第二章 悪い子

第二節 悪い子



『ティファニー。魔法が使えないのは、悪いことじゃないわ』

『大丈夫だよティファニー。もしかしたらある日魔法が使えるようになるかもしれない』

『だから心配しないで。あなたはここにいるだけで特別なのだから』


 幾度も囁かれた慰めの言葉。幾度も語りかけられた励ましの言葉。

 しかしティファニーは、その言葉に締め付けられてきた。

(ごめんなさい。今日も心配をかけて)

(ごめんなさい。何度も期待に応えられなくて)

 心の中で謝った数はもう数えきれない。

 義母にも義兄たちにも、たくさんの優しい言葉をかけてもらった。たくさんの愛をもらって生きてきた。それでもティファニーは、その愛に応えられないことが不甲斐なくて、嘆くばかりの日々を送ってきた。

 それでもどうにか期待に応えたくて、半ば罪を犯してまで魔法の力を手に入れようとしたのに失敗してしまった。

(ごめんなさい。ごめんなさい。私ってば本当にどうしようもなく、悪い子だ)


#


 頬にザリザリとしたコンクリートの感触を感じて、ティファニーは目を覚ました。

 ここはどこかと頭をもたげて、あたりを見回すと、どうやら、建物の屋上のようだ。コンクリートの床の上は物干し竿にかけっぱなしの洗濯物が風に揺れ、屋上入り口の近くではエアコンの室外機が低い唸り声をあげていた。

 日が暮れたばかりの夜空の雲に、ロンドンの街灯りが反射してぼんやりと光っている。

「目が覚めたかい?お嬢さん」 

 声のした方を振り返ると、非常階段の降り口に誰かが座り込んでいる。 

 肌は白磁のように白く、黒いTシャツとズボンがそれを際立たせていた。風よけに羽織ったモスグリーンをした夏用のモッズコートの上には長い金髪が流れて、ビル風が吹きすさぶたびに気まぐれに揺れていた。

 ティファニーは誰か尋ねようとしたが、薄闇に浮かぶエメラルドの目と視線がかち合った瞬間、目覚める前のことを思い出す。

 腐りかけた死体。生きている心臓。引き抜いた杭と、化け物のような咆哮と、深い緑の目。

 今、目の前にいるのは、あの怪物だ。

「ひっ………!」

 小さく悲鳴をあげ、ティファニーは屋上入り口のドアへと駆けた。 

 扉を開けようと必死にドアノブを回すが、ガチャガチャと錆びついた音を出すばかりでびくともしない。

「開かない……!」

「内から鍵が掛かっているんだよ。僕も開けようとしたけどだめだった」

 怪物がのんびりとした声で言う。

「じゃあ、どうやってここまで……!?まさか階段を登ってきたの?」

「そんなかったるいことしないよ。飛んできただけだ。ここはちょうど人気もなくて話がしやすそうだったから」

 まさか。とティファニーは思う。

 飛んできた?羽のある魔物でもないのに、人が飛べるはずがない。しかし、目の前にいるのは怪物だ。もしかしたら、姿を変えて飛んだのかもしれない。

 いいやそんなことよりも、だ。

 屋上入り口には鍵。非常階段には怪物が陣取っている。

 古い建物がところ狭しとひしめくロンドンとはいえ、隣の建物に飛び移るなんて芸当はできない。

 逃げ道が完全に塞がれている。

(どうしよう)

 戸惑いつつもティファニーは扉を背に怪物へと向き直る。

 怪物は、街明かりを背にして不敵に笑っている。

「そう怯えなくてもいいだろ?取って食うわけじゃない。君を殺す武器だってない」

 そう言いながら両手をひらひらと振って見せた。

「ただ、聞きたいことがあるんだ」

「聞きたいこと?」

「ああ。そうだな……まずはお互い自己紹介をしようか。僕はジャクリーン。君は?」

 怪物・ジャクリーンはにやりと白い歯を見せて笑う。

「ティ、ティファニー……魔術師学校の学生」

 まだ、嘘ではないはずだと思いながらティファニーは答える。

「よろしく、ティファニー。学生って言ったけど、なんであんなところにいたの?」

「っ、………………」

 今度は、ティファニーが黙り込む番だった。

「あ、あそこは………学校だから」

「学校?」

 ジャクリーンはいぶかしげに片方の眉を上げる。

「昔は牢獄だったらしいけど、ずっと前に火事があって廃墟になったんだって。三十年前に廃墟を改装して魔術学校の校舎になったの」

「それ本当?廃墟になったときに囚人の確認はしなかったわけ?」

「知らないよ!私も校舎の地下に、本当に牢獄があるなんて、半信半疑だったんだから」

「ふうん。まあそんなもんか。それで?」

「『それで?』って?」

「なんで魔術学校の生徒が、あるかも分からない地下牢に入って、怪物の胸に刺さった釘を抜いたわけ?」

「それは………」

 ティファニーはどうにか言い逃れできないかと考える。しかしどうにもうまい言い訳が思いつかない。だからティファニーは、正直に言うことにした。

「い、言えない」

「言えない?なんで」

 ジャクリーンはティファニーの胸中を伺うように目を細める。古今東西、寝ている怪物を起こすような人間に、ロクな理由はない。

「い、言えないようなことをしようとしたの!それでいいでしょ!だ、第一、起こしてあげたんだから文句言わないでよ!」

 追い詰められて、ティファニーは思わず言い返してしまう。 

 しまったと思い、青ざめた表情でジャクリーンの表情を伺うが、ジャクリーンは一拍、きょとんとした顔をした後大きく口を開けて呵々大笑しはじめた。

「あっはははは!あー、なるほどね。つまり君は悪い子ってわけだ」

 大笑いする怪物を見てティファニーは思わず拍子抜けした。なにが面白いのかはさっぱりだが、機嫌を損ねるようなことにはなっていないらしい。

「わ、悪い子って………」

「だってそうじゃない。僕に言えないようなことを、僕にしようとしたんだろう?」

 ジャクリーンは膝にのせた肘に頬杖をついてにやりと色っぽく笑って見せる。

「この助平め」

 からかわれたのだと気づいて、ティファニーは顔を真っ赤にした。

「ちがっ………!変なこと言わないで!」

「あははは!冗談だよ。まあ訳ありなのはお互い様だ。これ以上は聞かないでやろう」

 ジャクリーンはくつくつと笑いながら言う。その楽し気な雰囲気に、ティファニーはなんだか気が抜けるような気がした。

「………私も聞いてもいい?」

「どうぞ?なんでも聞きなよ」

「なんで私をここに連れてきたの?」

 ティファニーの問いにジャクリーンは少し考える様に空を見上げてぽつりと答えた。

「なんとなく」

「な、なんとなく?」

「そうだなあ。どこから話せばいいか………」

 思案するようにジャクリーンは空を見上げる。

 上空は強い風が吹かれた雲が足早に流れて漆黒の夜空が見え隠れしているが、星は見えなかった。

「僕は牢獄で百年も眠らされてたんだ。捕まってた、って言った方が正しいかな」

「百年も?」

 ティファニーは思わず声を上げる。

「なにか、悪いことをしたの?」

「多分。僕にとっては悪いことじゃなかった。でも、君たちにとっては悪いことだったみたい。それでまあ、刑期百年ってことで、ずっとあそこにいたんだ」

 肩を竦めながらジャクリーンはため息をつく。

「そんなわけでさ。百年も寝たらさすがに世間も様変わりするだろ?君の言う通り、牢獄は廃墟になっていたわけだし。僕は発見者の君に現代ってやつを案内してほしかったんだ」

 ティファニーに視線を戻しながらジャクリーンはウィンクしてみせる。

「そうだったんだ……。百年前ってことは、それじゃあ第二次世界とかも知らないんだ」

「ん?いいや。大戦のことはよく覚えているさ。でもそれって、百年よりもっと前だろ?」

 ジャクリーンは首を傾げながら言うが、困惑したのはティファニーの方だった。

「ううん。まだ百年も経ってない」

「え?」

 今度はジャクリーンが困惑の声を上げる。 

 もしやと思いながら、ジャクリーンは遠回しな質問を投げかけた。

「……エリザベス女王ってまだ生きてる?」

 ティファニーはジャクリーンの問いにこくりと頷いた。

 全身から嫌な汗が噴き出る。

「ところで聞くけど……今日は西暦何年?」

「えっと、二〇一九年」

 ティファニーの答えにジャクリーンは顔色を失っていく。

「………マジで?」

「マ、マジで」

 ティファニーは怯えながらも肯定する。 

 ジャクリーンは数秒黙り込んだ後、息を大きく吸って大声をあげた。

「うっそだろ!いやーそんな眠ったと思ってなかったから薄々そんな気はしてたけど!ロンドン変わりすぎだろ!これで五十年しか経ってないって嘘だろ!?」

 建物の縁で器用に七転八倒し、怪物は屋上から半身を投げ出したまま足をぶらつかせて空を見上げた。

「やばいなーあと半分あるじゃん。これ戻んなきゃだめかなー……。っていうか、これ脱獄になる?そうなると僕の状況ってめちゃくちゃ危ない?」

「あ、あの、ねえ。大丈夫?」

「え?ああ……まあうん。こっちの話だから大丈夫………」

 ジャクリーンは体を起こしてティファニーに向き直る。そしてその場でぐるぐる歩きまわり始めた。

 五十年。まだ、刑期の半分しか経っていない。それなのに外へ出てしまった。

 考えた末、ジャクリーンは一つの結論を導き出す。

「ティファニー、だっけ」

「う、うん」

「起こしてくれてありがとう!それで、僕は今から逃げる!誰に聞かれてもどっちに言ったかなんて聞くな!というか僕にあったことさえ話すな!多分それが君のためでもある!それじゃ!元気で!アデュー!」

 早口にまくし立てて、ジャクリーンは非常階段の段差を下りようとした。

「え、ちょ、ちょっと待って!」

 ティファニーはとっさに駆け出し、ジャクリーンのコートの裾を掴んだ。

「うわっ!」

 突然引っ張られた反動でジャクリーンはつんのめり、非常階段から飛び出しそうになるがすんでのところで手すりを掴み、体制を整えた。

「あっぶないなー……。急に掴むなよ!」

「ご、ごめんなさい!」

 ティファニーは咄嗟に謝るが、ジャクリーンのコートの裾は掴んだままだ。ジャクリーンはあからさまに迷惑そうな顔をしながらティファニーの手からコートをもぎ取り、裾を払った。

「何?僕もう行きたいんだけど」

「だ、だめだよ!勝手に話を進めないで!」

 焦りながらもティファニーはどうにか事を整理しようとする。この怪物は元々刑期百年で、それをティファニーが起こしてしまった。知らなかったこととはいえ、これは脱獄を助けたことになるのではないか?

 もしもそれを逃がしでもしたらとんでもないことになる。ただでさえ危ないティファニーの立場がもっと悪くなってしまう。

 そもそも刑期百年の怪物だ。気が良いように見せかけて、人殺しをするような悪党だったらどうする?

(そんなの絶対だめだ!)

 このままジャクリーンを行かせてはいけない。

「…………一緒に、連れて行って」

「ええ?なんで」

 ティファニーは必死に頭を回転させる。今この怪物を逃がさないためにも、せめて自分が一緒に行く理由が必要だ。

 それらしい、それでいて嘘と思われない理由を言わなくては。

「あなたの言う通り、私、悪い子だから。もう帰れる場所がないの」

 言い訳は、意外にもすんなりと声に出た。

 半分嘘で、半分本当の言い訳。

 ティファニーはもとより、居場所を失う覚悟で牢獄へ行った。しかし心臓を食べるという計画は失敗し、いたずらに怪物を起こしてしまった。

 魔術もできない。厄介ごとしか起こせない。文字通り、ティファニーは悪い子になってしまったのかもしれない。

 それならばもういっそ、本当の悪い子になるしかない。

 そう思うと、うっかり涙が溢れそうになった。

「学校にも家にも戻れない。悪いことをしてしまった事実からはもう逃げられない。だから、一緒に連れてってよ。私も………一緒に逃げたい」

 涙を流しそうになるのをぐっと堪えて、ティファニーは威嚇するつもりでジャクリーンを睨みつけた。

「お、起こしてあげたんだから、しょれくらいしてくれてもいいでしょ!」

 噛んでしまった。格好がつかなくて、また赤面しながらティファニーは少し俯いた。

「………図々しいやつ」

 言葉とは裏腹に、ジャクリーンはにやりと笑いながらティファニーを軽々と抱え上げる。

「キャッ!」

「いいぜ、お姫様。だが例え地の果てまで逃げることになっても、文句は言うなよ」

 ジャクリーンの言葉に、ティファニーは覚悟を決めたようにこくりと頷いた。

「ところで、なんで急に抱え上げたの?」

「そんなの、お前が飛べないからに決まってるだろう?」

 ジャクリーンは楽しそうに非常階段の手すりに足をかけ、宙に向かって勢いよく飛び出した。

「え、嘘。本当に飛ぶなんてまってキャアアアアアアアア!!」

 ティファニーの悲鳴を置き去りに、怪物は笑い声を上げながら兎のように軽々と空を飛ぶ。

 少女の悲鳴を聞いた一人の住人が窓を開けてあたりを見回してみたが、それにはただいつも通りに、薄曇りの夜空があるだけだった。



#

 フィリップは牢屋の壁を殴っていた。崩れかかっているとはいえ、強固な作りをしている壁にいくら拳を打ち付けても、肌を打ちつける虚しい音が響くだけだと言うのに。血が滲み出してアダムスが止めようとしても壁を殴り続けていた。

 生ける屍を求めて校舎の中を探し回り、本当に地下室などあるのだろうかと疑った時になってようやく入り口を見つけることができた。かと思えば入り口には封印の魔術がかけられており、封印を解くのに一苦労。ようやく地下に入れたかと思えば中は迷宮のようになっており、目的の牢屋まで更にカビ臭い地下を歩き尽くす羽目になった。

 そうして三時間の探索の末にたどり着いた先にあったものは、もぬけの殻となった牢屋であった。

「フィリップ、もうやめろよ!血が出てるじゃねえか」

「うるせえ!お前こそ、よくこの状況で呑気にしていられるな!俺たちの獲物を横から掠め取られたっていうのに!」

 生ける屍が入っていたと思しき箱は、たった今割れたような形をしている。さらにたどり着く直前に聞こえた破壊音と咆哮。おまけに天井には大穴まで開いている。それが指し示す意味を、フィリップは認めたくなかった。

「ここに着く直前に生ける屍を見つけて持ち出した奴がいるんだ!」

「馬鹿な。どんな確率だよ。そんな偶然あるか!?」

「節穴の目ぇしやがって!アダムス、よく見やがれ!実際目の前にはブツは無え!くそ、クソクソ!なにがどうなっていやがる!」

 苛立ちに任せて、今度は爪を噛む。噛みすぎた爪は原型を留めておらず、血が滲み始めていた。

「フィリップ、爪を噛むのをやめろよ。見ているだけで痛えじゃねえか」

「うるさい!うるさいうるさい!」

 息を荒げながら牢獄の前を歩き回る。 

 せっかく巡ってきたチャンスが目の前で不意になった。

 こんな偶然は許されていいはずがない。

 ここで諦めて帰っても、明るい未来はない。返せないほどの巨額の借金と腎臓を抜き取られる未来だけが待っているだけだ。

「誰だ。誰が連れ出しやがった……せめて、生ける屍の行方を追えれば……」

「……困っているのですか?」

 突如、暗闇の中から声が聞こえた。

「……アダムス、何か言ったか?」

 違う。と分かりながら、フィリップは訊ねる。

「いいや?お前じゃねえのかフィリップ」

「こちらです。こちらですよ」

 再び、暗闇の中から声がする。どうやら隣の牢獄から聞こえているようだ。

 おかしい、とフィリップは瞬時に思う。

 自分たち以外に、ここには誰もいないはずだ。先にこの牢屋を訪れていた先客という可能性もあるが、それならば先ほどまでのフィリップ‘の荒れ様を見ているはずだ。悠長に声をかけるとは思えない。

 二人は懐中電灯の灯りをかざしながら、恐る恐る隣の牢屋を覗き込む。

 しかしそこには誰もいない。

「……誰もいねえよフィリップ」

「そんなまさか!よく見てください」

「!」

 虚空から声がする。文字通り、何もないところから誰かが話しかけているのだ。

「やっぱり誰もいねえよ……。なあフィリップなんだよこれ」

 狼狽えるアダムスと反対に、フィリップは冷静な様子で虚空に目を凝らす。よくよく見れば、虚空に錆びついた手錠だけがふわふわと浮いていた。

「………ゴーストか」

「ご名答!」

 手錠をじゃらじゃらと鳴らして虚空からご機嫌な声が返ってくる。妙に自信に満ちた男の声だ。

 ゴースト。すなわち幽霊。この世に未練があって死後、魂だけが現世に居残った存在。あるい はエクトプラズムの集合体。その定義は曖昧で時代とともに解釈は異なるが、いついかなる時でも厄介者であることには変わりない。

「ふぃ、フィリップぅ……。まさかこれって本物の幽霊か?まずいよう祟られちまう」

アダムスはその巨躯を情けなく縮こませながらフィリップの後ろに隠れようとするが、あまり意味はなかった。

「姿を表すこともできない低級霊だ。放っておけ」

「おやおや今のは聞き捨てなりませね」

 ゴーストはフィリップの言い様に不満の声をあげた。

「確かに私、今は存在することも怪しいか弱き幽霊ですが、それは囚われているが故のこと。百三十年前に無実の罪で捕まって以来、成仏することもできず。ただ何度も壁の汚れの数を数え、通りすがるネズミに怯えることしかできず。そんなところへあなた方がやってきた。これを幸運と言わずして何というのです?」

 芝居がかった声でゴーストは哀れっぽくすんすんと啜り泣く。

「この手錠が、私を縛るのです。これさえ壊れてしまえば、私は自由になれるというのに!」

 がしゃがしゃと鳴る手錠と、どこから聞こえてくるか分からない声の主を探してアダムスはうろうろと視線を泳がせる。

「おいフィリップ、なんの冗談だ?どっきりなら俺は帰るぜ?」

「うるさいアダムス。少し黙っていろ」

 怯えるアダムスを黙らせて、フィリップは牢の前に立つ。

「お前もベラベラと話しかけるな。鬱陶しい」

「すみません。お困りのようでしたのでついお声がけを」

「俺たちが困っているからって、お前に何ができるんだ?」

 フィリップの問いかけに、ゴーストはしゃらりと鎖を鳴らして答える。

「お手伝いができますよ。聞いていたところ、あなた方は何かをお探しのようだ。私、これでも鼻は利く方でしてねえ。さっきここにいた者の匂いくらいは追うことができますよ」

「ほう……?」

「いかがです?私をここから出してくだされば、お手伝いいたしますよ」

 ゴーストの言うことが本当であれば好都合だ、とフィリップは思う。

 しかし同時にこの手合いの存在との取引は危険だとも思う。ゴーストの要求のほとんどは蘇りたいか、取り憑きたいかだ。

「要求はそれだけじゃねえだろう?オレはフェアに行きたいんだ。要求を先に言え」

「これはこれは。疑り深いながらも話が早くて結構」

 声の主はくつくつと声を殺して笑った。

「欲しいのは私が自由にできる肉体です」

 そうらきた。とフィリップは呆れる。死人の要求なんて、こんなものだ。

 普段ならばこんな申し出は即座に断るか無視をする。しかし今日のフィリップは追い詰められている。自分が死ぬか、生きるかの瀬戸際だ。逃した獲物をもう一度捕まえるためなら、なんだってできる。

「………………」

 フィリップは無言でアダムスに向き直り、アダムスの目の前に手を翳した。

「なんだよ。なんでこっちに来るんだよフィリップ。」

「悪いな。アダムス」

 それだけ言うと、フィリップスは早口に呪文を唱える。

「イェエツ・ルォス《魂よ抜けろ》」

 何か叫ぼうと口を開くよりも早く、アダムスは目を見開いたまま気絶し、ゆっくりと後ろに倒れた。

「おやおや、いいのですか?お仲間でしょう」

「ただの木偶の坊だ」

 フィリップはそう言いながらアダムスの体を蹴とばす。

「こいつの体をお前にくれてやってもいいが、条件がある」

 フィリップはゴーストのいる方に向き直り、指を立てる。

「一つ。俺を殺すな。二つ。俺の指示に従え。わかったな?」

「ふうん。ですが、私には?自由な肉体を得られる意外に恩恵はないのですか?」

「生ける屍を見つけたら、お前を自由にしてやる」

 フィリップの言葉に満足したかのように、ゴーストは笑い声を零す。

「いいでしょう。それで契約成立ということで」

 手錠が前に差し出される。フィリップはまた小さく破壊の呪文を唱えた。

「シ・ィエフ《壊れろ》」

 鉄のぶつかるような甲高い音と共に、手錠が砕け散る。一瞬その場に白い靄のような人影が現れた。

「ィ・ドゥオブ・オン・エ・ヴァフ・トルァフス・ウォ・フス。ド・ヌォラ・スレドゥ・ナタフス・ルォス・ル・フィティパ・エシェ・ナディウグ・イム・ヲォロス………」

《汝、彷徨える魂よ。彷徨える哀れな魂よ。我が導きに従え。》

 フィリップはその靄に右手を翳し、いくつか長く複雑な呪文を唱える。禁忌とされる、死者の魂を聖者に宿らせる魔術だ。

《あるべき肉体へと入れ。その肉を魂の在りかとし、この世に留まり給え》

 靄は呪文に合わせて二、三度ゆらめき、フィリップの右手に従うように右へ左へと揺れた。最後の呪文を唱えてフィリップが右手をアダムスの心臓の上に重ねると、それは吸い込まれるようにアダムスの体へと入り込んでいった。

 アダムスはゆっくりと身を起こし、目覚めたばかりかのようにかぶりを振った。そして自分の両手を交互に見つめ、満足げにフィリップに微笑みかけた。

「感謝します。ミスター……ええと」

「フィリップ・マートンだ」

「よろしくフィリップ。私のことは、ジャックとでもお呼び」

 そう言いながらアダムス……。否、ジャックは立ち上がると恭しくお辞儀をして見せる。そこにゴロツキのような雰囲気はなく、英国紳士のような気風さえ感じさせた。

文字通り、人が変わったような姿にフィリップは少しだけたじろいだ。

 その時。

「誰だ!」

 眩しいライトの光がフィリップとジャックを照らした。

「ここは立ち入り禁止だ!お前たち、ここで何をしている!」

 警備員の制服を着た男がもう片手に杖を構えながら威嚇する。

「くそっ!」

 フィリップは舌打ちしてジャックに命令した。

「ジャック!こいつを殺せ!」

「承知しました」

 ジャックはそう答えるが早いか、警備員に向かって素早いタックルをかました。

 巨躯が警備員にぶつかり、勢いでそのまま下敷きにする。

「うがッ……!」

「ふふふ……。これはこれは。なかなかいい体ですねえ」

 ジャックは警備員に全体重をかけながらほくそ笑む。警備員は呻きながらも取り落とした杖を掴もうと腕を伸ばすが、あっさりとその腕を掴まれ、関節を反対に回した。こきりという、嫌な音が響いた。

「ぎゃあああああ!」

「いけませんよ。抵抗しない方が痛くないですからねよ」

 そう言って身を起こし、今度は両足の膝を回し、関節を外していく。警備員の苦悶の悲鳴が牢獄へと響き渡る。

「おいジャック!なにやってんだ!」

「安心してください。私は医者ですから、治らないようにはしません」

「そうじゃねえ!悲鳴を聞かれるだろ!?さっさと殺せ!」

「大丈夫ですよ。これでおしまいですから」

 ジャックは警備員の顎に手をあてがい、ビンの蓋でも開ける様にいとも簡単に捻った。

「あぐぁッ!」

 警備員は小さな悲鳴を最後に上げて、そのまま気絶した。

 一仕事終えてジャックは立ち上がり、フィリップへと笑顔を向けた。しかし、フィリップは苛立ったようにジャックを睨みつける。

「……俺は殺せと言ったんだぞ」

「その必要はないでしょう。これだけやれば数日はなにも話せませんよ」

 足元に転がる警備員を示しながらジャックは言う。確かにジャックの言う通り、医療魔術を使ってもすぐに話せるようにはならないだろう。しかし、殺しておかなければきっと自分たちのことを話されてしまう。

 しかしジャックは目撃者を機にする素振りも見せず出口へと向かい始めていた。

「あるいはあなたがとどめを刺せばいいではないですか」

「おい、俺に従うのが、自由になる条件だぞ!」

 先を行こうとするジャックの胸ぐらを掴み、フィリップは怒鳴る。

「それならば一部訂正させてください。殺しは一日に一度。そして今夜の一度はもう埋まっている」

「……はあ?」

 フィリップは激昂するよりも先に疑問が湧いた。訳が分からないと思った。殺しをしないのではなく、一日に一度しか殺さないとは、いったいどういうことだ。

「それが私のポリシーなんです。殺しをするときは一日に一度。欲をかいて二人殺してしまえば、罪の浄化が間に合わなくなる」

 胸ぐらを掴んでいたフィリップの手をほどき、服装を正して、ジャックは今一度フィリップへと向き直る。

「そうそう。一時とはいえ仲間なのですから誤解のなきように、もう一度自己紹介させてください」

 ジャックは不敵に微笑み、胸に手を当てながら恭しく一礼して、名乗りをあげた。

「私、過去にはこう呼ばれていました。ジャック・ザ・リッパーと」



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魔女機関 ~落ちこぼれ魔術師と刑期百年の怪物~ 松田鶏助 @mathudaK

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