第2幕後半

 灰色の影だ。

「当然だろ。オレ様『の』ペットなんだから」

 カウンターの上に飛び乗ったのは、紛れもなくグレイだった。やせ衰えながらも気迫に満ちている。ほか十二匹の猫は、未だロボットに構い続けたり、床や壁に残るマタタビ臭に浮かれているが、グレイだけは超然とした態度で胸を張っている。以前には無かった向こう傷が、貫禄を出すのに一役買っていた。

「お前、喋れるようになったのか?いつからここにいた?」

「細かい話は後だ。いいからグラスハンガーだ。いや、そっちじゃない。反対だ」

 言われるがままに動き、手のひらサイズのドローンとコントローラーを見つけた。

「掃除をしたいが、猫が邪魔。これがお前の課題だ。オレ様には作戦がある。ドローンにマタタビエキスをつけて店の外へ飛ばす。猫はマタタビにつられる。ゆえに、マタタビ臭いドローンは猫を店の外に連れ出す。どうよ」

 グレイは尻尾をばたつかせたが、もう私には仕事などどうでもよかった。

「一緒に逃げよう」

「却下。三段論法を持ち出すまでもなく却下」

「なぜ?」

「おっさんと駆け落ちなんてゴメンだね。だいたいな、契約違反をローワンがどうするか、お前も知ってるだろ?代理戦士なんてクソ仕事だからこそ、ケジメをつけて、堂々と引退しろ。逃げるな、勝て」

「分かった、一緒に勝とう」

「だったらモタモタするな」

 まったく、グレイは正しい。

「棚のてっぺんも掃除してくれ。オレ様には管制塔が要る」

 マタタビエキスを取りにバックヤードへ向かうと、あとに付いてきたグレイが、当然のように私に命令する。当然、私は従う。言葉がないだけで、昔からそうだった。

 言われたとおりに掃除を済ませると、グレイが器用に棚をよじ登り、店の表側を見渡せる位置に陣取った。私はバックヤードにドローンを持ち込んだが、マタタビエキスをつける前にふと手が止まった。

「やせ細った十二匹の猫を、繁華街に出してしまっていいのか?」

 棚の上のグレイは、耳を伏せてひげを垂らした。

「何匹かは駄目だろう。残飯の食い過ぎで内臓を壊したり、事故に遭ったりな」

「じゃあ駄目だ。別のプランにしよう」

「オレ様は構わないぜ。お前さえ満足ならな。しくじったところで、ローワンはお前に嫌味こそいうだろうが、腹は切らせないさ」

 長年の友であるグレイを取るか、今日会ったばかりの十二匹の猫を取るか。

 答えは灰色だった。

「分かった。お前のプランにしよう」

 私はマタタビエキスを、ドローンのそこかしこに擦り付けた。

「コントローラーをよこせ」

「操縦できるのか?」

「できるとも。お前の知らないとこで、色々あったのさ」

 言われるがままにすると、再び指令が来た。

「裏口の戸を開けろ。猫たちを裏から出す」

「分かった」

 小走りで裏へ行き、私は犬山に話をつけた。片付けるから、何が来ても手を出すなと、いうだけで十分だった。

 裏口を開けたおかげで、店の中の空気が動く。ドローンにつけたマタタビ臭が広がったのだろう、ジェネラルがカウンターに跳び乗って、鼻をひく付かせている。

「いよいよオレ様のステージだ。ドローンは棚の隅にでもおいて、お前は表のほうにいって見物してろ。スイングドアを手で開けて、猫が通れるようにしろ」

 私はカウンターの端に腰掛けて指示通りにした。ジェネラルは、まだカウンター上に居座っている。気を引こうと懐中時計の鎖を揺らしてみたが、向こうはマタタビの香りの出どころを探るのに熱中していて、見向きもしない。

 このままでは、ドローンがバックヤードとカウンターの境目に入った途端、ジェネラルが跳んで叩き落とすのが落ちだ。

「ちょっと待て、グレイ」

 私の静止も虚しく、羽音とともにプロペラ四基のドローンが表に滑り込んできた。

 ジェネラルが跳ぶ。迫撃砲の軌道だ。

 ドローンと猫の進路が交差しかける、どちらも無傷では済むまい。

 フギャァァアッ!と、猫の悲鳴が上がったが、プロペラが原因ではない。

 グレイはドローンを急降下させ、L字軌道を取らせて突進を躱したのだ。

 勢い余ったジェネラルは壁に激突。壁紙に身長と同等かそれ以上の長さの爪痕を残して、床に落ちた。

 場を統御するのは、グレイであった。ドローンに店内を周回させて残り十一匹の関心を惹き付けたのち、猫の群れを飲食スペースからカウンター裏へと引き込んだ。まるで猫の雪崩だ。ドローンはジェネラルの墜落地点上空を通過して、バックヤードへ消える。

 身を乗り出してみると、猫の群れはジェネラルを足蹴にして、バックヤードへと流れていった。大将が上げる抗議の声を、猫たちの狂騒が掻き消す。

 続いて裏口の方から、犬山の驚く声が聞こえた。いい仕事だ。

 ふと思ったが、グレイに向こう傷をつけたのはジェネラルかもしれない。

「どうだ、オレ様の操縦テクは」

 ドローンがバックヤードから表に戻ってきて、グレイの勝ち誇った声が響いた。

 まさにその時だ。ジェネラルが起死回生の垂直跳びでドローンを仕留めたのは。プラスチックを床に叩きつけて壊す音がする。

「畜生!」

 棚の上からグレイが飛び降りた。

 私が墜落現場に駆けつけたときには、グレイとジェネラルの戦いは決していた。敗者は尻尾を巻いて店の外へと走り去った。

「見事だ。ドローンの大会に出たら、雄猫部門で金メダルが取れる」

 話しながら、私は撃墜王グレイの勇姿を何枚も写真に収めた。

「お前もな。観客部門ならトップだ」

 灰色の顔に広がる笑みを見つめつつ、私は昔を思い出していた。


 まだ私の白髪が、抜けば済む本数だった頃、飯能だったか奥多摩だったか、とにかく山の中での、怪談じみた風情の建物でのことだった。私とグレイはローワンの依頼で、エントロピーの魔術師、自称「虚構実喪」を「片付け」に出向いた。

 大あざを作ったり、かび臭い納屋に閉じ込められたりと、随分と煮え湯を飲まされたが、結局の所、私とグレイの連携プレーの敵ではなかった。

 ローワンは「片付け」を望んでいたが、私とグレイは当の魔術師を見て気が変わった。相手は、ひげがようやく生えてきたような若者だったから、普通の暮らしに戻る機会を与えるべきだと、私達は独断で決めた。いつものように、ローワンは現場には足を運ばなかった。

 少年の魂のうち、エントロピーの神々に毒された部分を切除する作業は簡単だった。次の作業は、切り取った魂の移殖だった。魂を封印する器の役を誰にするかが問題だった。自分を器にするつもりで私が印を結びはじめるなり、グレイが飛びかかってきた。

 爪と牙でもって、グレイは器役に志願することを表明したのだ。私は拒んだが、生傷が三つ四つと増えていき、失血死という語も脳裏をよぎった。とうとう私は折れ、グレイの意志を受け容れて作業を進めたのだが、最終段階で事故が起きた。魔法使いが不可視の杖を折ったのだろう。次元横断の渦が生じたのだ。

 衝撃が私を打ちのめした。目を覚ましたときには、グレイも少年も消えていた。


 並の猫なら寿命で死んで当然の月日がながれたが、グレイは当時からして只者ではなかったし、渦流が時を騙す例も報告されていたから、私は今日までグレイを探し続け、とうとう報われた。

「補足するとな、移植は成功してたんだよ。おかげで、オレ様は人語を自在に操るノーベル賞級の猫になり、世界を旅して回った。コロンビアにケンブリッジ、魔法学校にも通ったんだぜ」

 グレイは毛づくろいをしながら喋った。

「魂の封印について役立つことは学べたか?」

「残念ながら。どこの先公もヘボだった」

 私の表情を察したのだろう。グレイが居住まいを正して話の穂を継いだ。

「安心しろ。オレ様が死ぬまで、例の魂は大人しくしてる。オレ様も健康だ」

「残念だ。店のホコリを渦で吸ってもらおうと思ったんだが」

「いいから仕事しろ」

 私は肩をすくめ、スーツのホコリを払った。手を動かすたびに、ゴマ粒めいた極小の物体が視界を横切る。ノミだ。猫たちについていたのが、店内に残っているらしい。気づきながらも後回しにしてきた課題に、向き合うときが来たようだ。

「ノミ取り剤は無いのか」

「無いよ」

 高みの見物を決め込むグレイも、後ろ脚で体をかいている。

 差し入れの掃除用具にも駆除剤は見当たらない。手で一匹ずつ潰す時間は無い。

ノミでもダニでも、いわゆる害虫という奴は、ほおっておけばいくらでも増大する。エントロピーの象徴だ。ローワンに任務完了を認めさせるには、ノミ退治が必要不可欠だ。

 私は、解けない難題と一緒に、綿埃と猫砂の詰まったゴミ袋を抱えて裏口を出た。


「ひでえ有様だな。一張羅が襤褸になってら」

 猫の爪でぼろぼろになった私の服を見て、犬山が笑った。

「殺虫剤はあるか?ノミがいる」

「無いよ」

 私はゴミ袋をカートに投げ込んだ。

「コンビニを回って探してきてくれないか?」

「追加料金、深夜手当込みで」

「金ならくれてやったろう」

「あれとこれとは別だ」

 もとより期待はしてなかったとはいえ、後頭部が熱くなるのを止められなかった。

「おじさーん、今日も夜遊び?」

 割って入ったのは聞き覚えのある声だ。

 マオが猫のキャリーを提げて歩いてくる。深夜の裏通りだというのに、自分の家の庭であるかのように、物怖じする様子がない。

「うっわ、服ボロボロ。これ一日で?」

 傷だらけの一張羅が気になるのも無理はないが、ありのままは話せない。

「その子は、飼うことにしたの?」

 マオが連れているグレイのそっくりさんに話題を変えることにした。毛の色や体格、耳の動かし方まで瓜ふたつだが、今なら見分けも区別もつく。傷跡の多いほうがグレイだ。

「なんてゆーか、すごく懐いちゃって、一緒にお散歩」

「猫と夜遊びするには、この辺は物騒じゃないかな?」

「平気平気。慣れてるから。猫のストーカーだって撒いたことあるんだよ」

 マオは私の心配を笑い飛ばした。猫のほうはといえば、我関せずの態度である。

「あんた、見かけによらずやるねえ」

 犬山が会話に割りこんできた。歯をむき出しにして、私とマオを交互に見比べたかと思うと、舐め回すようにしてマオの体に視線を這い回らせた。

 思わずステッキを握る手に力がこもる。

 キャリーの中の猫も、毛を逆立てて威嚇する。

「嬢ちゃん、どう?」

 私の予測に一切違うことなく、犬山は金銭を意味するジェスチャーをした。

「おにいさんの家族、猫アレルギーの人いる?」

「えっ?あー、妹が…」

「じゃあ駄目」

 犬山は口を半開きにして突っ立っている。

「お付き合いすれば、家族ぐるみの関わりになるでしょ?そのとき、猫アレルギーの人いたら、上手くいかないんじゃないかな?」

 犬山は、もごもごとなにかいって数歩下がり、スマホをいじりはじめた。

 この手のことに親族は関係ないと、口にするほどの度胸は無いらしい。

 私が、音を立てることなく称賛の拍手をマオに送っていると、音の立つ拍手が近づいてきた。

 ローワンが、高級腕時計をこれみよがしに見せつけるようにして近づいてくる。

 犬山はスマホをポケットに押し込み、ゴミのカートを点検するふりをはじめた。

「やあやあ、お仕事はかどってますか。たいそうお忙しいかと思いましたが、いつのまにプロセルピナまで見つけたようで、さすがは鳥飼さん」

 私が女性と一緒にいると、ローワンは決まって女性をプロセルピナと呼ぶ。年齢によってはグニエーヴルとも。

「人聞きの悪いことを言うな」

「おじさん、この人だれ?」

「仕事関係さ」

 マオには人を見る目と分別があった。詮索をやめ、会釈をして早足で去る。

「ローワン、一つ聞きたいんだが、グレイが中にいることを知っていたのか?」

「知っていました。潜入したおりに、面会もしました」

「だったら、面会ついでに誘拐しなかったのはなぜだ。私がグレイと一緒に逃げる可能性もある。グレイを人質に取っておけば、お前は私を確実に使役できただろうに」

「人聞きが悪いですね。猫だけが友の御仁に、愛猫の声援を浴びながらお仕事できる環境を提供すると、いう粋なはからいです」

 ローワンの言葉は真実だろう。否定する根拠が見つからないという程度の意味で。

「面会したとき、話したか?」

「話しましたよ。人間の言葉で」

「何を?」

 ローワンは時計を見た。

「少々おしゃべりがすぎたようです。行かなくては」

 私はローワンの前に立とうとしたが躱された。

「エントロピーは減らしてくださいね、…大小問わず、有形無形を問わず」

 さり際にローワンが囁いた言葉は、私の背筋に冷水を浴びせた。

 

 重い足取りで店内に戻り、裏口の戸を閉める。

「とりあえず拭き掃除したり、バックヤードの整理でもしとけよ」

 教わるまでもない助言をほおって寄越すと、グレイは店内をうろつきはじめた。

「あんまりうろつくと、余計にたかられるぞ」

「なんとかなるよ」

 私は肩をすくめて作業にかかった。客席の掃除を終えたときには、一生分の塵芥や毛玉をみた気分になり、乱雑に物が詰め込まれたバックヤードの整理を終えたときには、腰の丈夫さについて自信を失った。グレイは私の老化ぶりに、愛のある百の皮肉をよこした。

 なんにせよ、ノミ退治以外は完了させて、店内のエントロピーをゼロに近づけたころには、午前四時を過ぎていた。もう眠りたかった。

 ふと店内を見渡すと、グレイがいない。声を張り上げるが、返事がない。かくれんぼかと、流しのほうに回ると、電子レンジのフタが二割がた開いていた。

 最初は閉じていた気がするのだがと、用心しながら近づく。

「扉を閉めろ」

 グレイの声だ。電子レンジの中から。

「頭隠して尻隠さずだな。扉が開いてる」

「だから閉めろと言ってる」

「かくれんぼは終わりだ」

「仕事も終わりだ」

 私はため息をついた。

「分かってるよ。始発までにノミ退治の目処がつかない以上、失敗だ。グレイ、お前ともお別れだな。せっかく会えたのに」

「半分だけ正解だ。ノミ退治も成功する。さっきからオレ様がうろつきまわってたのは、店中のノミを体にたからせるためさ。まもなくオレ様はレンジでチンされて、ノミは一網打尽。猫と寄生虫どもの心中さ」

 本当は全部分かっていた。黙り込む私へと、グレイがレンジの扉越しに語る。


 しばらく前、ローワンは某所でグレイを発見し、グレイのなかに虚構実喪の魂を見てとった。当然のように、ローワンはグレイごと魂を抹殺しようとした。

 ところが、グレイはローワンを説得した。どうせ殺されるなら、かつての相棒の手にかかって死にたいと。すると、ローワンは同意して、グレイをマモンクラブが経営する猫カフェもどきの牢獄に放り込んで、立ち去った。グレイとは関係なく、マモンクラブ襲撃計画は進んでおり、あとは実行者を探すだけだった。

 そして、ローワンは私を探し当てた。これまで何度もそうしてきたように。


「お前を殺したら生きていられない」

 私の表情を、金網越しに読んだかのように間をおいて、グレイが話す。

「オレ様が生き延びたら、ローワンはお前を消す。奴はそう断言した。どうせ、オレ様も殺すだろうけどな。要するに、エントロピーの魔術師の魂をレンちんするのが必須なのさ。反抗的になった年増の代理戦士を粛清する口実が見つかれば、なおよしってとこだ」

「一緒に勝とうと言ったじゃないか」

「オレ様は『勝て』といった。勝利の美酒を味わうのは、お前一人だ」

 話しているうちに、犬山の姿がちらつく。私は頭を振った。グレイは話を続ける。

「発想を変えてみろ。お前は、オレ様の本望を叶えるために、ネコをレンジにかけるんだ。立派な利他行為だよ。ノミ退治は公衆衛生でもあるしな」

「詭弁だ」

「うるせえ。お前もちったぁエゴを肯定しろ。猫を見習え」

 私は電子レンジの取っ手を見つめた。

「オレ様はエゴイストだからな、死に際にもお前に要求してやるぜ。オレ様のことなんてきれいさっぱり忘れて、ハトのクソみたいな代理戦士稼業から足洗えってな」

「それでどうしろというんだ?」

「普通の人になれよ。チャンバラも深夜労働もせずに暮せば、霊薬の力で楽しく長生きできるだろ。なんでもこの辺には美味い馬刺しの店があるらしいぜ。タレは控えめにな」

「お前なしで楽しむだなんて、出来るわけないだろ。一緒に逃げよう」

「オレ様は逃亡生活なんてやだね」

「ならローワンを殺す」

 グレイはシャーッと唸った。声が高い、シーッというかのようだ。

「チャンバラは忘れろって言ったばかりだろ。お前が人生を楽しめば、お前の勝ちだ。早いところオレ様を『片付け』て、余生を楽しめ」

 語り終えると、これまで我慢していたかのように、グレイは体を掻きはじめた。電子レンジの内壁にノミがぶつかって跳ねる音が、静寂の支配する店内に染み出す。レンジの外にでてかけばいいものを、グレイは決して扉を押し開けようとしない。

「分かったよ」

「それでよし。いい肉食えよ」

 私は電子レンジの戸を閉めて、ボタンを操作した。

 眼をつぶることが許されない気がして、私は立ったままレンジの中を見つめていたが、グレイは気丈な表情を続けていた。泡立つ眼球をみせまいという気配りか、瞼を閉じている。まるで眠っているかのようだ。生きながらにして内臓を焼かれているとは思えない。

 加熱の終わり際に発作が起きた。ポケットに手をやったが、それ以上はしなかった。

 チーンと、いう音とともに、私の意識は途絶えた。


 体の中にうごめく炎を感じた。どこかのお節介さんが、霊薬をあてがったらしい。

 目を開けると、犬山が私を見下ろしていた。

「なぜ助けた?」

「聞きたいのか?」

 私は頭を振った。恩を売りたかったとか、私を死なせてローワンの不興を買うことを恐れたとか、掃除が終わらないと自分の報酬が怪しくなるとか、動機がエゴイスティックなものであることだけは確かだ。聞くまでもない。

「ゴミ袋は外に出した。始発が近い」

 犬山の声を聞きながら、立ち上がって店内を見渡すと、ゴミ屋敷の有様は消え失せていた。かわりに、空間と家具の割合が不均衡な、殺風景な空間が生じていた。視界の端でノミが飛ぶこともない。

「よいしょっと」

 犬山がグレイの亡骸を納めた電子レンジを持ち上げた。

「何をしている?」

「ゴミ回収だよ。猫の死体も片付ける」

 私は頬がひきつるのを感じた。

「電子レンジだけなら構わないが。猫は置いていってくれ。私が埋める」

「駄目だ」

 思わず手が出そうになったが、犬山は後退して油断のない視線を返してきた。

「相棒なんだ。分かってくれ」

「俺に言うな。ローワンの命令通りにやってるだけだ。減額の口実を与えたくない」

 ボスの名を出せば十分とでもいいたげで、犬山はグレイの棺を持ち去ろうとした。

「待て」

 犬山は止まらない。

「ローワンとは、報酬後払いの契約か?」

 ぴたりと、犬山の足取りが止まった。

「何がいいたいんだ?」

「ローワンはケチくさい。お前の口を封じて、報酬を払わないってこともあり得る。実際、私より相棒の猫のほうが活躍したときには、猫缶で払ったぞ。奴は」

 私はメモに場所だけを走り書きして、犬山に押し付け、店から去った。


 帰りの西武新宿線は、始発ではなかったが、発車時刻は日の出前だった。

 車内では朝帰りらしい若者たちが騒いでいるが、傍若無人ぶりを腹立たしいとも思わなかった。どうでもよかった。

 車窓から眺める夜明け前の都会には活力がない。巨大な箱が立ち並び、先が見えない。見えたとしても靄がかっていて、視程はたかが知れている。電車が郊外に向かうにつれて、外の風景がかわってくる。相変わらず人工物がどこまでも続くような景色であるが、建物は低くなり、色相も変化する。日の出が近いか始まったかのどちらかだろうが、同乗している若者たちとは別の理由で、私は外の景色に何の関心も持てなかった。

 犬山と再接触する布石を打ったのは一種の直感だったが、実際に活用する日がくるとは思えなかった。犬山がいくらもらおうともらうまいと、私と同じよう走狗にされようとされまいと、どうでもいいことだ。

 真横からの朝日を浴びながら、睡魔に身を委ねようとしたとき、ある言葉が私の耳に飛び込んだ。

「働かざるもの食うべからず」

 声の主は若者の一人だ。何の話か知らないが、この格言が何処かへとさまよい出ていた私の心を掴んで引き戻し、ついでにローワンの顔が脳裏をよぎった。

 孫請けをこき使うばかりの法の使徒にこそ、当てはまる格言だ。

 話し続けた挙げ句に、ギャハハハハと笑い転げる若者たちの活気が私にも伝染した。後方から挿し込む朝日が、凝り固まった絶望という名の炭に、憤怒の炎を灯した。どうせ壺に灰を放り込まれる日は近いのだ。ならば盛大に白熱し、燃え上がってやるまでだ。

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