聖母


 「神様の存在を教えてあげる事の何がいけないんです? 」

 さらりと述べたその人の、さも自分は徳を積んでいるんですよと言わんばかりの澄まし顔に、私は何も言えず黙るしかなかった。

 これは今から十数年前、某所にある病院の、とある病棟での話である。



 事の発端が起こったのは午後の業務開始後だった。

 ナースステーションで記録をしていた私の耳に、突然読経のような声が聞こえてきた。読経のような、とは言ったが実際にはむにゃむにゃとよくわからない声が、つらつらつらつら耳を通り過ぎていく感じだ。ただ、問題はその音量で、とにかく音が大きいのである。

 時折交じる機械的なノイズが、音の煩わしさを更に増長させているようだった。例えるならば、拡声器を用いた選挙演説がすぐ真横で始まったかのような感じだろうか。

 思わずその場で立ち上がり、耳を押さえて苦悶する。だが、立ち上がったのは私だけではなかった。ちらりと視線をめぐらせば、私を含め、ステーションにいた誰もがその場で立ち、耳を押さえて苦しんでいる。どうやらこの場にいる全員に音はきこえているらしい。

 少しして、ケアに回っていた看護師がバタバタと戻ってきては音の如何を問うてきた。だが、演説の聴衆でしかない私に答えられるはずもなく。途方に暮れていたものの、一方では、今こそ一番若い私が行かねばという妙な義務感も湧き上がりつつあった。

 とにかく発信源を探します。そう言葉で答える代わりに、私は突き動かされるようにして廊下へと出た。

 つるりとした廊下に一歩踏み出した途端、音はその姿を変えた。つらつらと連なり響いていた音は、床や壁で幾重にも反響し、折り重なった音の圧がより凶悪な鈍器と化して私の脳を割りに来る。頭の中に鐘楼でもあるのではないかと錯覚するほどの轟音。されど負けじと廊下を走り、三回目に覗きこんだ病室で私は見つけた。

 病棟南側に位置する405号室。カーテンが開かれ、西日の差し込む窓際の椅子に腰掛け笑う一人の痩せた妙齢の女性。彼女の細い指が乗る床頭台の上に、自らの轟音でガタガタと揺れるラジカセの姿を。

 私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のラジカセを覗かねばならぬと決意した。私には理由は分からぬ。私は、ただ一介の看護師である。診療の補助をし、療養の世話をして暮らしてきた。けれども人心に関しては、人一倍に鈍感であった――この時の私の心境を、かの名著のように記すとしたらこんなところだろうか。

 大抵の病院がそうであるように、ここでも病室ではイヤホンの使用が原則である。が、偶に外している人がいないわけではない。その殆どが単なる失念であったり、イヤホン自体の不具合から仕方なく、という理由が殆どだ。故に、この轟音もそのどちらかか、あるいは同様に突発的な、または偶発的な理由であろうと考えていた。

 そこに人心の介在など無いだろう。ラジカセの電源ボタンに指を押し込むその瞬間まで、私はそう信じていた。

 私は走った。メロスのように。並べられたベッドの合間を抜けて、窓際に据えられた一台の前まで辿り着いた。メロスの駆けた何分の一かというくらいの短い距離だが、騒音の壁を突き抜けていく瞬間は、かの名著の主人公に勝るとも劣らない勇者の如き心境だったように思う。人心には鈍感だが、分かりやすいマナー違反には敏感なのだ。自分で言うのもなんだが、何とも例えづらい単純な有り様である。

 義憤に唸りつつ、彼女の傍に据えられたベッドまでたどり着くと、私は失礼ながら横たわる患者の上に腕を伸ばし、向かいにある床頭台で体を揺らすラジカセの電源ボタンを押し込んだ。音が止み、震えを止めたラジカセは、まるで最初からそうであったかのように物言わぬ置物へと変わり果てた。


 「と、止まった……」


 大きく一つ息をつき、腕を伸ばしたままやり遂げた感慨を噛み締めた。ふと下を見ると、ベッドに横たわる患者の姿がすぐ真下に迫っていた。慌てて体制を戻し

 患者の状態を確認する。押し潰してしまったかと心配したが、どうやらそうではないと知るやいなや酷く安心したのを覚えている。そのせいだろうか、深々と皺の刻まれた患者の顔も、どことなく安堵しているかのように見えてくる。

 随分と勝手なものだと思っていると、視界の外から震えたような吐息がきこえた。音の方へと顔を向ければ、呆然とこちらを見つめる女性の口が、わなわなと震えているではないか。

 どうしましたか。かけようとしたその一声は、結局形にはならなかった。湧き上がる恐れが、少しずつ心を蝕んでいく。


 「なんて……なんてことをするんですかっ! 」


 あらん限りに女性は叫んだ。発せられた声には明らかな怒気が籠もっており、痩身の外見からは考えつかないくらいに低い。


 「……すみません。廊下まで響くくらいの結構な音量だったので、先に音を止めさせていただきました。病室で音楽を聞く際はイヤホンを使うか、小さい音量でお願いします」 


 相手の明白な怒りに対し、こちらは自分でも驚くくらいに冷静だった。普通なら怒りを露わにされれば萎縮なり怒るなりするのだろうが、先述の通り私は人心に対して鈍感らしき節がある。けして怒りを恐れていない訳では無いが、反応までに幾ばくかのタイムラグが生じやすい質ではあるらしい。

 だがこの時も、そして今でも、そのタイムラグがあって良かったと思っている。


 「折角、頂いてきた御言葉を聞かせてあげてたんですよ? 小さい音だと聞こえないでしょう」

 「いや、ですから、大きい音だと周囲にも聞こえてしまうんですよ」

 「だから? それの何がいけないんです? 」


 女性はさも不思議そうに首を傾げる。ここまで疑問を呈されれば、いくら鈍感を極めた者でも流石に妙だと気づくだろう。私の中にも一つ確かな違和感は存在していた。だか、何がどう妙なのかうまく言葉に表せない。砂のじゃりじゃりとした感触が胃の腑に溜まっているような、そんな得体の知れない感覚があった。


 「お二人には良い音でも、他の人にはそうではないかもしれないんです。それに、あれだけ大きな音は騒音と変わりません。どちらかといえば、不快に思う方が多いと思います」

 「それなら大丈夫ですよ。だってこれは、神様の言葉ですもの」


 言いながら、女性は堪えきれない笑みを零した。花がほころぶような美しい笑顔だった。


 「神様の存在を教えてあげることの何がいけないんです? 」


 さも自分は徳を積んでいるんですよと言わんばかりの澄まし顔。それがあまりにも堂々としていて、私は何も言えず黙るしかなかった。


 「神様の言葉を聞いてるんですもの。嫌な音だなんて思う人はいませんよ」

 「……神様の言葉というものは、適正な音量による適切な使用によって初めて効力があるものと思ってました。少なくとも、私には効果がなかったようですね」


 しまった、と思った時にはすでに遅く。柔和な笑みが憤怒に歪んでいく様を見ながら、私は背筋の湿り気を自覚した。


 「神様の言葉が心地よくないだなんて、あなたそれでも看護師なの? 本物の看護師なら本当に救ってくれる方の声を間違えたりしないと思うけど」

 「その点はご安心ください。今だ至らぬ点も多いとは自覚しておりますが、一応免許は取得しておりますので」

 「そうなの?ならあなたの免許は間違って発行されてしまったのかしらね」


 この会話、何が恐ろしいといえば、互いに喧嘩の叩き売りをしている自覚に乏しいということである。少なくとも私自身は、本気で相手の不信感を解消すべく口にしたつもりであったし、女性はといえば本当に理解ができなかったのか、憤怒の顔をすぐに解して真剣に悩んでいる様子であったのを覚えている。

 この時、私はとにかく女性を怒らせたくはなかった。女性の持つ怒りからの解放を望んでやまなかったのだ。

 そうして積み重ねたその一心は、気づけば抱えきれないまでに膨らんで、一つの大きな決意に変わっていた。


 「間違いで発行されていたら一大スキャンダルですね。あの年の合格者全員洗い直さなきゃいけなくなるから、厚労省が大変だ」

 「けれど、そこはちゃんと確認して貰わないと困ることですからね。お役人さんにはしっかり働いてもらわないと」

 「そうですね。機会があれば提言の一つもしてみましょうか――ところで、確認するといえばなんですが」


 漸く固めた決意を胸に、一つ静かに呼吸を置いて、私は女性を見据えた。


 「この患者様、奥様はとうに亡くなられてて、今は息子様以外面会はご遠慮いただいているんですよね。あなた、見た目はそれなりにお若そうですけど……一体何処のどなたなんです?」



 結論からいえば、この女性は患者とは縁もゆかりもない人物だった。とある宗教の信者であり、同じく信者である別の入院患者の親族と偽って病院に潜り込んでは、布教活動と称した迷惑行為を繰り返していたという。様々な音声を加工して創られたという神様の言葉、それをを大音量で聞かせるというのは、彼女の常套手段だったそうだ。

 お前は誰だと尋ねた私に、女性は一切の弁解も抵抗もしなかった。警察が来るその瞬間まで、ただ笑って椅子に腰掛けていただけだった。

 若さと無知ゆえの無謀を先輩方から叱られていると、女は私の横を通り警察官に連れられていった。その時こちらは俯いていたので女の顔は見ていない。けれど、どんな表情を貼り付けていたのか、恐らく私は知っている。

 女はずっと笑っていた。あの病室で、窓辺に差し込む西日を背にして。泣くでもなく、怒るでもなく、年老いた患者を見下ろして、ただ静かに微笑んでいた。

 さながら、聖母マリアのように。

 結局、あの女性とはあれっきりで詳細も知る由はないが、あの場違いなまでに静かな笑顔は、今も記憶の底にこびりついている。だからだろうか、あの読経のような言葉が、本当に人の手を離れた何者かのそれに思えてならないのだ。

 女性の運んだあの言葉は、本当は誰の言葉だったのだろうか。


 患者は、あの事件の翌日に亡くなっている。

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短編ホラー 彼方 @far_away0w0

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