第3幕

 復讐の旅に漕ぎ出す前に、私にはやっておきたいことがあった。昨日、新宿に放った十二匹の猫たちへの罪滅ぼしである。身なりを整えて外に出る。四月の朝はまだ寒く、風が吹き付けるとくしゃみが出た。自宅近所の銀行に向かうだけなのに、聖地へ赴く旅の途上にいるかのような気分だった。

 銀行に付くと、他に客はいなかった。出てきた番号札も一番だった。用紙の記入も滞りなく出来たし、銀行印も持ってきてある。私が窓口に向かうと、担当者は「地武田」という名札をつけた、新米らしい男だった。男の手が一瞬だけ固まったのが気にかかったが、高額の送金に驚いたのかもしれない。用紙を出した以上、あとはソファで待つだけだ。

 手続きは早く済むだろうという予想に反して、案外そうもいかなかった。窓口に用紙を提出してから十五分は待っている。二人目、三人目の客がやってきて手続きを済ませ、私より先に窓口に呼ばれて、帰っていく。

 ステッキに上半身の体重を預けて待つ。

 やがて、番号札一番、私の番号を呼び出すアナウンスがあった。

「申し訳ございませんが、お客様、こちらのお振込先とはどのようなご関係で…」

 地武田さんが、私の提出した用紙を示しながら、なにか恐れるような声で尋ねた。

「後援者、いや同志といったところですかね」

 相手は怪訝な顔だ。

「野良猫の保護団体への送金は珍しいんですか?」

 マネーロンダリングでも疑われているのかと思ったが、相手の言葉は私の推測が間違いであることを証明した。

「大変恐れ入りますが、お客様、振り込むようにお電話を受けたとか、そのようなことはございましたでしょうか?」

 私もいよいよ老人らしく見えてきたようだ。詐欺にあっているのだと思われたらしい。「いいや、大丈夫」と、いうだけでは済まず、奥から出てきた年配の行員とも話したり、団体に電話をかけたりと、想像した以上の大事になった。

「かしこまりました。おかけになってお待ち下さいませ」

 と、いう声をきけたときには、三十分が経過していた。

 椅子に座って手続きが終わるのを待つ間、なんとはなくマオに写真をメールした。昨晩とったグレイの写真だ。ただし、むかし撮ったものだと嘘をついた。今どきの若者で春休みの時期とくれば、すぐに返事がきてもよいはずだが、携帯は沈黙を保っていた。

 手持ち無沙汰でいると、ふたたび発作がきた。こらえきれずに咳き込むと、別の客の悲鳴が上がった。叫びたくなるほどの有様なのかと、朦朧とした意識の中で考えを巡らすと、灰色のジャケットの袖と、床のタイルの両方に、赤い円が散っていた。

 咳き込むたびに血のシミが増える。行員が駆けつける足音と「お客様、お客様」という悲鳴じみた声を聞きながら、私は霊薬の瓶を引っ張り出した。外した蓋は手からこぼれ落ちるにまかせて、中身を一息であおる。もう瓶の中身は空だ。

「もう大丈夫、大丈夫だから。それより、床を汚してすみません」

 どういうわけか、相手の地武田さんもまた、すまなさそうな表情をしている。

「申し訳ありません、お客様。高額送金には別の用紙に書いていただくことになっておりまして…」

 銀行を出るには、もうしばらく時間がかかった。


 新宿駅地下の改札を抜けるなり、私のあとをつけてくる者がいる。犬山だ。

 先だって渡したメモのとおり私を待っていたらしいが、向こうは待ち合わせをしていた素振りなど見せず、一人だけの遊び人らしく暇そうに歩きながら尾行してきた。私も相手の芝居に付き合って、都会に不慣れな老人を装う。迷っているように見せかけつつ地下街の人気のない区画へ入り込み、トイレの表示を見つけると小股の急ぎ足で駆け込んだ。

 先客はいない。小便器の脇にステッキをたてかけたとき、背後に殺気を感じた。

 柔道の要領で相手の背中を、薄汚いタイルの壁に叩きつける。犬山の手から鋸歯の付いたナイフが落ちた。私は刃物を蹴り飛ばしてステッキを脇に挟むと、犬山を個室に連れ込み、閂を掛けた。

「何のつもりだ?私がお前を消すとでも思ったのか?」

 背中と首すじに力を込めて、犬山の顔を、流しても落ちない茶色いシミのある和式便器に押し付けた。

 口を割らないので水を流す。

 冷水が鼻を突き刺したのだろう。犬山は助けてくれと哀願した。

「話が先だ」

「あ、あんたの首に、賞金がかかってるんだ」

「誰が掛けた?」

「マモンクラブだ」

 立派な忠誠心だ。雇い主ではなく金欲に対しての。

「お前をローワンに引き渡して事情を話せば、私だって金をもらえるだろうな」

 犬山が悲鳴を上げた。

「い、いやだ。あいつには引き渡されたくない」

「欲をかかなければ、お前はローワンからの報酬で、贅沢三昧が出来たろうに」

「お願いだ。黙っててくれよ。何もなかったことにしてくれ。俺の取り分をくれてやってもいい」

「あいにくと私が欲しいのは金じゃない。そうだ、いいことを思いついたぞ。マモンクラブにお前をくれてやるんだ。裏切りの告発状と一緒にな」

 背中を踏みつける足に、一層の力をこめる。

「助けてくれ、何でも話すから助けてくれ。見逃してくれ」

「ローワンのアジトはどこだ。知っている場所は全部話せ」

「分かった。分かったよぉ」

 私は犬山を絞り上げるだけ絞り上げると、鳩尾に一撃を食らわせて捨て置いた。


 ローワンが使っているという、都内のアジトは全てもぬけの殻だった。

 のこるは北関東の山城跡だけである。電車の待ち時間にメールを見たが、未だにマオから返事がない。昼間、北へ向かう在来線のなかで、もう一通グレイの写真を送ったが、反応はない。

 なにか事件に、それこそマモンクラブがらみのことにでも巻き込まれたのではと、嫌な汗が浮かんでくるが、私には電車に揺られることしか出来ない。

 電車とタクシーを乗り継いで山城のそばまで来たときには、四月の北関東の夕方という点を差し引いても、手足がかじかんでいた。ステッキをついて降車する時に、運転手が手を貸そうと近寄ってきたほどだ。

 霊薬の作用も薄れてきたらしい。北上したから寒くなったというには冷えすぎる。

 城跡といっても、観光地ではない。公園として形ばかりに整備されているだけだ。手入れをする人が不足しているのか、木々も笹薮も好き放題に枝を伸ばし、夕日を受けて長大な影を土塁や堀の跡に投げかけている。

 どこにローワンが潜んでいるのかと用心しながら近づくが、忍び足に必要なだけの粘り強さは、私の筋肉から消え失せていた。足音を消そうとしても消しきれない。

 道端にある藪の中に、猫のキャリーが転がっているのを見たとき、私は動揺のあまり小枝を踏み折ってしまった。昨晩、マオがグレイのそっくりさんを入れていたキャリーと全く同じ型であり、表面の劣化の度合いからして、捨て置かれたのがつい最近であるのは明白だった。戸口は空いていて、猫の姿は見当たらない。

 偶然の一致と思いたかったが、思えなかった。メールの返事が一向に無かったことが、楽観論を打ち消す。

「やあやあ、ようこそいらっしゃいました」

 背後からローワンの声が聞こえた。

 私の鼓動は速度を増した。振り返って杖を構える。

「お待ちしておりましたよ」

 大木の下には、彫刻の入ったテーブルと、二脚の椅子があり、卓上にはアフタヌーンティーセットがある。紅茶もお菓子も完備だ。

「こっちは手土産も無しですまないね」

「どうぞおかまいなく。これは犬山がご迷惑をおかけしたことへのお詫びですから」

 犬山が裏切ることを予想していたような口ぶりだ。実際、裏切りの事実を知っているのかもしれない。

「詫びるつもりがあるなら腹でも切ってくれ」

 私はステッキの先をローワンに向けたまま告げた。自分でもいらつくほどに、ステッキが震えている。

「待ちなさい。あなたのご友人、年の離れたお友達がどうなってもいいのですか」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ローワンは指先と腕を複雑な手順で動かした。

 目くらましは解けた。お茶の準備がかき消える。かわって現れたのは、ギロチンだ。処刑を待つのはマオである。夕日が錆色の刃を血の色に変える。猿ぐつわを噛まされたマオが抗議の声を上げる。

「私が合図をすれば…」

 ローワンは宙に手刀を切った。

「お前の望みはなんだ」

 私は歯を食いしばった。

「望み?ほおっておいてもらうことですよ。私には法の使徒として、たくさんの用事がある。あなたのように反逆した代理戦士に構う暇はないのです」

「ならば、その子を放せ。我々の仕事とは無関係だ」

「人質を解放したら、あなたは私を襲う」

「お前はグレイの仇だからな」

「あなたが死ねば、この娘も用済みです。仇討ちを諦めれば全て丸く収まる」

 私の怒りを代弁するかのように、マオが再び声をあげたが、ローワンは眉一つ動かさない。

「安心してください。どのみち、あなたの命も残りわずか。あなたが世を去ったら、この娘も解放します」

 処刑台の上で、マオが驚いたかのように目を見開いた。私は安心させようと微笑みかけたつもりだが、効果はなかったようだ。

「お前は手を汚したくないんだな。これまでも、お膳立てと指図をするだけで、汚れ役は私のような代理戦士だった」

「当たり前です。殺人は法に背きます」

 ローワンは芝居がかった仕草で、肩の高さで両手を上に向けた。

 私が寿命を使い果たせば奴の勝利だ。もしも私が奴をぶちのめせば、それでも奴の勝利だ。ギロチンがマオを殺し、私はマオの死に責任を負うことになる。人質を顧みないという選択にも魅力はある。もしもマオが子猫を殺したりしていたら、選んだかもしれないが、マオは猫好きだ。ありえない。

 私はステッキの先をおろして、地面につけた。

「帰りのタクシーが来るまで少々お待ちを。お茶は出せませんが、なにかやり残したことがあるなら、いまのうちにどうぞ」

 ローワンは電話を取り出しながら、薄笑いを浮かべた。

「ネジを巻いてもいいかな?」

「なにか時間稼ぎでもしようものなら…」

「違うよ。懐中時計が止まったままなのを思い出したんだ。規則正しいリズムが止まってたりすると気持ち悪い、だろ?」

「いいでしょう、ゆっくり取り出すのですよ」

「ああ、大丈夫だ、分かってるよ、下手な真似はしない」

 いかにも相手を刺激しないようにやっているのだと、いう緩慢な動作で手を懐に入れる。ローワンは私の手ばかりか全身に注意を払っていたが、出てきたものが本当に時計なのを見届けると、警戒を解いた。

 私はネジを巻き始める。来ないはずの助太刀に愚かしい期待を寄せているかのように、スローテンポで巻き続ける。

 対するローワンは、指を弾いて出した椅子に腰掛けると、電話をいじって耳にあてた。相手が出たのだろう、ローワンが「もしもし」と言った瞬間、奴の背後に灰色の影が現れ、電光石火の勢いで跳躍した。

 グレイのそっくりさんだ。姫を救う騎士、いや食事の恩義を返しにきたと、いうほうが正確だろうか。

 灰色の野武士は、右後ろ脚の爪を首筋に食い込ませて支点を確保すると、モモンガのように体を広げながらローワンの顔に覆いかぶさった。

 特殊部隊がフラッシュグレネードでやることを、自らの体を使ってやってのけたところで、灰色猫は両前足の爪をローワンの両目につきたて、目にも留まらぬ速さでかきむしった。

 私達の他には誰もいない山城に、犠牲者の悲鳴がこだまする。

 前の見えないローワンは、椅子から立ち上がり、ふらつきながらも両手を顔に持っていき、猫を引き剥がそうとする。胴はがら空きだ。

 時計を捨て、余力を奮い起こして私は跳んだ。黒檀のステッキに戦士の力をありったけ注ぎ込む。柄に刻まれた紋章から、ありうべからざる黒い光が溢れ出す。場外ホームランを叩き出すつもりで、ローワンの胴を打ち抜く。

「働かずに食っていいのは猫だけだ」

 ステッキは渦に変容し、ローワンが吸い込まれて消えた。多元宇宙を吹き抜ける風は、あと数センチも無かっただろう私の命の蝋燭に灯っていた炎を道連れにしたらしい。運動のあとなのに、手足が冷え切っている。

 膝をついた私を支えてくれたのマオだ。もうギロチンもお茶のセットも、ステッキもない。ただ黄昏時の公園があるだけだ。

 マオの膝下に、灰色の猫、グレイのそっくりさんが身を擦り寄せている。

「おじさん、助けてくれてありがと」

 膝をついてさえ、上体を起こしておけずに倒れ込む私を、マオが支えてくれた。結果として膝枕の格好である。

 喉が切れるような咳が出て、マオの服を血で汚してしまった。詫びようとしたが、ヒューヒューいうばかりで声が出ない。

「大丈夫。安物だから。ちょっとまってて」

 マオは膝の代わりに上着を私の枕にすると、脇へとかけていった。

「ごめん、壊れてるみたい」

 しゃがみこんだマオが差し出してきたのは、私が捨てた懐中時計だ。案の定、針の動きは止まり、ガラスが割れている。悪いのは君じゃないと、いう言葉は視線と表情で伝えるほかなかった。

 藍色の帳がおりつつある西の空にグレイの姿が見えた。一番星が首輪の鈴みたいな位置にある。

 普通の人になれと、いう助言を無視して心底申し訳ないと思うが、ローワンの手から猫好きの女の子を助けたのだといえば、許してくれるだろうか。

「グレイ…」

 何を話したいのか分からぬまま、どうにかして絞り出せたのは相棒の名前だった。

 幻の猫を抱こうとして手を伸ばすが、星はあまりにも遠い。視界が霞んで暗闇と化してとき、手に毛皮の感触が返ってきた。

「うん、この子はグレイって名前にする。分かってくれるよ、きっと」

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