水曜日の水仙

八稜鏡

水曜日の水仙

序章


「貴方の夢は何ですか」

 なんて無責任な街頭インタビュー、死ぬ事ばかりぎる簡潔しすぎた頭蓋骨の中に、在り来たりな他人の言葉が硝子の破片となって居座った。

 どうせ掌の中だ。予想しうるその未来さきを噛み潰し、蒼穹を見上げながら紫煙のような溜息と共に吐き出した。

 ふわり浮かぶ月と太陽。黄昏時、昼夜入り混じる空間を砂上の楼閣ビルから飛び降りて見届けたい。

 ねぇ、見せてよ。本当の正しさを。僕らは無知蒙昧な侭、大人になれず取り残されている。






 陽が昇って月曜日。

 蒼い闇は眩しい朝日に掻き消えた。

 煙草の香りに涙を噛む。




 夕闇に溶けて火曜日。

 黒い傷跡は黄昏に混ざり曖昧に。

 砂色の外套が少しは似合うようになっただろうか?




 境界が崩れて水曜日。

 行間は……。






【――水曜日の水仙――】






第一章 君が為、巡る時間に塩を塗る


 ぽつぽつと窓を叩く音がする。

「あ、雨が降ってきましたね」

 賢治の快活な声が耳を通り抜けた。

 ぽちぽつ、こつこつと窓をノックするその音は次第に強くなり、やがて轟音を立てながら雨が本格的に降り出した。

「どうしよう……」

「何だ、敦」

「傘を持ってくるの忘れちゃいました」

 少しずれた眼鏡を上げながら、国木田が敦の方へと向かう。へらりと笑う敦の笑みはどうにも気が抜けそうだった。

「いいか、敦。今日の降水確率は――」

 くどくどと話しながら傘を貸している国木田をちらりと見詰めて、太宰は詰まらなそうに溜息を零しながら頬杖を突く。

 どうにも気が進まない、と愛読書に手を付ける事すらせずにぼんやりとしていた。

 湿った外が見える所為かもしれない。探偵社の窓は透き通りすぎているのだ。

「太宰さーん、お話聞いていましたか?」

 机の上の書類を纏めながら此方へと呼び掛ける敦に適当に返事をしたら、手を腰に当てて呆れたように肩をすくめる。

「道中で説明しますので、取り敢えず外に出ましょう。時間が無くなっちゃいますし」

 ぱたぱたと雨音のような足音を立てて、敦は太宰の隣に立つ。

 長椅子ソファのクッションと成り果てた太宰をどう動かすかと思案するその姿を見上げながら、そう云えば今日の仕事は……と思考を巡らせていった。

「うん、行こうか」

 珍しく、そう非常に珍しく素直に太宰は立ち上がる。

 国木田が手に持っていた書類を落としているのが視界の端に見えたが、気にせず歩み出した。

「太宰さん、傘持っていかないんですか?」

「必要無いよ、君が持っているだろう?」

 飄々とした笑みを浮かべて扉を開く。




 嗚呼、寒々しい程に穏やか過ぎる日常だ。




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「予想よりかなり早く終わりましたね」

 依頼が手早く終わったことに安堵してほっと一息吐きながら、敦は太宰を見詰める。飄々とした仕草で、相変わらず何を考えているのか予想が出来ない。

 傘を差しているのは敦だが、傘の下の半分以上を太宰が占拠しており、ざあざあと降る雨が敦の身体に鬱陶しく纏わり付く。

 不意に太宰がぴたりと立ち止まった。首を傾げて敦は視線をその顔に向ける。

「敦君、傘貸して」

「あ、はい。どうぞ」

 何の躊躇いもなく太宰に傘を渡すと、にこりと笑んで有難うと告げられる。

 疑問を口にしようと敦が唇を開いた瞬間、太宰は駆け出した。すいすいと人混みと色とりどりの傘の海に混ざり合って、姿が消えて行く。

 驚く暇すらなかった。

 その一瞬の出来事に呆然とその場に立ち尽くす敦に構わず、雨脚は強くなっていく。

「国木田さんになんて云おう……」

 呆れたように溜息をき、しょうがないと探偵社に向けて歩み出した。

 どんよりとした雲は晴れる気配すら見せない。




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 太宰はわざとらしく上機嫌に鼻唄を紡ぎながら、路地裏へと身体を滑り込ませる。

 くるくると傘を回して、濡れてもいない外套を軽くはたいた。

「そろそろ出てきても善いんじゃない?」

 冷めた瞳はその侭に、口元だけをにこやかに緩ませ太宰は路地裏の奥を見詰めた。

 ゴホッゴホッとすわぶきを零しながら暗闇がうごめく。

「相変わらず下手糞な尾行だったねぇ」

「仕事は出来ているので問題有りません」

「それで何の用?」

 太宰は鬱陶しそうに暗闇に溶け込んでいた芥川を見下ろす。

 芥川の握りしめられた拳から血が滴り落ちた。

「銀の傷が癒えました」

 大きく目を見開いて太宰は高らかに笑う。

「なぁんだ、未だそれを気にしてたの?」

「……貴方が用意した手駒に付けられた身体の傷が消えたとしても――」

「それ銀ちゃんが自分から云った?」

 咳を吐き出して唇を噛むと、芥川の漆黒の瞳が幾十にも濁っていく。

「銀からは何も。全ては首領を介して聞いたまで」

「それって森さんの主観が入っているでしょう? 君は本当に愚かだねぇ、兄として何もしてあげられず傷を抉るばかりだ」

 ヒュンと太宰の頬を黒布が霞めて消える。頬を滴る血があの時の銀の顔を、芥川の脳裏に鮮明に蘇らせた。

「あの時、君が見捨てなければ……目を離さなければ起きていなかったことだ。私は唯、武器を研ぐ切っ掛けを与えたにすぎない」

「銀の武器はそのようにして磨かれるべきではなかった!」

「君が慟哭したとて過去は変わらない。憎悪は私じゃなくて己自身に向いているのだろう? けれど君はそれを受け止められず八つ当たりする。本当に弱いねぇ」

 芥川は拳を握り締めて歯軋りする。何も云い返せない。それは全て事実で、研ぎ澄まされた銀の刃に恐れるばかりで褒めることすら出来なかった。だからこそ太宰に労う言葉を求めたのだ。

 へらへらと太宰は笑って両腕を広げる。

「それで、芥川君の用事はこれだけ?」

 悔し紛れに溜息をき、本来の目的を果たす為に太宰を見据える。

「それから此方を渡しに来ました。共喰いの際の報告書です」

 濡れないように袋に包まれていた封筒を差し出すが、太宰は受け取りもしない。解っている。最初からそんなこと解っていた。それでも……。

「……私じゃなくて――」

「その報告書の幾つかをやつがれが書きました。貴方なら解ると思います」

 嗚呼……未だこの子はあの事を憶えているのか、と太宰は溜息をく。

 震えた手で渡されたそれをしっかりと受け取ると、古い古いアルバムがばさばさと乱雑にめくられるかのように鮮明な記憶が脳内を駆け巡った。




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「報告書、一人で書けました」

 四年程前――太宰の執務室で芥川と太宰は神妙な面持ちで対面していた。

 恐る恐る差し出されたそれを受け取り、二度見して太宰はビリビリと引き裂く。

「全然駄目、やり直し」

 芥川の引き攣ったような吐息を無視し、灰皿に更に細かく引き裂いて乗せるとライターで火を点けて燃やす。

 扉付近に立って居た構成員の唾を飲み込む音が、静かな空間に燃える紙片の喘鳴と共に響く。

「耳も使えないの? もう一回、書き直してきて」

 震える拳を握り締め、唇を噛んで部屋を飛び出して行った芥川の背中を見詰めながら頬杖を突く。

 事情は解っている。字を覚えて二ヶ月程にしては、とても美事みごとな物だった。

 では何故、太宰は褒めもせず見せ付けるように燃やし尽くしたのか。

 ぎいと椅子を一周させながら伸びをする。

「出て行って良いよ」

 扉の傍で苦々しい顔で立って居た構成員にそう声を掻けて、出て行くのを見送ると机に突っ伏した。

 ねむい、と心中で呟く。衝動的に思えるようにねむってしまいたいから、ねむる場所を脳内で組み立てる。

 芥川は端的に云えば木偶である、と噂になっているのは知っていた。太宰への足掛かりにする為に木偶でも褒め立てる蛆を焙り出し、ぷちぷちと捨て駒にしていく。

 そもそも褒める理由が太宰には無かった。異能の殺傷力は強いが、それだけでしかない。自ら行動することも出来ず何も役に立たず、何も成せないポンコツだと繰り返す。

 今日は普通に、極々有り触れた方法でねむろうと、鍵の掛かった引き出しから幾つかの薬を取り出した。

「この薬じゃそろそろ駄目そうだなぁ」

 効きが鈍い薬ばかりになってしまい、溜息を溢れさせる。

 どんな策も、薬と同じだった。何時か必ずその策は鈍っていく。そうしてまた新しいさくを編み出すのだ。

 既に少年で無くなってしまった彼でも、傷跡けいけんは未だ幼かった。だからこそ、歪んだ師弟とも呼べないようなその関係に深い深い溝が出来ていたとしても、見えない振りをしてしまっていた。

 それがどのような禍狗を生み出すのか、彼は未だ知らない。




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「……後で読むよ」

「今読んで頂きたいのです」

 芥川の暗い暗い瞳が太宰を射抜く。

「此所で燃やしたくなるかもしれない」

「また新しく書き直すだけです」

 真剣な、懇願するような瞳は居心地が悪い。

 太宰は舌打ちをすると、芥川を蔑んだように見詰め返した。

「私は仕事が無い君と違って忙しいのだよ」

「そうですか」

 酷く悲しげに返された声は雨音で掻き消えてしまう程に拙い。

 まるであの頃に戻ったかのようだった。幼く愚鈍でそうして……太宰は静かに唇を噛む。

「太宰さん、必ず感想を聞かせてください。また、会いに行きます」

「来なくて良いよ」

 がしがしと頭を掻きながら、太宰は芥川に背を向ける。

 逃げようと思えば容易に出来ただろうし、燃やす事も出来ただろう。それをされなかった事に芥川は少しだけ安堵した。

 今は未だ、それで善い。




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「おや、随分遅かったねェ」

 探偵所に戻ると、医務室から出てきた与謝野と鉢合わせた。

「済みません」

 誤魔化すようにへらりと笑いながら、片手を上げる。

 太宰を叱るべく姿を現した国木田をかわしながら、社長室へと向かう。

 ノックをする前に扉が開き、福沢とぶつかりそうになった。

「む、太宰か」手に持っていた封筒に気付くと、手を顎に当てる。「嗚呼、そうか。随分早かったな」

 何か思い当たる節が在ったらしく、福沢は一人で頷くと社長室にある長椅子ソファを指し示す。

 有無を云わせぬその指示に仕方なく太宰は長椅子ソファに腰掛ける。向かいに福沢も座り、書類に目を通した。

——はぁ、最悪。

 太宰はぐっと伸びをして、手の皺を眺める。やることがないから、と。愛読書でも持ってくればよかったかもしれない。

 ぱらぱらと雨音と紙をめくる音だけが部屋に木魂する。

 福沢をぼんやりと見詰めながら、太宰は欠伸をした。別に眠いからではない、ねむる為の準備動作のようなものだ。

「綺麗な字だな」

 暫くして、不意に福沢がそう零した。

 すっと指し示したその筆跡は、紛れも無く芥川のモノで太宰は自然と首を傾げる。太宰の居場所である探偵社の人間に見せる為に、わざわざそこだけ手書きにしたのだろう。それが人伝に太宰に届くことを願って。

「そう思いますか?」

「嗚呼、何か深い情がありそうな美しさの追求された字だ。これは、美事みごとだな」

「……そうですか」

 癖になってしまった悪態が零れるのを口元を抑える事で防ぐ。

 今日は何もかも思い通りにいかない、と苦虫を噛み潰したかのような気分で頬杖を突く。

 流れる時間が今だけは酷く酷く遅いように感じられた。




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第二章 白と黒の化学反応


宵の口——探偵社寮への帰路にて


 与謝野の買い物に付き合っていたら遅くなってしまった、と敦は急いで帰路を辿る。

「うわっ」

バシャン

 大きな水溜りに気付かず、敦は派手に転んで尻餅を付いた。

「いてて……」

 そうして視界に入ったのは美し過ぎる夜空と、それから……。

「芥川!?」

 電柱の上に立ってぼんやりと何処かを見詰めている芥川の姿だった。

「愚者め」

 虎の耳はその些細な声と舌打ちを聞き取ってしまう。

 呆然とその姿を見上げていたが、はたと立ち上がることを思い出した。

 洗濯が大変になる、と慌てて立ち上がり汚れた箇所を見詰める。幸いな事に雨で洗われて直ぐの混凝土コンクリートだったので濡れただけで済んだ。

 多分、見なかったことにしてこのまま通り過ぎるのが最善なのだろう。

 敦は暫し頭を掻いて考え込み、それからスタスタと電柱を登った。

何故なにゆえ此処に――」

「別に、気になっただけ。それだけだよ」

 芥川が見ているのは何だろうか、と視線の先を追う。

「何も見てはいない」

「太宰さんでしょ」

 此処からだと太宰の部屋がよく見える。ごろごろと普段通りに寝転がって、愛読書を読んでいた。開いた窓から時折入り込む風に特徴的な蓬髪が揺れる。

「恐らく気付かれているぞ」

「……太宰さんならそうだろうね」

 そう云えるようになったのだから敦も少しは太宰に、探偵社に馴染んできたのだろう。

 電柱にしがみつく敦は白く目立つ。そろそろ降りるかと芥川の外套を掴んだ。

「何だ」

「や、ちょっと話そうと思ってさ……」

 敦の表情を見詰め、渋々といった体で芥川は軽やかに電柱を降りる。

 芥川を追い掛けて灯りの目立つ路地を抜け、薄暗い路地裏に向かう。

「此処ならば人は来るまい」

 敦はその袋小路に苦い味が蘇り、胃の辺りを摩った。全く違う場所ではあるがどうにも記憶が繋がってしまう。そんな弱さすら乗り越えたくて掌を握りしめる。

「……何から話そう」

 面倒そうに数度咳をして芥川は敦を睨む。

「貴様――」

「待って、本当に話す事が多いんだ。ゆっくり話させて」

 敦は両手を上げて、側にあった室外機に腰掛けた。幸いなことに壊れていて動かないようだ。

「多分長いし体調悪くなるから座れよ」

 指差したのは隣の室外機。居心地悪くなるが致し方ない。それでも敦には話さなければならない事があった。

「先ず、院長先生の時のこと……一応だけど、有り難う」

「礼を云われる筋合いはない」

「お前ならそう云うと思ってたよ」

 芥川は口元を抑えて室外機に腰掛ける。

「余り時間は無い。余計な感傷は――」

「太宰さん」その一言で光の宿った芥川の目をじっと見詰める。「褒めてたよ、お前の字」

 不本意そうだったけどね、とは云ってやらない。他人に引き出されたとはいえあの顔は本心を話している時の顔だった。

 敦だって字は巧くない。というかそもそも書けない字の方が未だに多い。

 これは云っても善いかと両手を見詰めながら、唇を開いた。

「ちょっと羨ましいと思った。太宰さんがああいう顔で褒めてるのは見た事無かったからさ」

 がりがりと頬を掻いて、下を向く。

 芥川の反応はない。

 じっと黙って次に何を話そうか、ゆっくりと思案する。

 静まりかえった路地に二人の吐息だけが溶け込む。沈黙が気不味かったが、敦には何も云えなかった。いや、正しくは掛ける言葉を持っていなかった。

 それから暫く芥川の顔を見れずにいたが、思い切ってその顔を見る。

「えっ泣いて――」

「煩い、見るな」

 ぐしぐしと袖口で目元を不器用に擦るのを見て、こいつ泣き慣れてないなと敦は目を見開く。

「跡残るぞ」

「煩い」

「太宰さんに云うぞ」

「構わぬ、嗤われるだけだ」

 ぶらぶらと足を揺らして敦は夜空を見上げる。鏡花には歩きながら遅くなることを連絡していたし、明日は休日だ。もう少し時間を掛けようと芥川が泣き止むのをじっと待つ。

 敦は星空が妙に綺麗で何となく指先でなぞる。確か星座というものがあるんだっけと、賢治の話をぼんやり思い出していた。

「太宰さんは他に何か云っていたか?」

「うーん、心配してたかな。ちょっとだけ」

 蛆虫がたかりそうだと云っている顔は、心配している時の顔だった。どういう意味かは敦には解らなかったが、彼なりに気遣っているのだろう……多分。

「そうか」

 心なしか頬を緩ませて芥川は敦を見詰める。

「そういえば貴様のこと、銀が話していたな。探偵社員に迷惑を掛けてしまったとか云っていた」

「嗚呼……あれは、こっちが悪いから気にしなくて善いと思う」

 敦は膝を抱えて、楼閣ビルに背を預けるようにして座り直す。

「銀ちゃん、善い妹さんだったね」

「嗚呼、やつがれには手に余る」

 残念ながら敦は常に下だったので、兄の心持ちは解らないが彼なりに心配はしているのだろう。何となく、表情が和らいでいるように見えた。

「銀には大きな傷痕がある。やつがれが付けてしまったものだ。今日、それについて話した」

 不意に芥川の方から持ち掛けられた話に敦は首を傾げる。

「悪いのはやつがれではないと何時いつものように笑い、むしやつがれの体調を案じてくれた。銀はとても善い妹だ。手には余るが手放すことは出来ぬ程に……」

 言葉を詰まらせて芥川は咳き込む。

「場所変える?」

「構わぬ」

 話すというのはとても大事な行為だと敦は何となく太宰から聞いていた。その影響を受けて芥川を誘ったのだが、存外悪くはなかったのだろうと顔を覗き込む。

「太宰さんが昔、話す事は大事な事だと仰っていた。今、貴様と話してそれを実感している」

 敦は目を丸くして、芥川の目と視線を合わせる。

やつがれは喧嘩しても必ず会話を忘れない太宰さんと中也さんを見て、理解することが出来なかった。嫌いならば関わらなければ善い話、例え共に仕事することになっても必要最低限の対話で構わぬとそう考えていた。だが貴様と共闘するようになって僅かにそれに迷いが生じた」

 二人は静かに、見詰め合う。目を逸らすことなく、まるでお互いの心を読もうとしているかのように。

 今迄は目が合えば手が出ていた。

 視線が重なっていても穏やかに会話出来るのだと、敦も芥川も驚いていた。

「太宰さんはちゃんと芥川のこと大事にしてたんだ」

何故なにゆえそう思う」

なんでだろ。うぅん、太宰さんって面倒な人にも何も教えないし何も云わないからかな」

 依頼人との態度、普段の何気無い仕草、敦は何時いつも周りを気に掛けて見ていたからこそ気付いたのだ。

 芥川は目を見開いて驚いて、それから誤魔化すように口元を抑える。

「そうか……大事にされていたのか」

「太宰さんって周りに優しく接しているけど、冷たいところは冷たい人だし」

「貴様——」

「悪い意味じゃないよ。弁えられる人ってこと。それが凄く羨ましい」

 敦は体ごと芥川の方を向いた。釣られて芥川も敦の方を向く。

 じっと黙ってお互いを見詰め合う。それは小さな一歩。

 お互いを知る為の大きな変化。

「そうだな。太宰さんは切り替えられる人だ」

「ちゃんと気付いてるじゃん」

 膝の上に顎を乗せて敦は微笑んだ。釣られて芥川も頬を緩める。

「貴様よりは年上だからな」

「幾つだっけ」

「二十だ」

「そっか。芥川の方が僕よりも世界を知っているんだね」

 その一言に芥川は目を丸くして、それから悲しげに瞳を伏せた。

いややつがれは何も知らぬ」

「そう?」

「嗚呼、何も知らぬのだ」

 その言葉はふわりふわりと夜の闇に溶ける。

 誰に向けたものなのか敦は気が付いてしまったが、気付かぬ振りをして微笑む。

「それじゃあ未だこれから沢山いっぱい、知ることが出来るね」

 拙い子供のような敦のその言葉は芥川の胸に染み込む。

『芥川君は未だ子供だから知らないことばかりでよかったねぇ』

 太宰の声が脳裏に浮かび、瞳を伏せる。些細な日常の一言。それでも芥川はずっと憶えていた。何処か羨ましそうな太宰の表情と一緒に。

「そうだな」

「話せてよかった。引き止めてごめんな」

いややつがれも太宰さんのことが聞きたかったから丁度善かった」

 穏やかに微笑んで芥川は夜空を見上げる。

「星が綺麗だな」

「そうだね」

「銀が好きそうだ」

「一緒に見たら?」

「嗚呼、そうだな」

 芥川は室外機から飛び降りて、異能で楼閣ビルを登って立ち去る。それをぼうと眺めて、敦は微笑んだ。

——何だ、あいつもちゃんと誰かを大事にする心くらいは持ってるんだな。




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 太宰にとって世界は単純なもののように見えた。

 与えられた賢い頭脳も記憶力も世界を彩ってはくれなかった。

 眩しすぎる朝日から目を逸らすように、時間をずらして生きていく。

 身体中のいたみが感傷的に誇張されて、口内に鉄錆た味が広がった。

 塞ぎ切れない傷跡きおくが異様なくらいに広がって、これなら未だ鉛玉に貫かれた方がマシだなんて無意味なことを考える。

 どれだけ時間が巡ろうとも、本当に欲するものは手に入らなくて溜息を零した。

「ねぇ、私は優しい人間になれただろうか」

 独り言に応えてくれる人はもう居ない。




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終幕カーテンコール


 平穏な日常、と云うのは麻痺毒かもしれない。

 穏やかで緩やかな死を少しずつ与えていながらも、その感覚を忘却させる。

 身近にあるそれに気付けずに、ある日突然針が止まるのだ。

 鈍った感覚に突き刺さるそれは、どれほど詰まらなく不味いのだろうか。


 そう考えればこの場所へと辿り着いたのは正解なのかもしれない。薄暮を飲み込む海を見詰めて、溜息をく。

 真綿で首を絞められるような平穏は波のように、寄せては還っていく。

「何だろ……」

 此処へ来て何故だが気が進まなくなった。

 酒でも飲みながら服毒自殺をする方がよっぽど有意義なものに思えて踵を返す。

 そこでふと気が付いた。

「あぁ、そっか」

 何時ものように衣嚢ポケットに手を入れた太宰は、そこに仕舞っていたものをゆっくりと取り出す。

 芥川から貰った封筒に入っていた手紙。それは紛れもなく太宰へ向けたもので、芥川が見てほしかったのはこれだったのだ。

「……これの所為か」

 忘れる振りは出来ても太宰の頭は忘れることを知らない。

 憶えているからこそ、読まずには飛び込めなかったのだろう。

「めんどくさいね、君も私も」

 水面みなもに写る姿は昔の自分。掻き消すように笑って、帰路に着く。

 今日は酒を飲むだけにしよう。




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 銀を女の子として傷めつけるように指示したのは紛れもなく太宰だった。

 芥川に付いて行くことを望む少女から、女だけを切り取って刃として研ぎ澄まさせることが最適解だと思っていた。銀の傷を見て、芥川の刃も研ぐことが出来たのだから一石二鳥だったし、何よりも手間が省けた。

「愚か者め」

 紅葉に散々な目に合わされて、漸くそれが間違っていることを教えられた。けれども太宰には何が間違っているのか解らなかった。

 だってそういう世界で生きてきたから、そんなことを云えば森に呆れたように頭を撫でられた。君は未だ子供だね、と云いたげな視線に腹が立ったのをよく覚えている。

ゴン

 そんな太宰の間違いを正したのは友人の拳骨だった。

「い゛っだっ」

 あれは本気で痛かった。太宰が丈夫な頭蓋骨を持っていたから耐えられたが、そうで無ければかち割れていただろう。おまけに鍛えた人間の拳骨は、全身に響くことを学習する善い機会にもなった。

 まぁその点は置いといて。

「織田作さん!?」

 突飛な行動に安吾も眼鏡を落としていたし、太宰自身も驚いた。

 今迄殴られても叱られてもビクともしなかった太宰は、生まれて初めて怒られて泣いた。

 怖かったとかではない。

 悲しかったからでもない。

 太宰自身のトラウマを抉りながら、的確に相手の痛みを伝えられたからである。

「解ったか、太宰。俺は友人だからお前の行動を正したんだ」

 その言葉が傷口に染みて、痛くて辛かったのは今でも善く憶えている。

 友人に本気で怒られた方がいい薬になると森は知っていて、太宰の行動を矯正しなかったのだということにも気が付いた。解ってしまった後は森に腹が立ったが、その点も見透かしていてそう行動したのだろう。

「ねぇ、織田作。私は謝った方が好いの?」

「謝るのは逆効果だな。痛みが解っても平然としているのが一番だ。お前が優しい人間になるには未だ早い。何時か大人になったらその意味が解るさ」

 織田作はそう云って太宰の頭を撫でた。

 多分、これが最初で最後の子供に戻れた瞬間だったと思う。

 本当に善い友人を持った。

 本当に素晴らしい時間けいけんを得られた。






 後日談として紅葉からその話を聞いた中也と殴り合って喧嘩したのは、後にも先にも……否、もう数えきれないほど殺し合って喧嘩したな。兎に角その後の喧嘩は酷いものだったが、お互いにすっきりしたと云えたのはこの喧嘩だけだった。そう、本当に心の底から本心を話して傷付けあえたのはこれっきりだった。

 ……これっきりだったんだ。




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 太宰は珍しく過去を振り返りながら、感傷的な気分に浸っていた。

 そもそも太宰は落ち込む気質ではない。過ぎたことは仕方無いと流してしまうし、気に掛けたり思い出したりなんて滅多にしない。

——振り返ったとて変わらないものは変わらないしね。

 ごろごろと部屋の中で何も出来ずに寝転がっていたが、太宰はゆっくりと起き上がる。

 そうして押し入れからぬばたまという焼酎を取り出した。

「君に似合う名前のね」

 そう、その焼酎は太宰に認められようと足掻いていた彼のようで、何となく手にとってしまったものだった。太宰だって最初から最低最悪下劣ではない。少なからず大事に育ててはいた。

 それが優しい育て方では無かったが、太宰が幼き頃に歩んだ道に比べればとても優しかったと思う。

――でも、間違ってたんだなぁ。

 友人の真似をするようになり、好い人間がどういうものか知って、太宰は漸く理解した。それだけ大人になったとも云うが、単純に太宰が人間の弱さに興味が無かっただけでもある。

 異能そのもののような人生を送り、祝福されずに育ち、子供を失った人間。そう云えば可哀想にも見えるがあの時代ではそんなのそこら中に居たし、何なら衣食住はあったので多少は真面まともだったのだろう。

「変なの」

 数十年、太宰の人生の半分程、それだけで世界は随分変わった。

 常識は異常になり、争いは平穏に遠ざけられる。

 在り来たりに転がる死を何時いつから世界が隠すようになったか、太宰は知っていても見る積もりは無かった。

 太宰の行いだって生温なまぬるいものに感じられる程の地獄を味わったものが、未だそこら中に居る。

「はぁ……」

 幼き者達のことを『戦争を知らない子供達』等と世間様は云うようになった。

 知る必要無いじゃないか、と太宰の友人は云うだろう。

「私もそう思う」

 随分優しい言葉が出た、と目を見開く。それから自嘲気味に笑った。

 数年で太宰はこれだけ変われたのだ。偶には自慢してもいいだろう。自慢出来る相手は今や二人ぐらいしか居ないが……。

「あっ」

 不意に芥川の手紙を読もうと思い立つ。せめてこれぐらいはしてやらなければ、と太宰はもそもそと手紙を開き、ゆっくりと深呼吸した。

 破ってしまったらと不安になる指先を擦り合わせて、手紙に目を通す。


『太宰さん、やつがれが死んだ時は銀の足抜けを手伝ってください』


 目を丸くして、太宰は思わず手紙を落とした。

 口元を抑えて溢れ出そうになる言葉を飲み込む。

 嗚呼、たった一文ひとふみ

 美しく柔らかな字に記された優しいふみ

 太宰はその一文ひとふみで理解してしまった。

——そっか、芥川君も私を置いて死んじゃうんだね。

 数時間前まで電柱の上に居た芥川と敦の姿を思い出し、太宰は手紙を押し入れの棚に仕舞う。

「うん、手伝ってあげる」

 太宰は静かにその手紙に返事をする。

 どの世界の芥川も銀のことを必ず気に掛けていた。太宰には兄弟姉妹など居ないから解らないが、少なからず大切にはしているのだろう。そういう行動ばかりするんだから。

 それは多分銀も同じ。

 大切にしているからこそ、お互いを見られない。

 大切にしているからこそ、失うことを考えられない。

 だからどんなことでも躊躇ちゅうちょしない。

 不意に携帯が振動し、非通知の電話番号に出た。

「嗚呼、善かった。起きていましたか」

 その声に目を見開いて、それから自然と微笑む。

「久し振り、安吾」

「ええ、お久し振りです。お誕生日おめでとうございます、太宰君」

 太宰は恐る恐る携帯の時刻を見詰めた。

『六月十九日 零時一分』

 きょとりと目を丸くし、窓を閉める。

「そっか。もうそんなに経つんだ」

「そんなに経つんですよ」

 呆れたような、安堵したような、懐かしい声。思わず隣を見詰めてしまうほどに、耳に馴染む声。

「ねぇ、安吾。私凄く変われたんだ。あの頃に比べたら随分、違う人間になれた」

 自慢したくて見えないのについ身振り手振りで伝えてしまう。

「今どのくらいですか?」

「道半ば」

「ではもっと変われますね。期待してます」

「えぇぇ」

「太宰君、よく頑張りましたね」

「うん」

 泣きそうになって、天井を仰ぐ。

——こんなの柄じゃないのに。

 何時いつだって太宰をそういう気分にさせるのは、友人達だった。

 今年も祝えたと安堵している安吾の声が直に伝わるのが痛かった。

「偶には彼のところにでも行ってみては如何どうですか? 子供染みた泣き言も喧嘩で流してくれると思いますよ」

「そうだね、そうするよ」

 安吾が向こう側で笑うのが聞こえる。

 久しく出て来なかった本音が溢れそうで、太宰も笑って誤魔化す。

 電話向こうで安吾が誰かに呼ばれているらしく、小さく返事するのが聞こえた。

「仕事中かい?」

「ええ、そうです。部下に呼び出されましたのでこれで切りますが……せめて手向けになるくらいにいい日々を過ごしてください」

「酷いなぁ、安吾」

「今度、墓参りに付いて行きますよ。そこでまた」

「うん、またね」

 日付指定の無い約束。

 友人の痛そうな声。

 生温なまぬるい祝福。

 全てが太宰の嫌いなもので、わざとそれを贈答品プレゼントとして選んだ安吾の意地悪さに太宰はもう一度笑う。

 忘れないようにしてくれているのだ。自分自身が生きる居場所と、時間の流れの違いを。

 消えないようにしてくれているのだ。名前を失ったあの尊い日々を。

 今夜は眠れそうにないだろう。

「中也を揶揄からかいに行こうかな」

 あの時のように一晩喧嘩して夜を明かすのも悪くないかもしれない、なんて子供染みた発想。中也ならば馬鹿にしてくれるだろう。

 そうして自慢しよう。

 変われた自分自身を。

 友人の変化を。

 人間失格などと揶揄やゆされても人間であることを。

 自慢してやろう。

 そうして腹が立ってぐだぐだと酒を飲みながら昔に戻るのだ。

 笑われてもいい。

 寧ろ嗤ってくれればいい。

 それくらいに太宰治は変化いまを楽しんでいた。

「笑われて笑われて強くなるものなのだよ」

 此処には居ない弟子達に囁く。

 彼らもそれくらいになってくれたら、太宰は安心して隠居出来るだろう。

「さて、行きますか」

 無帽蓬髪、砂色の外套を着た男は水鳥の如くぱっと飛び立った。




 水曜日の水仙――了――

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水曜日の水仙 八稜鏡 @sasarindou_kouyounoga

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