第2幕前半
翌日の夜、地元の公園で猫と戯れるか、都会で働くか、私は後者を選んだ。新宿の繁華街の外れにある建物の前だ。何らかの店だったらしいが、正面の出入り口と窓には松の合板が打ち付けてある。まだ落書きもなく小綺麗ではあるが、看板はなく素性はしれない。
裏手に犬山がいた。先に来ていたらしい。作業服姿で、掃除用のカートにもたれている。事情を知らないものからすれば、店じまいのために雇われた業者の人に見えるだろう。
私はといえば、最上級のジャケットと、磨き上げた黒檀のステッキだ。
他の代理戦士たちの伊達趣味が伝染したのだろう。実用性を犠牲にしても、戦装束には力を入れるものだ。神々の下したもう使命の完遂だけに執着するようになっては、戦士としては有用でも、人間としてはおしまいだから。
あいにくと、こちらの機先を制して、犬山から切り出してきた。
「始発までに片付けてくれ。ブラフで釣りだした奴らも、そろそろ戻ってくる」
「中には誰も?」
「人っ子一人いないさ」
犬山はニヤリと歯を見せつけて笑った。カモを引っ掛けた詐欺師の顔つきだ。
「鍵も開けてある。あんたは片付けるだけ、俺は外を見張るだけ。あと、ローワンからあんたに贈り物だ」
犬山は片手で霊薬の小瓶を突き出した。およそ三口分を詰めてある。
「あなた、一体何者なんです?」
いやに手回しがいい。本当に無人だとしたら、私がやるのは力仕事ではなく、罠を外したり、暗号鍵を盗み出したりといった、盗賊の仕事だろう。
「あんたと同じ、法の代理戦士さ。元はマモンクラブだが。もっとも、クラブのほうじゃ、今でも俺がエントロピーの忠実な使徒だと思ってくれてるがね」
「裏切り者か」
「神々に忠実な代理戦士なんてどこにいる?みな報酬が欲しいだけだ」
反論したかったが、グレイについての約束を思い出すと、言葉が出てこなかった。
「仕える相手を変えることは転職と同じ、もとより忠誠心なんてないんだ、裏切りとはいえないさ。代理戦士が忠実なのは、自分の欲望に対してだよ」
犬山の目が強欲にぎらつく。いったいローワンはどれほどの餌で釣ったのか。
グレイとの再会という報酬のために働く以上、私も犬山と同じエゴイストということになる。違うと言いたかったが、白髪のほうが多くなってからこのかた、いかなる神々にも忠誠心など持っていない。
見た目の上でも、おそらくは実年齢の上でも、犬山とは歳が離れているはずだが、私は口をきく鏡像と対決している心地だった。話に時間をかければかけるほど、自分が相手の色に染まりそうだ。
「あんた、ビビってんの?」
私は霊薬を一口あおり、扉をたたき開けて突入し、行動の軽率さを呪った。
人がいなくても獣はどうか?未だ血清が存在しない毒の分泌腺でも仕込んだ、ドブネズミが徘徊しているかもしれない。犬山が二重の裏切り者という線もある。
店内には暗闇がたれこめている。裏口の至近に街明かりが差し込むほかは暗黒だ。
霊薬が研ぎ澄ました五感に情報が刺さる。糞尿臭だ、猫の。猫?
奥へ駆け込みたい気持ちを抑えて、フラッシュライトで店内を調べる。目につくのはスチールの棚だ。事務所によくある、人より背の高くて灰色の、そう、グレイの棚だ。残念ながら、猫そのものは見当たらない。
代わりにキャットフードの大袋やマタタビエキスの瓶、歯磨きガムやトイレ砂が、銘柄や大きさに関係なく、天井の高さまで徹底的に詰め込まれている。消防法など知ったことかといいたげな有様だ。神棚のあるべき場所には、金貨で総身を鎧った龍の絵がある。
人間向けの品はなく、ペットショップのバックヤードのようでもある。床は大人サイズの泥靴の跡でいっぱいだが、不思議と人の気配はない。
やがて、棚が途切れる。店の表側から猫の鳴き声とマタタビの香りが流れてくる。
鳴き声は複数あり、五、六匹ではすまない数だが、いずれも敵意は感じ取れない。あるのは苦しみの響きであって、爆発寸前の荒々しさではない。
棚の陰から飛び出し、ライトで暗闇を薙ぎ払った。ストロボ連続撮影のようにして、店内の光景が私の脳裏に焼き付く。
私がいるのは、喫茶店のキッチンカウンターらしい台の前で、向こう側に猫達がいる。あいからわず苦しげな、腹をすかせたような声を上げている。
カウンター席の他には、掘りごたつの席とテーブル席とがある。正面ドアや窓があるはずの空間は合板で塞いである。板と壁の隙間は、テープで目張りしてあり、繁華街の明かりを締め出している。屋外から中を探れない形だ。
家具はガラクタ同然である。四本脚の椅子が三本足で、丸テーブルは歪な三日月みたいにかけて、クッション類はことごとく綿がむき出しだ。綿埃や抜け毛、溢れ出た猫砂と汚物が混ざり合っている。
ゴミ屋敷のように混沌とした店内で、肋の浮いた猫たちがクッションや、ネズミの人形にじゃれつくさまは、中毒患者を思わせて痛々しい。遊び道具にマタタビエキスを擦り付けてあるのだろう。
ここはマモンクラブが経営する猫カフェだったのだろうか?富の収奪にはまたとない妙手だが、猫の境遇は奴隷船同然だ。
光線を浴びた猫の瞳孔が、糸のようになる。私は慌ててライトを天井へ向けた。怒りの炎を向けるべき相手はマモンクラブであって、猫たちではない。ひとまずグラスハンガーにライトを寝かせて、電気のスイッチを探す。
そもそも電気は来ているのだろうか?
と、思った瞬間、パチっと音がして照明が灯った。思わず目をつむる。
猫たちも同じようにしたことだろう。
「すまんね、掃除用具を忘れてた」
バックヤードから犬山が現れた。両手で抱えるサイズのプラスチックかごを持ってきて、流しのあたりに音を立てて置いた。なぜか流し台の上には電子レンジがあるが、温めるべき食材を収める冷蔵庫はどこにも見当たらない。
「区の規則を守れ、分別を徹底せよと、ローワンが言ってたぜ」
「何の話だ?」
自分でも気づかないうちに、私はステッキを握り直していた。
「仕事の話だよ。この空間のエントロピーを減らすのがあんたの仕事だ」
「片付けによって、いうわけか」
「ご明察」
犬山が口角を目一杯に引き上げるのを見ると、私の背筋に怖気が走った。
「ローワンは、猫についてなんと言っていた?」
「何も」
「ゴミやらホコリやらを片付ければ終わりなのか、それとも…」
猫も、なのか。
「俺の決めることじゃない。歴戦の勇士らしく、自分で決めたらどうだ?」
「片付けた後はどうなる?グレイとは何処で会える?」
「俺の知ったことじゃない」
犬山は私に背を向けた。話しても得にならないというように。
「待て、これを見ろ」
犬山が振り返り、視線を私の掲げている財布に伸ばした。
「小遣いでもくれるのか?」
「掃除機を買ってきてくれ」
差し入れの掃除用具は、かごに収まる大きさのものばかりだ。掃除機は無い。
「あんたのパシリをするのは、契約にない」
「始発までに片付けが終わらないと困るんじゃないか?」
「そのときはあんたをマモンクラブに売ればいい」
犬山は悪びれた風もない。
「将来の不確かな報酬より、今の
財布からありったけの紙幣を引っ張り出し、流しに叩きつけた。犬山の目が動く。
「釣りはお前の懐に入れていい。とにかく掃除機だ」
犬山は無言で私のもとに来て、札束をかっさらうとバックヤードへ消えた。裏口が閉まる音がする。報酬だけに興味があると、いう考えが見え透いているが、私はどうだ?そもそも、家電量販店の閉店に間に合うだろうか?
疑問を打ち払うには行動するに限る。陣中見舞いの掃除用具を改めると、バケツ、雑巾、洗剤、ブラシ、卓上サイズのちりとりとホウキ、ウェットティッシュなどなど。どれも新品だが、百円ショップで揃えられるものばかりだ。
ローワンは経費削減をしたいらしい。
すすり泣くような猫たちの鳴き声が、ローワンや犬山に怨嗟の一撃を食らわせる空想から、私を引き剥がした。どの子も栄養失調にちがいない。
バックヤードに舞い戻って、キャットフードの棚を探す。銘柄も形状も関係なく物を詰め込んだ空間は、まさにエントロピーの象徴といえたが、幸いなことに衰弱した猫でも食べやすいブランドが見つかった。私も随分と昔、世話になった種類だ。
キッチンの引き出しをあさり、餌皿になりそうな容器を出す。水道も出た。念の為に皿をゆすぎ、濡れ布巾で流しのホコリを拭い、ありったけの皿を並べる。
封を切ると、匂いに釣られたのか、カウンターのスイングドアを爪でひっかく音がした。元気の良いのは結構なことだが、出すのは空きっ腹向きの量にとどめる。
両手に皿を持ちスイングドアまで行くと、白黒ブチが戸板をかきむしっていた。
「なあなあ、怪我させたくないから、一旦下がってくれないかな。頼むよ」
願いが通じたのか扉の動く分だけ白黒ブチが下がる。首輪にはジェネラルとある。
膝でスイングドアを動かして客席に入り、壁際に二枚の皿をおいた。真っ先にジェネラルが飛び込んでくる。他の猫たちも、マタタビ臭のする遊び道具から顔を上げて、餌のほうに鼻をひくつかせる。もたもたしていたら、食事の争奪戦が始まる。私は小走りでカウンターと客席の間を往復、皿を持って奔走しつづけた。
一段落して店内を見渡すと、全部で十二匹の猫がいる。老いも若きもいて、図鑑のページから抜け出してきたみたいに、同じ品種は見あたらない。
全員分の皿を出しても喧嘩は起きた。きっかけはジェネラルだ。早々に餌を平らげたらしく、抜け毛だらけの白猫の取り分を横取りにかかっている。
仕方がない。私は懐からハンカチタオルをつまみ出し、喧嘩の現場へと向かった。布切れで大将をくすぐってやると、案の定じゃれついてきた。
「よしよし、こっちだ、こっちこい」
表口近くまで引き離したところで、私はハンカチをくれてやることにした。もうじきボロ布に変わるが、二匹の猫の幸福に比べれば安い。
首輪に名前がある。ミケ、タマ、ミルトン、ピケッチ、サルゴン、プトレマイオス、サンジャル、ティーゲル、マウザー、キキョウ、アドミラル、最後にさきほどのジェネラル。
猫に囲まれるのは幸福だが、浸る時間は無い。掃除だ。
餌に夢中になっているすきに、トイレの始末にかかる。早食いのアドミラルにもう一枚のハンカチを捧げて気をそらし、どうにか十二匹分を片付けた。
シャンプーは諦める。ローワンも猫のことを知っているのかもしれないが、思いやっているとは考えられなかった。猫好きとしての私を言いくるめ、他の作業を優先させる。
プランはこうだ。美品の什器は中に、ほかは外に出す。粗大ごみ回収の準備があるのか知らないが、屋内のエントロピーさえ減らせば十分だろう。続いて、ホコリや抜け毛を濡れ雑巾でまとめ、最後にバックヤードの棚を銘柄別に整頓すれば、任務完了のはずだ。
実践は想定通りにはいかない。クッション付きの椅子を動かしたら、遊び道具を取り上げるなとばかりに、マウザーとキキョウが飛びかかり、スラックスを引っ掻いてきた。思わず苦笑いが浮かぶ。結局、染み付いたマタタビ臭を水で薄めることでようやく、家具類を裏口から外へ運び出せた。
掃除するうちに、マモンクラブの企みが読めてきた。出口のない箱に、マタタビ臭をつけたガラクタを散らかして、十二匹の猫を放ち、エントロピーの神々が望む混沌を現出させる。猫カフェとして開店する予定があったのかも怪しい。猫を放り込んで飼い殺しにする、牢獄のつもりだったに違いない。
まさか神々は、猫こそが地球の支配者であるという冗談を真に受けたのか?
十二匹の猫を向こうに回しての掃除という一大事業を、始発までに終えるというのは史上最大の作戦といってもいい。片付けの手を休め、うめき声を上げて腰を伸ばし、懐中時計を確認する。コンビニと夜の店以外は閉まったころだ。犬山は何をしている?
疑問に答えるかのように、裏口でノックの音がした。「俺だよ」と犬山の声だ。
汗ばむ手でステッキを構え足音を殺して裏へ。いやに時間がかかったじゃないか。
「入れ」
裏口のドアを突きの間合いに入れたところで、私は入室を促した。
ガチャリと、ドアが開く。
息を呑んで待ち構えたが、入ってきたのは犬山だけだった。箱を抱えているが、掃除機にしては随分と小さい。
「頼まれてたやつだよ」
犬山が荷物を床に投げ出した。ロボット掃除機の箱だった。期待していたのは昔ながらの掃除機だったが、手伝いが増えたと思えば嬉しい誤算だ。
問題は、防犯タグのあるべき場所が切り取られていることだ。
「盗んだな」
「あんたの頼みが遅すぎた。閉店してたんだ。大義の前には、これくらいいいだろ?」
金銭欲ゆえに盗んだに違いないが、揉めても仕方がない。片付けが優先だ。
「粗大ごみを頼む。外にあっただろ」
犬山は何も言わずに頷いた。なにか皮肉でも返されるかと思っていたから拍子抜けである。聞けば、近所のコインパーキングに、トラックを駐めておいたとのことだ。
かくして、ガラクタまみれのゴミ屋敷は、什器が未だ揃わない猫カフェといった雰囲気へと変身した。あとは拭いたり掃いたりだ。
早速、ロボット掃除機を開梱し、説明書とにらめっこして、水拭きモードにセットする。靴跡だらけのバックヤードで試すと、通路に光沢が戻った。
「よしよし」
思わず猫をあやすような声が出る。今度は表の掃き掃除をロボットに任せることにした。好奇心に満ちた十二対の目線に嫌な予感を感じつつ、床にロボットを置く。
数センチも進まないうちに、十二匹の戦士が跳躍した。代わる代わるに猫パンチ。波状攻撃だ。ロボットはなぶられるネズミ同然。もてあそばれるがまま。身動きがとれない。モーターの焼き切れ防止のためか、掃除機は前進を諦めて静かになった。
溜息とともに懐中時計を取り出して見れば、もう終電の時間を過ぎていた。ロボットで猫をじゃらしたいのはやまやまだが、タイミリミットは始発だ。犬山に助けを求めるか?もう金が無いから無理だろう。頼みこむ時間が無駄だ。
「グラスハンガーを見てみろ」
掘りごたつの下から男の声がした。反射的に構えたが、動きはなく、声が続く。
「なにぼさっとしてんだ、鳥飼」
「なぜ私の名前を?」
答えるようにして、掘りごたつの下から飛び出すものがあった。
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