鳥飼と灰色猫
糸賀 太(いとが ふとし)
第1幕
ここにもいない。
昨日は池袋、今日は新宿。表通りの喧騒と照明を退ける裏路地や脇道、ビル同士の隙間のように道とすら呼べない場所まで覗いてきたが、すべて空振りだった。
今度はどうか。雑居ビル一階の飲食店の裏口がある路地で、幅は大人が二人、姿勢を変えればすれ違える程度だ。ピンク色のゴミ袋の山が積んであり、魚臭い。
もしかしたら。物陰に視線を注がずにはいられない。望み薄と分かりつつも、猫背の上体をステッキで支えながら、なるべく音を立てないように、小道へと入り込む。
「ジジイ、カネ出せや」
男の声だ。路地の向こう側、ゴミ袋やポリバケツの先に、不良学生らしい男女がいる。男が女に良いところを見せるかのように進み出て、シャツをまくりあげて二の腕を露わにした。
金貨で総身を鎧った龍の入れ墨。
どうせシールの模造品だろう。マモンクラブに入るほどの度胸があるとは思えない。貧相な二頭筋だ。
「ア、聞こえねえの?」
男が足を打ち鳴らすと、ゴミ袋の山が崩れて何かが飛び出した。
茶トラだ。おそらく一歳に満たない。肉付きはいいが、毛並みは悪い。耳を見るに未去勢のようだ。
連れの女の子が一瞬だけ鼻で笑った。猫が出たとき、男が震えたからだろう。私は笑いに気づいたが、幸せなことに、男のほうは気づかなかったらしい。肩をいからせて私を睨みつけるのに夢中だ。
猫は、青年と私とを見比べると、私の脇をすり抜けて去った。足に心地よい感触。
「なに笑ってんだよ。猫なんて怖くねえから」
「猫にあたるのはよせ」
「いいからカネだせ」
金の懐中時計を取り出す。ゼンマイが切れていたが、些細なことだ。アンコウのように揺らしてやり、若者の視線を掴んだところで、時計をしまう。
「取りに来てくれないかな。見ての通り、足が…」
男はポリバケツに蹴りを入れて私の言葉を断ち切った。拳を振り上げて突進してくる。私は背筋こそ伸ばしたが、杖は普通の握りのままだ。
アスファルトに投げつけて首の骨を折られても面倒だ。スパークリングにつきあうつもりで拳を受ける。
黄金の金槌で殴られたような重み。
敵は口の端を歪めた。拳を繰り出した二の腕で龍が身をくねらせる。筋肉の動きのせいではない。黄金の蛇が獲物を丸呑みにするかのように大顎をかっぴらく。フェイクではない、本物だ。
たたらを踏んで引き下がり、ステッキを握り直して構えた。黒檀の柄に刻んだ紋を見せつけたが、若者は無知ゆえの勇気だろうか、臆することなく入れ墨のある腕をピストン運動させて、押し込んでくる。
形勢不利のなかで、さきほど若者が蹴りつけたポリバケツのフタが跳ね上がった。背後の出来事に若者は気づかない。バケツから茶色い影が飛び出す。
フタが落ちるよりも早く、若者の頭に茶トラの大猫が着地する。出し入れ自在の凶器たる爪を脳天に突き立て、ハードル選手顔負けの大ジャンプを見せ、私の頭すら飛び越える。
若者が悶絶して両手を頭に上げる。なぜ己の髪の毛が何房も、血に濡れて路地に落ちたのか、理解が追いついていない。
もはや遠慮は無用だ。鳩尾に突きを叩き込む。相手は腕をおろして腹を押さえた。
私は力を杖に込める。男の上腕の入れ墨を打ち据え、続けざまに肩口へ掌打。
若者はキリモミ回転して、生ゴミの袋に突っ込んだ。息こそしているが、白目をむいている。入れ墨の龍は真っ二つだ。私が一撃したところだけ消えていて、もはや動かない。茶トラもいない。
そう何度も時を欺けるものではないと分かっているのに、つい手がでてしまう。骨折りの見返りと言ってはなんだが、先程の茶トラ親子が再会できることを願う。
「おじさん、楽しそうだね」
かわって女の子が近づいてきた。両手は空だ。
「なぜそう思う?」
「ニヤついてるから。おじさん、見た目より元気でしょ」
「すまない。血が騒いでね」
「別に。どうせ別れるつもりだったし。タトゥーとか興味ないから」
女の子のほうは、分別があるらしい。
私が安堵のため息を付いている間に、女の子は若者の懐をあさって蛇革の財布を取り出していた。千円札を二枚だけ取って、残りは戻した。
なかば無意識のような動作を終えたところで、女の子は後ずさって私を見上げた。
「私服刑事だったりする?」
「違う。私は法の番人ではない」
「番人、ってウケる」
女の子は腹を抱えて笑うと、息を継ぐと同時に話の穂も継いだ。
「じゃあ探偵?猫探しとかの」
「そんなところだ」
そっけなく答えたつもりだったが、女の子は答えに満足したかのように頷くと、私の脇をすり抜けていった。揺れる長髪に、三毛猫のヘアピンがある。
ジャケットを払い、シャツの襟を整えて、杖を握り直す。私もまた路地から出ようとした刹那、発作が襲いかかった。時が取り立てに来たらしい。
締め付けるような痛みに、杖を取り落とす。黒檀がアスファルトを打つ音が響いたはずだが、表通りから様子を見に来る者はいないようだ。
前へ前へとよろけながら、内ポケットをさぐる。右か左か。左だ。
痛みは次第に痺れへと変わり、体の自由が喪失していく。どうにかして右手が霊薬の瓶をとらえ、引っ張り出したとき、再び激痛の波が襲来した。
握りが甘く、ガラスの小瓶が手をすり抜けて落ちる。アスファルトに玻璃の星がちらばる。中身の液体は路上にぶちまけられ、エントロピーの増大を示すかのように、微細な塵や汚れと渾然一体となった。
足の力も消え失せる。もはや体重を支えられず、ビルの壁に肩を預ける。ずるずるとくずおれる。マタタビめいた霊薬の香りが、路地裏の悪臭と混ざる。
脇の方から、猫がやってきた。ピンと立つ尾が、死神の鎌を連想させる。
「グレイ…、いや、違っ…た…」
看取りにきた天使の衣は黒だった。三、四歳の妙齢の美人だ。
黒猫はミャーミャーと鳴きながら、謎を秘めた赤の舌が路上の霊薬を舐め取る。人間たちの吐瀉物や排泄物にまみれた路面には不似合いな口なのに。
私も彼女に倣えば、生き延びるだろうか。酔っ払いたちの愚行にまみれた道にキスするのはと、ためらう最中にも体から活力が抜けていく。
「気を…つけ…い。ガラ…ス」
猫はといえば、私の助言など不要だと言わんばかりだ。一通り舐め尽くすと、ビルの間に見える空へと雄叫びを上げて跳躍し、雨樋を駆けのぼって屋上の陰に消えた。
なかなかのアスリートだが、グレイなら壁を蹴って屋上にあがっただろう。
再会の日まではと思って引き伸ばしてきた時が、とうとう切れる日がきたようだ。
路地に革靴の足音が響く。人に聞かせるつもりで立てているかのような音だ。
音のほうを向いたが、目が霞んでわからない。
警察にしては早すぎるし、返り討ちにされた若者なら、いまごろ私の脇腹に蹴りをいれていることだろう。
足音がやむ。私の傍らに何者かがしゃがみ込む。男物の香水の匂い。耳障りな音がする。ガラスのこすれる音だ。続いて霊薬の匂い。マタタビの香りだ。
男の声がするが、もはや聞き取れない。聞き覚えがあるような声ではある。
唇に硬いものが押し付けられる。口いっぱいに薬の味が広がり、熱が体を満たす。
街の音が戻った。視界も鮮明になった。ニタニタ笑うローワンの顔が、私の視野の半分を占めている。
「鳥飼さんですね。仕事を頼みたいのですが?」
「断る」
頼みをはねつけてやったが、にやけ顔は相変わらずだ。
「まあまあ、私だってしがない下請けなのです、話だけでも聞いて下さい」
「下請けでも孫請けでも、もうたくさんだ」
「引き受ければ、あなたの猫、ええっと名前は…」
「グレイだ」
私は早口で口を挟んだ。
「その猫に会えますよ」
「本当か?」
思わず声が上ずった。続いて俺の腹が鳴る。間が悪い。
「働かざるもの食うべからず」
私を見下ろしたまま、ローワンは箴言を下し給うた。
「どのみち、また飯を食えるよう助けてやった恩を、取り立てるつもりなんだろう」
こいつに助けられるくらいなら、アスファルトを舐めておくべきだった。
「続きはよそで」
ローワンは私を表通りに連れ出した。拒否権があるとは思えなかった。終電間近でも、新宿の客引きたちは元気だが、中にはローワンを見るなり引っ込む者もいる。
「本当にグレイに会えるのか?」
「引き受ければ」
一つ二つ探りを入れたが、ローワンの口は固かった。
「人の少ないところでお話しましょう」
ローワンは通りを行き交うタクシーや、宅配代行の自転車に警戒の目線を注ぐと、角を二回曲がって枝道に入った。一ブロック先に喫茶店チェーンの緑色の看板が見える。
別の立て看板の陰から、黒猫が飛び出した。見覚えがあると思ったら、先ほど雨樋上りの芸を見せてくれた猫だ。
私の口に、マタタビの匂いでも残っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。黒猫は毛を逆立て、ローワンに向けて牙をむき出しにして唸った。私なら余計な刺激を与えずに退散するが、別の考えをするやつもいる。
「しっしっ」
ローワンが追い払おうとしても、黒猫は一歩も譲らない。相手が使い魔と悟ったのだろう。ローワンは表情を険しくして、印を結んだ。
「法の第三使徒ローワンの名において命ず。主がもとへ帰れ」
空気が張り詰め、猫は一歩退いたが、なお威嚇を続ける。骨のある子だ。
結局、私達は回り道をしてチェーンの喫茶店に入り、私は入り口からも窓からも見えづらい席をとった。しばらくして、ローワンがトレイをもってやってくる。のっているのは二人分だが、私に差し出してきたのは一杯のコーヒーだけだ。砂糖とミルクは無し。
「私のサンドイッチは?」
「仕事を引き受けてくれたら」
「考える時間がほしい」
自力でグレイを見つけられる可能性だってあるはずだ。
「あなたの時間は残り少ないはずですが。グレイの話だって、本当ですよ」
「なら詳細を話せ。早く話せば、早く引き受けるかもな。時は私達に共通の敵だ」
「某所にマモンクラブが拠点を作りました。我々に商売敵は無用です。片付けて下さい。報酬はさきほど申しあげたとおりです」
猫一匹とひきかえに押し込み強盗をせよ、というのはケッタイな話だろうが、もしも報酬に文句をつけたらグレイを愚弄することになる。
「なぜ私に?」
「法の代理戦士は払底しているのです。エントロピー陣営の跳梁といったら…」
話を最後まできいて私は頷いた。先程の若者でさえもマモンの入れ墨をしていた。
「先にグレイに会わせてくれたら、協力してやってもいい」
「駄目です。料金は先払いでお願いします」
先払いときた。どちらがマモンクラブなのか分かったものではない。
私がしかめっ面を作ってやると、入り口ドアの開く音がした。
「協力者が来たようです」
やってきたのは若い男だ。
「彼は犬山といいます」
ローワンの紹介で、犬山が私に礼をする。裏返したコートを提げて腰を折る仕草が、どうにも鼻についた。本当は下げたくないのに頭を下げている、とでもいった調子だ。
「犬山さん、あなたは、この仕事が嫌いなのですか?」
「まさか」
相手は冷笑とともに答えて、これ以上の言葉を付け足さなかった。代理戦士の仕事が好きな者がいるとも思えないが、成功と栄達の夢を追う若者には、魅力的なのかもしれない。もっとも、犬山という男の中では、未来への期待が冷めつつあるようにも見えた。
「お膳立ては全て彼がやりますから、鳥飼さん、あなたは選ぶだけです。明日の夜、この場所に来るか来ないか」
ローワンが名刺大の紙を裏向きのまま寄越した。
私が一拍おいてから紙を受け取ると、ローワンは解散を宣言した。
自宅より手前、近所の公園のそばで、私はタクシーを降りた。終電をすぎた、西武新宿線沿いの住宅街は静かで、自分の衣擦れの音さえ気になるほどだ。
ポケットから、鰹節パックをだしながら園内に入る。右から二番目のベンチに腰掛けて、かつお節を出してやると、ツツジの茂みが揺れて、灰色の猫が現れた。
「グレイ、おいで、グレイ」
肥え気味の体が、ベンチに飛び上がる。目測を誤ったのか、餌の至近に着地してしまい、かつお節が舞い散った。猫パンチで取り押さえようとしたが無駄である。
「仕方ないなあ。お前、最近太ってきてないか?ツナ缶でもせしめてるのか?」
私はもう一度かつお節をだしてやる。
グレイとそっくりな、少なくとも生き別れたときのグレイにそっくりな、この猫に出会ってから数週間が経つが、私の心には風穴が空いたまま、塞がる気配はない。この子をグレイだと思い続けて世話を続ければ、いつか虚しさも終わるだろうか。
「また会ったね。おじさん」
女の子の声だ。
顔を上げると、三毛猫のヘアピンをした女の子がいた。街灯が照らし出す顔には、猫好きなら誰もが浮かべる笑みがある。深夜徘徊の不良少女には似合わない表情だ。
女の子は、グレイのそっくりさんを挟んで、私と同じベンチに座った。ポケットに手を入れたが、すでに餌が出ているのに気づいたらしい。もう片方の手で猫を撫でると、灰色猫は満足そうに喉を鳴らした。
「君も?」
「うん。夕方にこっそり。ツナ缶」
「じゃあ、深夜の鰹節は今日でおしまいだな」
言葉を理解したかのように、灰色猫は恨めしそうに私を見上げたが、それも女の子が宥めるように額をさすってやるまでのことだった。
「さっきのボーイフレンドは?」
「知らない。ナンパされただけだし、猫嫌いだっていうからフるつもりだったし」
私はほっと胸をなでおろした。この子は法と混沌の、不毛な争いには無関係だ。女の子の表情が険しくなったので、私は場を取り繕おうと口を開いた。
「君、名前は?」
「あたし?マオ。この子に名前はない」
意外にも素直に名前を教えてくれた。猫好き同士のシンパシーだろうか。
「私はグレイと呼んでるよ、そういう私は猫好きの鳥飼だ」
「芸人なの?夜中の公園で練習?」
マオは愉快そうに喉で笑ったが、灰色猫はピクリとひげを震わせただけだ。
「さあ、どうして来てるんだろう」
問いかけは宙に浮き、凝り固まって沈黙と化した。マオが私の目を見つめてくる。
「もしかして、おじさんも?」
私は頷く。失踪したのか亡骸が見つかったのかはともかく、この子も私と同じだ。
「ミィは、病院にいくとき、キャリーから飛び出して車に…。鍵、ちゃんと見とけば…」
私は再び頷いた。グレイは死んだわけではないが、いまは相手の話を聞くときだ。
「もう生き物は飼わないことにしたけど、未練かな?この灰色の子とミィはよく似てるんだ。でも、私は別人のつもりで接してる。別人なのに、同じ子扱いするとか、勝手な期待を押し付けるとかって、最低じゃない?」
熱が入ったように喋り続けていた女の子は、不意に「しまった」という表情になって息を呑み、すまなそうに俯いた。
「ごめん。おじさんの猫はグレイだったね。そっくりだと、同じだって、思いたくなるよね」
「謝らなくていいよ。この子にグレイを投影していた私が間違っていたんだ」
「そっか」
続く沈黙を埋めるかのように、マオは携帯電話を取り出した。
「それじゃ、私は」
「ちょっと待って。メアド、交換しよ。猫の写真とか、好きでしょ」
何とはなく後ろめたくもあったが、猫好き同士ならと、私もスマホを取り出す。
「意外」
マオが目を見開いて、驚きの声を上げた。
「どうして?」
「懐中時計とか使ってるから、アナクロの頑固なジ…、人なのかなって、思ってた」
「これでも柔軟に、時代に合わせてやってるつもりだよ」
「売られた喧嘩を買う人が言う?」
マオの言葉には苦笑いあるのみだ。連絡先の交換を終えると、マオも猫も去った。
私はローワンから受け取った紙の住所を見つめた。
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