「その世界」へ

MenuetSE

 

 僕は「その世界」の入り口に立っていた。足を踏み入れるかどうか、まだ迷っている。決心がつかない。何ヶ月も悩んでいたが、とうとう入り口まで来てしまった。高校を卒業し、もう18だというのに決断できない自分が情けない。

 迷っている僕をよそに、僕の横をすり抜けて、一人、また一人と「その世界」へ入って行く。僕の同級生もいる。つい先週一緒に高校を卒業した連中だ。彼らの顔に迷いはない。それどころか笑顔すら浮かべている。なぜ、そんなに事も無く入って行けるのだろう。

 「その世界」についてはいろいろと聞いている。事実もあれば、憶測もあるだろう。ある人は言う、「その世界」は自然界を滅ぼすと。空気と水を毒に変えると。死をもたらすと。しかし、ある人は言う。人に喜びを与えると。また、人が生きて行くためには必要だと。


 「その世界」に少しだけ耳を傾けた事がある。恐る恐る耳をそばだてる。混沌が伝わってきた。無数の喜びや悲しみを飲み込んで渦巻く世界が感じられた。何千もの死者の思いが聞こえる。何万もの呻きが聞こえる。しかし一方で、楽しげな家族の語らいがよぎって行く。背後では何百万もの労働者が働いているざわめきが響いてくる。

 いったいどんな所なのだろう。もちろん「その世界」に入ってみれば分かる。皆、次々と「その世界」に入って行くのだから、躊躇する理由なんか無い、そんな声が背中を押す。でも、僕はまだ留まったままだ。何か忘れている事はないだろうか。


 これまでずっと「その世界」の「外」で生きてきた。こうして高校を卒業して、いよいよ「その世界」に入る事が許される。この与えられた機会を拒絶して良いものだろうか。ただ、「その世界」は昔からあるものではないと聞く。近代以降に徐々にできてきた世界だ。だから僕の曽祖父さんは、こんな事で悩む必要は無かっただろう。「その世界」が存在しなかったんだから。


 「その世界」に一旦入ってしまうと、もう抜け出せないらしい。これは恐ろしい事だ。まるで麻薬のようだ。だから、今どうするかの決断が重要だ。このまま「その世界」の「外」で生きて行くか、皆と同じように「その世界」に飛び込むか。「外」にいては、惨めな一生を送ることになるというのは本当だろうか。「その世界」で楽しく快活に生きて行く人達を横目に、パッとしない人生を送ることになるのだろうか。


 考えてみると、これまで「外」の世界で生きてきたが、それなりに充実した日々を送ってきた。もちろん、これから大人になって行くのだから、これまでとは違って「その世界」に生きる必要があるのかもしれない。少し甘えた考えかもしれないが、このまま「外」で何とか生きて行けないだろうか。「その世界」の恩恵は享受できないが、逆にそれがもたらすかもしれない災厄からは無縁で居られるし、加担する事も無い。


 僕の頭は堂々巡りに陥っていた。もう、考えても結論は出ない。気がつけば、ずいぶんと長い時間ここに立っている。目の前は「その世界」の入り口だ。そんな時、祖母の事を思い出した。祖母は「その世界」に入らず、ずっと「外」で生きてきた。祖母は僕に、それはそれは不便で大変だった、という話しをしてくれた事がある。でもどうだろう。祖母はとても素敵な人だ。「外」でもできる、地味でささやかな趣味を楽しんでいた。街から出ることは少なかったが、近所の人と仲が良く、いつも笑顔で世間話に花を咲かせていた。美味しいおはぎを作ってくれた。僕が言うのも生意気だが、いい人生を送っている。


 ふと、「その世界」について悩んでいた自分がちっぽけに思えた。なぜ「その世界」に拘っているのだろう。別に強制されている訳じゃない。そして、やっと決心がついた。

「人は人だ、僕は僕だ」

 僕は顔を上げると踵を返した。後ろの受付から声がする。

「お客様、入校の受付はこちらですが。お帰りですか」

「ええ」

 僕はさっぱりした気分で、自動車学校を後にした。

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