溶ける


 これは古い知り合いから聞いた話だ。


 梅雨も半ばを過ぎたその日、彼は久方ぶりに実家の戸を叩いた。数年ぶりに目にした懐かしい家は、どこか陰鬱な雰囲気を孕んでいるように見える。それはきっと空を覆う厚い雲のせいだけではないと彼には分かっていた。

 暫くの後に出迎えてくれた母親の顔には疲労の陰が色濃く見え、まるで家に満ちる陰をそのまま纏ったかのように思えたという。まだ五十路に入ったばかりのはずが、それより十は老けて見えた。だが、それも当然だろう。何せ急なことだったのだ。彼女の夫、つまりは彼の父親が亡くなったのは。倒れたと報せを受け、帰省の支度をしていた数十分のうちに父親は亡くなった。一晩も持たなかった。

 あまりにも唐突過ぎて、未だ他人事のような感覚を携えたまま彼は実家の引き戸を潜る。中に入ると、感じていた陰鬱な陰がより濃くなったような気がした。玄関からして薄暗く、 まだ昼間だというのに日が落ちた後にすら思えた。気後れしつつ框を上がり、続く長い廊下を進む。足を置く度に板がたゆみ、ぎしりぎしりと音を立てる。身の内が削られるようなその音が酷く耳障りだった。

 断続的な不快感に耐えながら廊下の最奥を目指す。やがて、閉じた障子の前で母親の歩みが止まった。手振りだけで促され、徐に障子の前に立つ。両手を添えて、ゆっくりと戸を開いていく。

 八畳に敷かれた畳の上に、白い布団が敷かれている。そこに、彼の父親がいた。彼の来訪にも身動ぎせず、ただ静かに横たわっている。親父、と彼は呼び掛けた。返事はない。敷居を跨いで部屋に入り、横たわる父親の傍に立った。近くで見たその顔はどこかのっぺりとしていて、両の目は固く閉ざされている。座って、布団の上から胸元に触れた。動きはなく、いくら耳を澄ましても息遣いは聞こえてこない。

 父親は、間違いなく死んでいた。

 急性硬膜下血腫だった、と背後で母親の声がした。頭部に打ち付けた痕があったのだという。友人と飲みに出掛けた帰りの事で、酔った勢いで転んだ後に意識がなくなり、そのままだったのだと。酒が好きだったからなぁ、と彼は小さく笑った。生粋の九州男児らしく、父親はよく飲み歩いていた。いずれ酒に命を取られるぞと言ったのはいつかの父の日だったか。そうかもしれんなぁと冗談目かして笑っていた父親の顔が脳裏をよぎる。もっと強く言っておけばよかったのだろうか。いや、あの時に強く言ったとしても、変なところで頑固な父親の事だ。結末は変わらなかったに違いない。

 意識が無かったのなら苦しむこともなかっただろう。友人に囲まれて、大好きな酒を飲んで、幸せなままだった筈だ。

 彼が言うと、背後で母親の嗚咽が聞こえた。思わず振り返ろうとして、頬を伝う涙に気づく。他人事のような感覚はとうに消え、確かな喪失感が彼のすぐ傍に寄り添っていた。


 その後、母親の勧めで彼は仏間に独り残ることとなった。帰ってきたばかりだから暫くゆっくりしていたらいい、葬儀の段取りは葬儀屋さんも動いてくれているのだからと。彼もそういう事ならと浮かせた腰を再び下ろした。

 去っていく母親を見送ると、再び父親に相対する。施された薄化粧のお陰か血色は良く、今にも起き上がりそうに見えた。首から下には薄い布団が掛けられていて、その下はドライアイスが敷き詰められているという。凍傷の二文字を頭に浮かべつつ、彼は注意深く掛け布団の下をまさぐった。指先に触れた冷たさを下から支えるように持ち、ゆっくりと引き出す。

 久方ぶりに触れた父親の左手は、死人そのものの青白さをしていた。そうか、これが本当の父の色かと彼は思ったそうだ。

  だが、色よりも彼の目を強く引くものがあった。それは、小指に巻かれた包帯の白だ。余程厳重に巻かれているのか、小指が一回りほど太くなっている。どうしてこんなものが、と疑問符を浮かべながら観察していると、固定が解けてしまったのか、白い帯がだらりと床に垂れ下がった。

 不味い。冷や汗が一筋背を伝い、焦りがじわじわと沸いてくる。元に戻さなければと冷たい手を抱え直し、包帯に手を伸ばそうとした。が、白い帯はまるで意思を持ったようにするするとほどけていく。そして最後の一巻きが解け、分厚いガーゼぼたりと落ちる。彼は思わず息を飲んだ。

 小指の第二関節から先、顕になったその場所にあったのは骨だった。

 湿り気すらない乾いた骨。それが途切れた指から付き出している。なんだこれは。声すら上げられないまま、彼は骨をまじまじと見つめた。良くみると、乾いた骨の中ほどに紙のようなものが張り付いている。骨と同様に乾いたそれは、良くみると人の皮のようにも見えたという。

 そこまで考えた瞬間、彼は初めて声を上げた。持っていた父の手を放りだすと跳ねるように立ち上がり、仏間を駆け出していく。喉元に競り上がる酸味を必死になって飲み下しながら、彼は母親の元へと急いだ。

 台所で作業をしていた彼女の姿を見つけると、我も忘れてその背に飛び付いたという。泡を吹く彼の様子に察したようで、母親は無言で頷くと彼を連れて仏間へ戻った。

 横たわる夫の傍に腰を下ろすと、無造作に放り出された手を持ち上げる。そして落ちていたガーゼを当て直し、包帯を慎重に巻き直していく。まるでちょっとした怪我を手当てするように。さも当然とばかりに振る舞う母親が、寧ろどこか現実離れしているように思えて心底気持ち悪かったという。

 ややあって包帯を巻き終えた母親は彼に言った。この指は、溶けてしまったのだと。


 それは亡くなった直後の事だった。病院の廊下で母親が座って待っていると、処置室の方から悲鳴が聞こえてきたという。何があったと飛び込んで見れば、医師や看護師達が父親の周りで震えているではないか。その物々しい様子に恐る恐る近づいていくと、気づいた看護師が母親を外に連れ出そうとした。だが、母親は見てしまった。 

 処置台に乗った夫の左手、小指がある筈の場所に白い骨が剥き出しになり、どろりと溶けた皮や肉が張り付いている様を。

 それは果たして病院が何かしたのではないのか。問い詰める彼に母親は首を振った。病院は関係ない、理由はきっと父親の方にある。

 静かに、けれども確かな口調での断言だった。困惑を極める彼に、母親はこう続けた。見せたいものがある、と。


 両親の部屋から戻ってきた母親の手には、小さな組み木の箱があった。

 これをお父さんはずっと大切に持っていたの、と彼女はいう。結婚をした時には既に父親の手にあったそうだ。だが、普段は抽斗の奥にし舞い込み、開けたりしている様子はない。あまりに気になって、一度箱について聞いてみたという。


「これは、約束の証なんだ」


 そう言った父親の寂しそうな目を、今でも覚えていると母親言った。

 彼は箱を持ってみた。縦横並びに高さはいずれも五センチ程度。片手に乗るほどの小さな箱は見た目通りに軽かった。そして少し動かす度に、カラカラと転がるような音がする。目線だけで母を見ると、小さな頷きが返された。

 箱の上部を指先で軽く摘まむ。然程力をいれずとも、施錠の無い箱の蓋は呆気なく持ち上がった。蓋を脇に置き、箱の中に目をやると、そこあったのは小さな白い二つの欠片。その正体が何なのか、彼も、そして恐らくは母親も理解していたに違いない。

 二つの白い欠片は紛れもなく骨だった。そして恐らくは小指の骨だ。先ほど目にした父親のそれより一回りほど小さな骨。きっと女性の物だろうと彼は直感したという。

 箱の中の骨をみると、やはり乾いた皮のようなものが張り付いていた。父親の指と似通ったその有り様に、この指もやはり溶けたのではないか、そんな考えを抱かずにはいられなかったそうだ。

 では、これは一体誰の骨なのだろうか。ちらりと見た母親の左手には細くしなやかな小指があった。彼女の骨ではないのは確かだ。それに彼の知る限りでは、親戚筋も含めた父親の交友関係の範囲で小指の無い女性の話など聞いた覚えがない。ならば指の持ち主、約束を交わした相手とは誰だというのか。母親も聞いたそうだが、父親は頑として語らなかったという。


 結局溶けた指はそのままに彼の父親は荼毘に付された。だが火葬場での骨上げの際、小指の部分は煤と灰しか見当たらず、まるで骨が忽然と消えてしまったかのようだったという。


 彼の父親は何故小指が溶けたのか。箱の骨は誰なのか。誰と何を約束していたのか。答えは今も不明なままだ。


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