禁句
夜の病院には、口にしてはならない言葉がある。
「今日は随分と落ち着いてますね」
深夜、カルテを書いていると、後輩の声が耳に届く。何気ないといった雰囲気で彼女が口にしたその言葉は、夜の病院において繊細な扱いが求められるものだと私はよく知っていた。
「駄目だよそれ言っちゃ。後で騒がしくなるから」
「けど先輩、よくそうやって聞きますけど本当なんですか? 」
首を傾げる後輩が口にしたのは、多くの病院で囁かれている、所謂禁句についてだった。
夜勤中に『落ち着いてる』『何もない』などと言ってはいけないというもので、口にすればその後の夜勤に忙殺される羽目になる、という噂話だ。医療介護業界においては、今でもまことしやかに言い伝えられる有名な慣習だが、この後輩は去年入ったばかりの看護師二年生であり、そういったものにまだ馴染みがないのも当然だった。
「さあね。私も先輩に言われてからは言わないようにしてたから、本当かどうかはわからないな。あ、でも……」
話をするうちに、ふと思い出した。一つだけ、絶対に口にしてはならないとキツく言われた言葉があった、と。
記憶が確かならば説明すらも口頭は不可、ということだったはずだ。私は記憶を頼りに、その言葉をメモに書いて後輩に手渡した。
「……『呼ばれませんね』ですか? 」
「だから言っちゃ駄目なんだってば」
「大丈夫ですって。そもそもそれでコール押されて呼ばれたって、そんなの病院じゃ当たり前じゃないですか」
むしろ呼ばれなかったら困りますよ。そう言って、あっけらかんと笑う声がナースステーションに木霊した、その時。
《〜♪》
笑い声に重なって、軽やかなメロディが流れ始める。聞き慣れたナースコールの音だったが、そのあまりにものタイミングに私の心臓はドクリと跳ねた。だが、驚こうが何だろうが、コールはコール。この音の先には私達を持つ患者がいるのは明白だ。こんな夜中にどうしたのだろうと、音の発信源を確かめるべく、私は表示器に目を向ける。
巡らせた視線の先には、呼び出した患者名が赤く点灯している――はずだった。
「……なんで……? 」
けれど、点灯している箇所は、白紙だった。そこは物置きなどではなく、ちゃんとした病室の一画だ。当然ながら、ベッドもある。ただ、今は患者がいないだけで。
「あれ? 誤作動かな? 」
私見てきますね、と後輩がライトを手に立ち上がり、こちらを振り返った。私は咄嗟に制止しようと手を伸ばすも、添える言葉が見つからず、空を掴んで手を下ろす。
「……暗いから気をつけてね」
はあーい、と元気よく出ていった後輩の背中が夜の暗がりに消えていく。
私は彼女を見送ると、再び表示器に目を戻した。明滅していた白紙の表示。そこには確かにベッドがあり、一昨日までは患者の姿があったのだ。
急変し、亡くなるまでは。
そんなことを考えながら、私は思いっきり頭を振った。随分と馬鹿なことを考えてしまった。常識的に考えれば単なる機械の誤作動か、それとも誰かが入り込んだかの二択でしかない。心霊現象が入り込む余地などあるはずがないのだ。
現実なんて、そんなものだ。こんなことで怯えていては後輩に示しがつかない。どうせすぐに戻るだろうからと、私は僅かな合間をみて、手元のカルテに目を戻した。
けれど予想に反して、後輩はすぐに戻らなかった。
ふと気づいて時計を見れば、既に二十分は経過している。例えトイレ介助で呼ばれたとしても、こんなに遅いはずがない。そもそも、トイレのドアの開閉音すら聞こえてこなかったので、彼女がトイレ介助に向かった可能性は低いだろう。だとすれば、他になにかあったのだろうか。
立ち上がり、調べに向かおうとしたその時、廊下の奥から靴音が聞こえてきた。静かなせいか、やたらと壁に反響している。木霊となって鳴り響き、重なった音はまるで、二人分の足音が聞こえてくるようだった。
「戻りました〜! 」
暗がりから現れた後輩は、ステーション前のカウンターに手をつき、寄りかかった。随分と調子が良さそうだったが、単なるコール対応にしては、やはり戻りが遅いと言わざるを得ない。
「遅かったわね。何かあった? 」
まさか本当に幽霊でもいたのか。そんな一瞬の考えを吹き飛ばすほどに、後輩の返答はあっけらかんとしたものだった。
「それが先輩、誤作動じゃなかったんですよ。ちゃんと動いてたんです」
「どういうこと? 」
誤作動ではなかったということは、誰かが紛れ込んでたとでも言うのか。私の重ねた疑問に、後輩は自信満々とばかりに頷いた。
「そうなんですよ。どこかの階のお爺さんが紛れ込んじゃってて。手術着一枚で寒そうだし、リストバンドも取れちゃったのかしてないしで……。それで、いつまで立っても誰も呼びに来ないからってナースコール押したっていうんですよ。それでですね、先輩」
この患者さん、ご存じです? その言葉とともに彼女が指差す先には、がらんとしたエレベーターホールが広がっていた。その奥には病室へ続く幅広の廊下が伸びていて、続く先は夜に飲まれ、非常灯の薄明かりだけが足元のリノリウムを頼りなく照らしている。まさに夜の病院そのものの光景だ。
だが、それだけだ。後輩が指し示した夜の景色に、彼女が言う“お爺さん”などどこにもいない。
そもそも彼女は連れてきたと言ったが、私が見ていた限り、廊下の暗がりから現れたのは彼女一人だけだった。
「まさか、またどこか行っちゃったんじゃ!? 」
「けど、そもそもこの病棟に来たら必ずここを通るのよ? なのになんで、私もあんたも気づかなかったのよ」
そして、何よりも最大の疑問が一つ。
「そのお爺さん、手術着来てたって言うけど……ここって回リハ(回復期リハビリテーション病棟)か療養しかない病院だよ。なんで手術着を着た人がいるわけ……? 」
重苦しい静寂が空気に滲み出し、足元に澱む。私達は言葉を無くし、固まったままで顔を見合わせ立ち尽くしていた。
《〜♪》
不意に鳴り響いたメロディが、固着した静寂を砕く。弾かれたように音の方へと目を向けて、視線は自然に赤い明滅を探して巡る。
そうして一巡もかからずにそれは見つけられた。表示器の隅で明滅する、赤い光。掲げられるべき患者の名は、無い。
「先輩……」
後輩の声が聞こえた。僅かな怯えを含んで震えた声が。けれど、もしも今私も口を開いたら、きっと同じような声が出てくるのは分かっていた。
分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「だから、言っちゃ駄目だったのよ……」
メロディはまだ、鳴り続けている。
夜の病院には、口にしてはならない言葉がある。
その禁じられた言葉で、私達は一体何を呼んでしまったのだろう。
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