青よりずっと空い
彩世 小夜
モノクロ
鍵盤を指がなぞる。でたらめな音階で進む題名もない曲。全然嫌じゃないよって君が笑って、だから同じ椅子に割り込んで座って、同じように鍵盤を叩く。私じゃ足が届かないから、ペダルを踏むのは相手の方。更にひどくなっていく音色、でも声を上げて笑う私達は、このモノクロ部屋の中で一番鮮やかだった。
「あ、」
べしょ、と目玉焼きがシンクに落ちた。着地予定地だったお皿には白身が残した焦げだけが乗っている。落ちたそれは黄色い道を作りながら流しに流れていく。冷蔵庫の卵最後だったのに。シンクから目をそらして、ちょうど沸騰したお湯をポットからティーカップに注いだ。鮮やかな青が、ガラス製のカップの中で日光を反射する。きれいだなぁなんて思っていると、いつの間にか青色がソーサーにまで溢れていく。
「あっ、あっ、あ〜〜……」
気づいてもすぐには動かない腕のせいで、青色は見事に床にまで広がった。なんだか下手に動いたらまた何かやらかしそうで動けない。あっという間にスリッパにまで到達したバタフライピーは、スリッパの黒色を更に濃くする。流石にもう動かないとまずいだろうと、ポットを慎重に台に戻した。濡れて重くなったスリッパはその場においたまま、台所をあとにする。バスルームまでタオルを取りに行けば、鏡に写る最高に顔色の悪い自分。
私よ、そんなに嫌か、”実家”に帰るのが。
年々発展していく都市部とは違い、”実家”のある街は寂れているような雰囲気が拭えない。いろんな研究所と病院、もう神様のいない宗教の教会が並ぶ街並み。そこに建つコンクリで出来た灰色の塊に、点々と根暗な人間が住んでいる。科学医学の発展とともに、信仰で成り立っていた街はどんどん死んでいく。
なかなかバスの来ないバス停で、制服の裾をちょいちょいと直す。先生とは違って、同じ施設内の住人たちはルールやらなんやらに厳しい。少しでもおかしければ何が飛んでくるかわからない。先生に会うまでだけでもよくできたいい子のふりをしなければいけない。幸い芝居は上手いつもりなので困るわけではないけれど。
やっときたバスに乗り込み、長い時間ゆられてようやく着く”実家”。白くて大きい箱みたいな家。この街にたくさんある病院の一つ。なんで実家と呼ぶかって、そりゃあ確かに「生まれた場所」だからだけれど、私の場合は「育った場所」でもあるからだ。
バス停すぐの自動ドアではなく、裏側の職員玄関から中へ入る。相変わらず目の痛い白さをキープした館内は、不気味な静けさで満ちていた。
「……こんにちは、先生に会いに来ました」
受付でそう伝える。カウンターに立っていた女の人は、私を上から下までじっとり見たあとで、黒八木先生ですね、と返答した。彼女はパソコンに目線を落として、それからすぐ奥へ進むよう伝えてくる。軽い会釈だけ返してそそくさと受付をあとにした。あの女の人昔から嫌いだ。いつまで私は品定めされるんだろう。
あちこちから飛んでくる同じような視線をかいくぐって、先生の部屋の前に立つ。今度はちょっと見栄を張るために制服を正す。背筋は伸ばしたまま、いつものようにノックを三回。
「先生、私だよ」
「入っていいよ〜」
軽い調子のその声に、つい勢いよくドアを開けてしまう。ハッとして周囲を見る私を見て、ベッド脇の椅子に腰掛けた先生が声を上げて笑った。
「そんなに警戒しなくたって、ここは君の家でしょ? それとも久しぶりに”お父さん”と”おにいちゃん”に会えるのが嬉しかった?」
「そう……だけど違う!」
声量は抑え気味にそう叫んで、慌てて部屋に入りドアを閉める。まだ笑いの止まらないらしい先生は、くつくつ喉を鳴らしたままパソコン前の席へ移動した。私は先生と入れ替わるようにベッド横の椅子に座る。定位置についたところで、私はようやっと肩の力を抜いた。
簡易な診察室のような部屋。小さいモニター付きのパソコンと印刷機、本当に診察道具が入っているのかわからない棚と大きなベッド。ここまでならよくある部屋なんだろうけれど、普通の診察室とは違うのはそのベッドだ。私といういわば「患者」が入ってくる前から、そこで先客が三年半ほど前から居座っている。点滴や心音図なんかの機械をあちこちにつけていて、一人でこの部屋の半分を占めているのだ。ちなみに残りの半分のさらに半分で立派なアップライトピアノが顔を利かせている。これは小さい頃、私達がここを「家」として使っていた頃からいる古顔だから文句はあんまり言えない。
「おーい、会いに来てあげたけど」
「正確には陽ちゃんの定期検診ね」
「先生余計なこと言わないで!」
座布団をさっと引っこ抜いて先生に投げつける。勝手知ったる診察室、ちゃんとほかの重要そうな機材を避けるようにして、座布団は先生の顔面だけに見事ヒットした。あ〜と情けない声を上げながらのけぞる彼はほっておいて、私は視線をベッドの上――宵の方に移した。その先で、入院患者用の白衣の胸元がゆっくり上下している。いつ会いに来ても開かないまぶたの奥の淡い水色。
宵の手術は異様な終わり方をした。普通ならなんの問題もなく終わるはずだったのに、手術が終わってもなぜか彼は目を覚まさないのだ。生まれつき病気のあった足の機能はもう問題ないと、手術をした医者はたしかに言った。だのに彼は目を覚まさない。私の中の宵の記憶は、彼が一四、私が一〇の時にでたらめな連弾をした夏で止まっている。絶妙に届かない足、音とも言えない不協和音。目を閉じればあの日にいつだって戻れた。ただし、続きはいつまで待っても始まらない。微笑む彼と目が合って、その視線に促されるまま締めの一音を鳴らそうとした一瞬で、その記憶のフィルムはまた最初に戻るのだ。
あの時より、私はピアノを弾くのがずっと上手くなった。楽譜だって読める。学校生活の合間、友人を作るはずの時間を全部ピアノに割いて、練習を続けていた。モノクロの鍵盤を、叩くんじゃなくて滑るように弾ける。めちゃくちゃな不協和音じゃなくて、連弾をするための和音を奏でられる。頑なにペダルの練習だけはしていないし、相手はいつまでも寝たままだけれど。
「まだだめ?」
シーツに埋めた口から、ほとんどモゴモゴというような音が零れる。あのときのピアノから聞こえた音楽とはまるで違う、鮮やかさのない音。こんなに狭い部屋だ、絶対になにか喋ったことは聞こえたはずだけど、先生はいつものように気づかなかったふりをしてくれる。
三年と八ヶ月眠ったままの彼の音楽は、彼の空色と共に私の心臓に焼き付いている。まるでもう二度と新曲の出ないバンドのアルバムのように。
『君が連弾出来るようになってからなら、一緒にお茶会してもいいよ。あの庭のテーブルでしょ? きっとその時には僕の足もまたペダルを踏めるから……ううん、きっとじゃないね。治すよ、陽』
「先生、今日は私がお茶入れてあげる。うちからティーバック持ってきてるんだけどそれでいい?」
「いいよ〜、助かる〜! いつもごめんねぇ」
ご飯をサボりがちな先生はお茶だって飲まない。自分が点滴のお世話になることもしばしばだ。いい加減その癖は直してほしいとは思うが、何が理由で忘れてしまうのかわかっているからなかなかに言いづらい。水筒をかばんから取り出して、医療器具入ってますみたいな顔をした戸棚からティーカップを二セット取り出す。そういえば先生ってバタフライピー飲めたっけ。カップに注ぎつつ確認を取ろうと振り向いて、それで。
「――あ、」
がちゃん、とガラス製のティーカップが床に落ちた。ぶちまけられた青色が白地のスリッパと床を染め上げる。でも私も先生も、足元のことなんて全然気にしてない。スリッパ越しでも踏めば足裏が痛い。でももういい。ペダルを踏むのは私じゃないし、使える部位なんて、なめらかに鍵盤を滑る指と抱きしめるための腕さえ残っていれば、それで。
青よりずっと空い 彩世 小夜 @sayonaki333
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