村のみんなが。


 自分のことを第一に想ってしまった。

 願うだけで何もできなかった、そんな自分が憎い。


 ルーロは愛していた。

 掛け替えのないアルト達との日常を。

 愛していたからこそ、この苦しみを感じているのだ。


「ルーロ、あんたもそろそろ座ったら?」


「う、うん。この用事が済んだらそうする」


 ルーロは必死に働いた。

 人一倍酒や料理を運んだ。


 自分は決してそれらを口にせず。二人を失った悲しみを、たった一人で背負いながら。




 * * *




「ん、森の方から誰か来るぞ?」


 活気にあふれた空気の中。

 ふと、誰かがそう口にした。


「旅人かね?」


「こんな時間に冗談だろ」


 宴会の場は、少しのざわつきを見せる。

 だが誰もその存在を確かめようとはしない。


 なぜなら今は祝祭の時だから。

 この楽しい時間を邪魔されたくはない。

 誰もがそうやって、自らの15年を守ろうとした。


 しかし——。


「……アルト?」


 ルーロだけがその存在に気づいた。

 驚きのあまり、運んでいたお酒を落としてしまう。


「アルトだって? んなわけあるかよ」


「そうだそうだ。あいつならもうとっくに喰われちまってる」


 アルトが生きているはずがない。

 あいつなら妹と一緒に死んでるはずだ。


 ルーロの言葉に、誰もが笑いこけた。

 酔っ払ってるのかと、水を持ってきた大人もいた。


 だが——。


「……お、おい、よく見てみろよ」


 一人、また一人。

 村人達は自らの言葉を改めた。

 あれは確かにアルトだと、青ざめた顔で口ずさむのだ。


「あいつが生きてるわけねぇ……」


 そしてついには、農夫のラドルフも立ち上がる。

 酔った足取りで、村に近づく人影の方へ歩み寄ると。


「間違いねぇ……アルトだ」


 やはりその人影はアルトだった。

 なんでアルトが生きて帰ってきたかわからない。

 ただラドルフは、確認しておかねばならなかった。


 自分達が15年かけて積み上げてきたもの。

 己の命、そして村の安寧を何としても守るために。


「アルト、なんで帰ってこれた」


 アルトを目の前にしたラドルフは言った。

 酔いなど忘れ、湧き上がる怒りに従うまま。


「なんでテメェが生きてんだよ!」


 白い晴れ着は真っ赤に染まっている。

 一緒に行ったアイナの姿も見当たらない。

 間違いなくアルトは、悪魔と対峙していた。


「どうやって生き残った。悪魔は封印できたのか⁉︎」


 だが、わからなかった。

 本当に悪魔を封印できたのか。

 本当に安寧を手に入れられたのかが。


「答えろ! アルト!」


 ラドルフは声を荒げた。

 感情のままアルトに問い詰めた。


 一方アルトは何も答えない。

 ずっと俯いたまま、立ち尽くしているだけだった。








 ゴロン。


 何かが地面に転がった。

 今までアルトの胸ぐらを掴んでいたはずの何かが。


 一瞬の出来事な故、村の誰もがそれに気づかない。

 失った本人ですら、それを認識するのに数秒を要した。


「ぁぁっ……」


 そこにあるはずの腕がない。

 勢いよく吹き出す血を目の当たりにしたその瞬間、ラドルフの怒声が、悲痛な叫びに変わった。


「……ぅ、腕がぁぁぁぁっっっっ‼︎」


 辺りに血を撒き散らし、慌てふためくラドルフ。

 痛みに苦しむ彼の叫びで、至福の時は終わりを迎えた。






 * * *






「どうやって生き残った。悪魔は封印できたのか⁉︎」


 目の前で人間が何かを言っている。

 とても乱暴な口調だった。


「答えろ! アルト!」


 やがて人間は胸ぐらを掴んだ。

 着ていた服がビリっと高い音を鳴らした。


 うるさい。


 ただそれだけははっきりしていた。

 だからアルトは、腰に下げていた短剣でその腕を弾いた。







 ゴロン。


 人間の腕が地面に転がる。

 そして間も無く人間の怒声は叫びに変わった。


「……ぅ、腕がぁぁぁぁっっっっ‼︎」


 切り口からは噴水のように血が噴き出す。だが不思議と罪悪感や嫌悪感は感じられない。むしろアルトの目には、叫び狂う人間の姿が愉快に映った。


「アルト……何てことしやがる……!」


 激痛に耐えながら、怒りをあらわにする人間。

 よく見るとその人間は、農夫のラドルフだった。


「貴様……ただじゃ済まさねぇ……」


 残った腕で小さな斧を構えるラドルフ。

 アルトの頭をかち割るべく、振りかざしたその腕を。


「ギャァァァァァ‼︎」


 アルトは容赦なく、短剣で切り落とした。


「……ハァ、ハァ……て、テメェ……」


 やはり何も感じない。

 知り合いが両腕を失ったのに。

 アルトの心は不気味なほど平静だった。


 気がつけばあちこちから聞こえる悲鳴。その全てがスッと身体の中に溶け込んでくる。まるで心地の良い音に身を包まれているような、そんな気分。






『もっとだ。もっと楽しめ、人間よ』






 そんな時。

 アルトの脳裏に声が響いた。






『貴様の憎悪はこんなものじゃないぞ』








「拷問する」


 その声に導かれるように。

 アルトは更にラドルフを痛めつけた。


 頭皮ごと髪を毟り取り、両耳をナイフで切断し、憎たらしい目つきの瞳を、二本の指で押し潰した。


 凄まじい激痛から、ラドルフは獣のように喚き狂う。

 その悲鳴がまた、アルトの欲望を根っこから刺激した。


「……ギャァッ……ァァアアアア!!!!」


 堪らなく快感だった。

 噴き出す血も、鳴き叫ぶ人間も。

 全てが全て、快感に変わって身に染みた。


 もっと痛めつけたい。

 もっと人間の叫びを堪能したい。

 その思いがアルトの欲望を更に掻き立てる。


「……もう……辞め……れ……」


 両目、両耳、両腕を失ったラドルフ。

 この時点で身体のパーツはもうほとんどない。

 しかしアルトは、それでも容赦はしなかった。


 身体が蜂の巣になるまで滅多刺しにし、残っていた両足を片方ずつ切り落とす。そして最後は、忌まわしい顔を首根っこから切り飛ばした。


 まるで玩具のような、バラバラ死体が地面に転がる。






 これで1人。






 ラドルフの無残な死を目の当たりにし、逃げ惑う村人達。アルトはその中から最も簡単に、一人の人間を具現化させた鎖で拘束した。


 その人間は、隣の家に住むバーバラ。

 アルトはバーバラを捕まえると悪魔のように嗤う。


「いやぁぁぁぁっっっっ!!」


 そしてまずは指の爪を剥いでいく。

 右手から一枚ずつゆっくりと、両手両足に至るまで全て。


 痛みから助けを乞うバーバラ。

 だが爪を剥ぎ終えれば次は、多足類による蟲の刑だ。アルトは偶然にも近くにいた蟲を捕まえると、耳の穴から体内に入れた。


「……かぁっっ!!」


 蟲の活きが良かったのか。

 それともバーバラの身体が脆いだけなのか。

 蟲を入れて数分で、バーバラは動かなくなってしまった。






 これで2人。






 その後もアルトは、様々な方法で拷問を続けた。


 残っていた大人たちは、数人まとめて拘束し。燃え盛る炎を利用して、時間をかけて火あぶりにする。


 泣いてうずくまる子供たちは、一人ずつ頭を潰した。小さな頭に触れた手に少しずつ力を加えれば、押し出されるように目玉が飛び出し、やがて『グシャッ』という軽快な音と共に、首から上が弾け飛んだ。


 その時に聞こえてきた頭骨が砕ける音。

 そして恐怖に染まる他の子供達の表情。

 アルトにとってそれは堪らないご馳走だった。


 自分が想い描いたように人が死ぬ。

 まるで虫でも潰すかのように簡単に。


 燃やしたいと思えば、好きに炎を操れ、拘束したいと思えば、鉄の鎖が対象の身動きを封じた。それ以外にも想像すれば大抵の物が形となって現れた。


(もっとだ。もっと殺したい)


 アルトは当然そう思った。

 この力を使って、もっと人間を殺したい。

 妹が受けた以上の苦しみを与えてやりたいと。







「アルト」


 ふと、誰かがアルトの名前を呼ぶ。

 血で汚れたその手に、背後から優しく触れながら。


「アルト、私だよ」


 アルトは振り返らない。

 でもその声は再び彼の名前を呼んだ。


 手に伝わる確かな温もり。

 そして懐かしさを感じる声。

 アルトはおもむろにその場を振り返える。


「やっとこっち向いてくれた」


 そう言って優しい笑みを浮かべた少女。

 その顔をアルトははっきりと覚えていた。


「……ルーロ」


「うん。そうだよ、アルト」


 アルトを前にしても怯えない。

 それどころか安心したように微笑んでる。

 そんなルーロを前に、アルトの足は止まった。


「なぜお前は笑っている」


 不思議でしかなかった。

 なぜこの状況で笑顔になれるのか。

 逃げ出さないその理由は一体何なのか。


 ルーロは何度も目にしたはずなのだ。

 村人達がアルトの手で残虐に殺される瞬間を。


 その証拠に顔や服には、たくさんの血が付着していた。

 ルーロに傷はないので、これらは全て村人達の返り血だろう。


「なぜ自ら俺の元に来た」


 そんな中、ルーロは自らアルトに歩み寄った。

 仲間を殺した悪魔を前に、笑顔を浮かべたのだ。


 理由が知りたい。


 そう思ったアルトはルーロに尋ねた。

 どうしてそんなに平気な顔ができると。

 すぐには殺さず、彼女の答えを待った。


「だってそれは——」


 そして、答えを待つアルトに。

 ルーロは瞳を潤ませながらこう呟いた。


「大好きなあなたと、また会えたから」









 大好きなアルトとまた会えた。

 その気持ちは、紛れもなくルーロの本心だった。


 二人が村を発ったあの時。

 あれからずっと、ルーロは自分を責め続けた。


 自分のせいで二人は命を落としてしまう。

 そう考えると、胸が張り裂けるように痛んだ。


 もう一度会いたい。

 会って全てを謝りたいと、本気でそう願っていた。

 許してもらえないことは、百も承知していた上でだ。


 だからこそ嬉しかった。

 こうして再びアルトに会えたことが。


 だからこそ苦しかった。

 自分達のせいで、アルトを変えてしまったことが。


「ごめんなさい、アルト……」


 ルーロは何度も謝った。

 苦しい思いをさせてごめんね。

 全てを背負わせてごめんね、と。


 許されようとはこれっぽっちも思わなかった。

 二人を見捨てた自分に、そんな資格は無いとも思った。


 ルーロはただ伝えたかったのだ。

 自分の素直な気持ち、そしてたった一つの願いを。




「アルトには、生きて欲しい」




 辛いかもしれない。苦しいかもしれない。

 でもアルトにだけは、生きていて欲しかった。

 生きることを諦めて欲しくなかった。


「ご、ごめんね。急に変なこと言って」


 ルーロから堪えていたはずの涙が溢れる。

 それは決して、死の恐怖に怯えての涙じゃない。

 アイナを失った、アルトの辛さを知っての涙だった。


 この村に生まれてから16年。

 ルーロはとても幸せな日常を送ってきた。


「最後にこれだけは言わせて」


 そんな日常があったのは、アルトがいたから。

 アルトのことを、心の底から愛していたから。







 私はあなたと出会えて、本当に幸せだったよ——。







 ルーロは笑っていた。

 最後までその笑顔を絶やすことはなかった。


 苦痛という二文字に侵されることはなく。

 安らかにその幸せな生涯を終えたのだった。







 * * *







 最初の悲鳴が上がってからほんの数十分。

 宴会をしていた57名の村人全員がその命を落とした。


 家や田畑などの施設は全て崩壊。それに加え、死体とも呼べない肉の塊があちこちに散らばっている。そこにはアルト達が育ったチャネル村の面影は無く、まるで戦乱の後のような、酷い景色が広がっていた。


 だがその中に、村長のラルグと母であるアイシャの死体だけは、確認することができなかった。

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門出を迎えた青年。信じていたはずの村仲間に裏切られたので、悪魔と契約しその力で村をぶっ潰す じゃけのそん @jackson0827

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