ビーナスの泪

 期末試験が終わって一息ついたのも束の間、夏の大会に向けた本格的な練習と塾の往復で、汐理の生活は毎日慌ただしかった。


 その日は夜から塾の授業が入っていた。部活を終えて一旦帰宅し早めの夕食を済ませると、汐理は再び家を出て塾へと向かった。


 夏の夕暮れ時はまだ明るい。住宅街はそこそこ人通りが多く、所々に下校途中の中学生の姿もある。

 家々から夕食の準備の香りが漂う中、帰路とは逆方向に足を進めるのはなかなか気が重かった。


 住宅街の中にある小さな公園の前を通った時、公園内のベンチの傍に、中学生くらいの四、五人の女子が集まっているのが目に入った。

 ほとんどが私服姿だが、一人だけ汐理の中学校の制服を着た子が混じっていて、何気なく目を向けたら風香だった。

 風香は黒髪だが、周りの子はうっすら髪を染めたり高いヒールのサンダルを履いていたり、中学生にしては派手な身なりだ。へえ、こんな子たちと付き合ってるんだ。汐理が近寄りたくないタイプの子ばかりだ。

 

 見つからないうちに通り過ぎようと足を早めた時、通りに顔を向けた風香と一瞬目が合ったような気がした。


「お姉ちゃん」


 風香は馬鹿だ。こんな状況で私を呼ぶなんて。

 風香は姉の顔を見た友人から笑われるだろうし、私も惨めな思いをして、お互い嫌な気持ちになるのに―――


 妹の声に気付かなかったふりをして、汐理は足早にその場を去った。




 *




 長い授業を終えて帰宅した時には、英単語が頭の中で鳴り響き、疲労も重なって頭痛を感じるほどだった。

 早くお風呂に入って寝ようと、自分の部屋の箪笥を開けたら、風香のパジャマが入っていた。どうやらお母さんが二人のパジャマを入れ間違えたようだ。


 この時間帯はおそらく彼氏との電話タイムだろう。風香の元に行くのは気が進まないが、汐理は仕方なくパジャマを手に隣の部屋のドアを叩いた。珍しく話し声が聞こえない。もう寝ているのかな。汐理はそっとドアを開けた。


 風香は壁の方を向いてベッドに潜り込んでいた。


「風香、パジャマが逆になってた」

「……ありがと」

「具合悪いの」


 こちらに顔を向けた風香を見て、汐理は口を噤んだ。目が充血し、うっすら潤んでいる。


「……どうしたの。何かあったの」


 風香はむくりと起き上がると、目の潤いを誤魔化すかのように手でゴシゴシ擦り、小さく笑った。


「欠伸しただけだよ。すごく眠くて」

「嘘。何かあったんでしょ」


 風香は無言でベッドから降りると、汐理に背を向けて箪笥に向かった。


「私、他校の先輩から目をつけられちゃったんだ」


 腰を屈め、一番下の引き出しを開けて私のパジャマを引っ張り出す。


「北中のテニス部に格好良くて人気の先輩がいて。先週の北中との練習試合で、その先輩がタオルを落としたけど気付かず歩いてたから拾って渡しに行ったの。その時少し話したら、北中の女の先輩達から目をつけられて。呼び出されてすごく怒られた」


 風香はパジャマを入れ替えると、気まずそうな顔を汐理の方に向けた。


「―――さっき公園で。お姉ちゃんに見られちゃったかな」


 汐理は何も答えられなかった。信じたくない事実だった。自責と後悔の荒波に飲まれ、胸が詰まる。

 あの女子達は風香の友達ではない。風香をいじめていたのだ。そして汐理は妹からのSOSを無視してしまった。

 妹が辛い思いをしていたのに。姉を信じて、勇気を出して助けを求めてくれたのに。私は自分の事しか考えていなかった。自分が笑われる事を恐れるばかりに妹に気付かないふりをして―――


「……ごめん。私、風香を守れなかった」

「いいの。気にしないで。お姉ちゃんを面倒な事に巻き込んじゃってたかもしれないし」


 はい、と風香から渡されたパジャマを汐理は無言で受け取った。鼻が赤くなっていても睫毛が濡れていても、風香はやっぱり可愛い。こんなに可愛くて友達もたくさんいるのに、どうしていじめられるのだろうか。


 汐理の心の声が聞こえたかのように、風香は伸びをしながら明るく言った。


「美人も色々大変なんだよ」




 ふと、いつかのさつきの言葉を思い出した。


 ―――注目されるのもある意味大変そうだけどね。


 そういう事だったのか。

 風香とさつきの言葉が頭の中で繋がった。


 人間は欲深い生き物だ。女性なら誰もが可愛くなりたいという願望を持っている。

 そんな世の女性達の願いを“遺伝”という不可抗力で易々と叶えた風香は、絶大な人気と同時に、人一倍大きな同性からの嫉妬や妬みも無条件で手に入れる事となってしまったのだ。容姿に恵まれた人にしか分からない苦しみ。教室の隅でひっそりと学校生活を送っている汐理には無縁の苦しみを。

 

 風香を呼び出した先輩も、イケメンに話しかけたのが非の打ち所がない美女だったからこそ余計に鼻についたのだろう。

 

 汐理ははっとした。先輩に対して怒りが込み上げていたが、よく考えたら私も同罪じゃないか。

 長い間風香に嫉妬し、僻み、冷たく当たった。先輩の仕打ちは一回きりだったが、私は数年に渡り風香との交流を避けてきた。先輩の事を悪く言える立場ではない。私も先輩と同じくらい―――いや、それ以上に陰湿な加害者だ。


 風香の勉強机に目をやると、ティーン向けのファッション雑誌が無造作に開かれ、辺りにプチプラのコスメが散らばっていた。

 美人は色々大変なんだよ―――風香の言葉は自慢や自惚れではなく、自然とこぼれた本心なのだと分かった。

 時に女の嫉妬や僻みを受けながらも、周囲の期待を裏切らぬよう、風香なりに日々努力してきたのだろう。“美しい風香ちゃん”で居続けるために。

 

 


 「風香」


 数年ぶりに、汐理は温もりを込めて妹に声を掛けた。

 ベッドに戻ろうとしていた風香が振り返る。 

 細くて小さな妹の背中。まだたったの十三歳なのだ。

 この歳で周囲からの羨望や妬みを一人で背負うのはあまりにも早すぎる。

 

 「クラシック、興味ある? オーケストラのコンサートのチケットを申し込んでるの。もし当たったら一緒に行かない?」


 風香は目を瞬かせた後、破顔した。


 「いいの? 嬉しい。お姉ちゃんがいつも部屋で聴いてるクラシック、私も好きなの。良い曲だよね」


 ろくに会話もしていないのに、風香が隣の部屋から漏れ聴こえるクラシックを好いてくれていた事を知り、汐理は再び胸がチクリと痛んだが、同時に嬉しかった。


 「抽選だから当たるか分からないけど」

 「当たらなかったら買い物に行こうよ。お姉ちゃんのパジャマ、もうこんなに古くなってる。駅前に可愛い部屋着を売ってるお店があるよ」


 昔と変わらず接してくれる風香に、申し訳なさと感謝の気持ちが溢れる。


 風香は私を許してくれるだろうか。きっと私の言動に多々傷付いてきた事だろう。今更寄り添おうとするなんて虫が良すぎるかもしれない。

 それでも、私は風香の唯一無二の姉なのだ。ひねくれた性格を完全に変えるのは難しいかもしれないが、せめて風香にとって心強い味方でありたい。


 「いいよ。可愛い部屋着、風香に選んでほしい」


 汐理の返事を聞いて嬉しそうに頷く風香の顔は、学校のアイドルではなく、彼氏の前の顔でもなく、あどけなさの残るただの甘えっ子の妹の笑顔だった。


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小さなビーナス 三山 響子 @ykmy

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