ただ背中をシャリシャリされる話
ぴよ2000
第1話
僕は身体が固い。
長座対前屈はクラスで最下位。開脚ストレッチをしても脚の角度は70度位しか開かず、鋭角な股の開き具合を眺める度なんとも虚しい気持ちになる。いや別に、体操選手になるつもりも運動選手になるつもりも毛頭ないのでこれはこれでもいい。
脚はもう諦めた。
厄介なのは、背中に手が届かないことだ。
背中に手が届かないことがどういうことなのか、皆も考えてみて欲しい。
「かゆ……」
シャツの生地のせいか、汗の流れ具合のせいか、はたまた蚊に刺されたのか。今日は肩甲骨より内側、背骨に近いところにチクチクとした痒みが走る。
「おい、また
教室の扉に背中を押し付けゴリゴリしていると、2つ前の席の
「仕方ないだろ、背中に手が届かないんだから」
「だからって諦めんなよ。酢を飲め酢を」
「うるせー」
反論すると、面白がってか他のクラスメートがわらわら集まって来た。
「扉がかわいそう」だの「制服が痛むだろ」だの「背中かいてやろうか」だの、最後のはちょっと心が揺れ動いたけれど、皆口々に好き放題言ってくれる。
「わあーったよ。もうかゆくねーし」
本当は痒いところに角があたらず消化不良気味だったが、見栄を張って諦めた。でも痒みは収まらないままに始業のチャイムが鳴り、授業が始まってしまった。
「中村くん」
休み時間。家から孫の手を学校に持ってこようか悩んでいたところ、後ろから呼び掛けられた。
「ん?」
振り向くと、後ろの席の
「やっぱり痒いの? 背中」
「あっ、うん」
授業中はなるべく背中をかかないように我慢していたつもりだった。しかしどうしても無意識に手は動かしていたみたいで、ばっちり新戸さんに見られていたようだ。
「身体を捻っちゃうから、黒板とか見えなかったよね。ごめんね」
背中に手を伸ばす度に上半身を捻らせてしまう。
もぞもぞとした動作は後ろから見ればさぞ鬱陶しかったことだろう。ところが新戸さんは「そんな、大丈夫だよ」と慌てたように首と小さな手を振った。
その仕草に、僕は背中の痒みのことなんて一瞬どうでもよくなる。
ナチュラルボブの黒髪に、小柄な顔。くりくりとした丸い目と高い鼻筋。こじんまりとした淡い唇。
その整った顔立ちと、ふわっとした雰囲気、性格から新戸さんは男女問わず人気者だ。そんな彼女が僕の席の真後ろで、嬉しいを通り越してどこか申し訳なさすら感じる。
「ありがとう。なるべく我慢するようにする」
「いや、我慢はしなくていいと思うけど、ふうん」
大きな瞳で新戸さんに見つめられ、えっ何々と吸い込まれそうになる。
「中村くんはさぁ」
ごく。と喉元が鳴った。
本人は「さぁ」の続きを溜めている訳でもないのに、時間の流れが遅く感じる。何気ない会話の端々にドキドキが隠れているというか、
「毎日しっかりお風呂に入ってる?」
「入ってるよ!」
どうやら不潔な印象を抱かれていたようだ。
「風呂に入ったときはブラシで真っ先に背中を洗ってるよ! バスタブ磨く時に使えそうなくらいのやつ!」
「ふうーん、っていうかそれが痒みの原因なのでは」
新戸さんの疑惑の眼差しが一層濃くなり「でも、前よりもぞもぞすることも多くなったよね」「そ、それは」僕はたじろぐ。
確かに、彼女の言う通りかもしれない。
入学当初は今ほどじめじめする気候ではなかった。でも次第に夏が近づき始め、気温が上がれば暑くなるし、汗も多くなる。
湿気で蒸れたシャツの下は未曾有の惨劇に見回れ、つまるところ乾燥しようがしまいが痒みは膨れ上がる。
背中だって例外ではなく、むしろ背筋ばかりに汗腺が集中しているのではないか、と疑わしくなるほど背にむずむずが走るのだ。
でも、新戸さんにそんな生々しい身体の事情を話せる訳もない。それこそ引かれるに決まっている。
「そ、そんなことよりさ。今日はいい天気だよね」
「話の逸らし方が雑すぎるし、梅雨入りバリバリの湿気と雨じゃん」
「登校中に見かけた紫陽花がさぁ……雨露に光って綺麗だったような」
「中村君今朝遅刻ギリギリだったよね? 傘もさささずにダッシュしてなかった?」
「な、なぜそれを」
「ねえ」
ずいっと、新戸さんが身を乗り出してきた。
あまりにも不意で、仰け反る暇もなかった。バニラのような甘い香りが鼻腔をくすぐり、一瞬、頭が真っ白になる。
「私、いいこと思いついた」
「い、いいこと?」
新戸さんは大きな眼を爛々と輝かせ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「でも、今は教えてあげない」
新戸さんが思いついた「いいこと」が何なのか、本人は口を固くして教えてくれなかった。
教えてくれない以上、わからない。
もし彼女が思いついた事が悪戯の部類だったとしても対処の仕様がないが、ふうむ。
そんなもやもやを抱えたまま次の授業が始まり、授業も半ばまで進んだ頃。
むず。
背筋を何がが這った。
教壇では先生がカツカツとチョークを黒板に走らせていて、他に雑音は聞こえない。板書に集中しようとノートに意識を集中させるが、一度気にし始めると、どうも、むずむずが、
「どうしたの」
後ろから小声で聞かれた。
前を向いたまま「なんでも」と答えるも、気付けば左手を腰まで動かしていた。
すうっと手を机に戻し、何でもない風を装う。
「もしかして、かゆいの?」
クスクスとした忍び笑いが聞こえ、半ば意固地になりながら「痒くないって」「ここが」何かが、とんっ、と背中に触れた。背中の、痒みの震源みたいなところ。
「ぉが」
新戸さんの、指に、つつかれた?
「かゆいんでしょ」
スリスリスリスリ。
つつかれた箇所を中心として、指の感触が上下左右に伝わってくる。
「っっぅ」
背中の真ん中あたり。
手が届かなくなるポイント。
扉の角でも行き届かなかった肩甲骨と背骨の谷の間。
そこに、弱すぎず強すぎず、丁度良い力加減がシャツを通り越して皮膚へ浸透していく。
「ここが」
背中から伝わる刺激が一から四に変わった。
チョークが黒板に踊ると同時、シャリシャリと四指が背を優しく引っ掻く。
「や、やめ」ろ
誰かに見られていたら、と思わない訳ではない。
幸いにも僕達の席は窓際の列の一番後ろ。クラスの人数が奇数なので、一番端の僕達の席の列が一人分多く、真後ろの新戸さんの席は一人分出っ張った位置になる。
目立たず、先生も横の他のクラスメートもこちらに気付いた様子はない。セーフ。
でもそれは、二の次だ。
やめろ。
そう言ってしまうと、
「やめちゃって、いいの……?」
自分に嘘をついたことに、なる。
それ程までに心地よい刺激で。
「本当に……?」
シャリ。
絶妙な指の開き具合。
痛くもくすぐったくもならない、的確な指圧力。
妙々たる手首のスナップ。
新戸さんが奏でるそれが、立体音響のように脳にこだまし、背中を掻く音以外が耳に入らなくなる。
「う、ぁ」
快感が脳天を突き刺す。背筋から伝わる歓喜が心臓に染み込んでくる。そして、宙に浮いたように身体が軽くなって、
「はわ」
僕の意識はショートした。
「ーーおおい」
声が聞こえた。微かに。
「 ーい」
聞き取りづらいのは、気持ちがまどろみに押し流されているからだ。でも、声に反応しようとする危機意識みたいなものもあって、首に力が入ったまま頭を上げられないでいる。
「中村君」
今度ははっきり聞こえた。
ふわっとした、耳に優しい声音。
新戸さんの声だ。と気付くのと同時、背筋がくんっと伸びてバネのように起き上がった。
「っはぁ」
「うわきたな」
にゅるーん、と涎が糸を引いた。突っ伏していた机から。新戸さんは引いたように仰け反って、後退りした。
「私は汚いのが嫌いです」
「英語の教科書みたいだ」
「アイ、ヘイト、ドーティ」
「ダーティだろ」
ジーザス。
なんてところを見られてしまったんだ。まさか授業中に居眠りしてしまうなんて。
「今は休み時間だよ。あと五分で授業が始まります」
「わーぉ……」
なんてことだ。
枕代わりにしていたノートにミミズが走っている。しかも、突っ伏していたからか皺だらけだ。
「先生は起こしてくれなかったのか」
「放課後に職員室に来なさいって言っといてって言われた」
「あちゃー、怒っていらっしゃる」
「怒ってたよ。すごく」
「他人事のように言っているけど新戸さんがシャリシャリしたせいだよ?」
「あっ、私のせいにしてる? ちっせぇやつ」
からからと新戸さんが笑った。猫のような大きい瞳が爛々と輝きを放っていて、心底楽しそうだ。
こういうのを小悪魔というのだろうか。
「気持ち、良かった?」
どきりとした。
小悪魔が尻尾をちらつかせながらこちらを見ている。上目遣いで。言葉に詰まって、ごくん、と喉が鳴った。
「ま、まぁ」
視線を逸らすので精一杯だ。
新戸さんは「うふふふ」とこちらを見透かしたかのようににやにやしている。それが悔しくて、でも、どうしようもない。
「返答に詰まっておるな」
「るせぇ」
小さく反発をしたところで、キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴った。変な雰囲気だったのでこちらとしては丁度良かった。ただ、新戸さんが席に座り直す間際「次も楽しみにしておれ」と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
いや、もういいです。
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