怪談の下地

普段、私達は特に何かを気にする事なく道を歩き、建物に入り、そこで社会生活を営んでいる。そして学業や仕事が終われば家路を辿り、自宅へ入り、プライベートを満喫する。

スマホを片手にネットの大洋から拾ってきた怖い話でもツマミがてら読み漁り、身の毛もよだつ恐怖へと身を沈めるのをを好む人もいるだろう。今流行りの心理的瑕疵物件、所謂事故物件の体験談でも読んだならば、もし自分の家がそうだったらと想像を巡らせるのも乙なものだ。

最も、そうであると知ってて住んでいるという人もいる。常に怪談と隣り合わせの暮らしというものは、自分が怪談の一部かそうでないのか、果たしてどこまで見分けがつくものなのだろうか。


でも考えてみてほしい。

普段私達が住む家、歩く道、学校、職場。そこへ足を踏み入れた人を一人の人間がどれだけ認識しているだろう。また、そこで起こった出来事や纏わる話の幾つを知っているのだろうか。

例えばいつも通る交差点、そこはかつての戦時中に空襲で焼けた場所かもしれない。または子供と遊ぶ公園も、ウン百年前には古戦場であったりするかもしれない。

自分が知らないだけで、エピソード自体は存在する。そんなのはよくある話だろう。

そうしたエピソードがあるならば、そこには人の死が染み込んでいるということになる。流れた血に、枯れた骨。焼けた油や、朽ちた肉。そういうものが転がっていた跡を、多くの人々が一歩一歩と死を踏み固めていく。

そして近代になり、その上がアスファルトや盛り土で塗りたくられ、普段私達が生活を営む道や公園や建物がそこに出来る。勿論、何十何百と昔の話を来る人全てに聞かせるなど非現実的だ。そこが営利的な場所であれば、わざわざ聞かせて客足を遠ざける意義も無いだろう。

そうして私達は、自分達のすぐ下に何があるのか考えもせず、語られずに潜む死と日々隣り合わせで暮らしているのかもしれない。


ところで、知識が増えれば世界は変わる、もしくは世界が広がると言った類いの言葉を聞くことはないだろうか。見方の土台となる知識が変われば、物事の捉え方や視点、視野が変わっていくという話である。

その土台に、人の死に纏わる情報が含まれてくるなら、その場所の見方に『人の死があった場所』という視点が加わったとしても仕方のない事だ。

けれど、ふとした切っ掛けでそういった情報を得てしまった瞬間、染み込んでいた死は『知らなかった』という境界線をすり抜け、私達の現実に侵食してくる。

そうした人の死というものは、怪談を切り取るレンズとしては恐らく最も消費されやすく、映りが鮮烈なものだ。

そこに人がいて、死に纏わる話がある。

『何もない場所に見えますが、実はかつてここで人が亡くなっているんです……』

こうして書くと些細な話にも思えるが、怪談というのはこうした日常に滲んだ僅かな染みの様なものが恐ろしいと思う。染みは場所を選ばず、どこにでもあるのだから。

でも、目に見える怪異の存在がなければ、どこからが怪談の始まりかは酷く曖昧だ。始まりが分からないなら、語り手がそこへ関わった時点が始まりとなる。

知らず知らずのうちに過ごしていた日常、それ自体が怪談として語られるのだ。

だとすれば、自分が怪談の一部なのかそうでないのかなど、自分にも他人にも見分けはつかないものかもしれない。


誰かの死は案外身近にあるかもしれないと、ここまで散々無責任に煽ってきた。だが実際、時代を遡っていけば人の死に纏わる話など涌き出るのは数知れず。一々気にしていられる程、この島国は広くはない。

病院といった日々新たな死が更新されていくような場所なら兎も角、そうでないならば土地に深く染み込んだまま歴史の一つのエピソードとして消化され、そのまま忘れ去られて二度目の死を向かえるのも、仕方がないと言ってしまえばそれまでの話だろう。

だが気づいていないだけで、貴方がいるその場所は誰かの死の上にあるのではないだろうか。


そして怪談は貴方のすぐ隣で、もう始まっているのかもしれない。

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