虹の根元(青い絆創膏番外編)

桐生甘太郎

虹の根元





おそらく彼の理由は誰も知らないに違いない。彼の両親ですらも、思い当たるものなどなかっただろう。彼は誰にも話さなかったのだから。ただ一人を除いては。それも、「話した」という体ではない。彼の言葉を借りれば、「共犯者」と呼ぶことができるかもしれなかった。







「ねえ…もう帰ろうよ」


木の葉たちのさざめきが隆康を急かし、林の中の不気味な空気が、幼い隆康を恐怖させる。すぐにも家に帰りたいはずだった。


なのに隆康はそうせず、じっと黙ったまま、そこに留まりたがった。


幼い子供が、暗くなっていく林への恐怖を抑えつけてでも、一体何に執着していたのだろうか。それは、この前の場面を話さなければ誰にもわからない。でも、今は隆康がそうまでして何かをしたがっていたということだけを記憶してほしい。


あの場面は何度も隆康の頭の中で繰り返され、そのうちに執着から呪いに変わり、とうとう隆康の命を奪ってしまった。あの幼い記憶に、その「わけ」はあったのだ。










「隆康。もう起きなさい!遅刻しちゃうわよ!また遅くまでゲームしてたの!?」


彼はその朝、すでにもう十四歳になっていた。その頃の彼は、内心が荒みきって生活は乱れ、しかしそれは両親からは見過ごされていた。隆泰のことを心配する母親を、「思春期にはよくあることさ」などと父親がなだめていたのだ。


「ん…おはよ、母さん…」


隆康は母親に布団を剥がされて、やっと起き上がる。彼は、Tシャツと、室内着にしているゆったりしたハーフパンツの姿だった。



母親は家族のためにバランスの取れた食事を用意していて、隆康はキッチンに降りてそれを食べる。


キッチンの外からは、白無地のカーテンを通り抜けた朝の光が差し込んでいた。


隆康の家は持ち家で、少し小さいながらも、立派なマイホームだった。それは隆康が十歳くらいの頃に、同じ市内から移り住んだものだ。



「母さん、醤油取って」


「自分でやってちょうだい。母さんちょっとお皿を洗ってるから」


「はーい」


広いダイニングで、カウンターキッチンに合わせて据えられたテーブルの椅子から、隆康は少し立ち上がる。そして、カウンターに並んだ調味料の中から醤油を選び、また座り直した。


母親は黙々と、隆康よりずっと前に家を出た父親の分の皿を洗っている。隆康は、醤油を目玉焼きに垂らして、まずはサラダに手をつけた。その時、隆康は考えていた。



“あの子は、もう食事なんかしない”


“美味しい食事も、暖かい家も、もちろんない”


“僕はこんなものを受け取っちゃダメだ”


“僕はあの子を、殺したのだから”



隆康の考えていた中には、決して看過できないものがあった。でも彼は、その場に居た母親に何も話すことはなく、食事を食べ終えたら、学校に出かけてしまった。






隆康には、友人は居なかった。いや、あえて作らなかった。誰に話しかけられても不機嫌そうな顔を作って無愛想な返事をして、そのうちに誰も彼もが、隆康には目もくれなくなった。


中学時代をそんなふうに過ごしていたから、担任教師は少し心配そうだった。でも、幸いにも隆康は嫌がらせを受けたりすることもなかったので、そのまま卒業してしまった。







高校に入学するかしないかで、一度隆康の家に騒動が起こりかけたことがある。




「僕、高校なんか行かなくていいよ」




隆康はきっぱりとそう言って、夕食の席を立った。隆康の席にはまだ食事が

たくさん残されていたし、彼の言ったことも、両親を驚かせた。


「え、どうして!?ねえ、待って隆康!こっちへ来て、話をしましょうよ!」


母親がすぐに彼を引き止めたが、隆康はそれを振りほどく。


「いいんだ。そんなに大したことじゃないよ」


「大したことよ!ちゃんと理由が言えないのなら、行かないとも決められないほどよ!」


一度は食事の席を去ろうとしたが、隆康は母親にそう言われたことで、こう言い直した。


「わかった。行くよ。実は…学力にあんまり自信がなかっただけだから…」


その時の隆康の様子は、まったくもって「理由を言うのが恥ずかしかったのを、ついに言わされてしまった子供」そのままだった。でも、事実はそれとはまったく違った。



隆康は、自分に対する幸せを拒否するため、高校進学を拒んだのだ。


彼は、高校に行かずにすぐに働き始めて、早く世の辛酸を舐めたいと考えていた。一体それほどになるまで、何が彼を駆り立てたのだろうか。“あの子”とは誰のことなのか。時間を初めに戻し、すべてをここに書くことにする。










「わあ〜。かわいい子猫だね〜」


まさに猫なで声といったように、子供が猫に夢中になっている。


そこは住宅街にある公園の近くで、長屋のような一棟の庭だった。その庭には、雨風に晒されてぼろぼろになったベビーカーが広げたままで置いてあり、そこに子猫が何匹か乗って眠っていたのだ。


子供は一人だけではなく、二人だった。子猫に夢中になって撫で回している方の子供はTシャツの上にカーディガンを着て、長ズボンを履いている。髪はかなり長めに伸ばしていて、猫が可愛くて仕方ないというように目尻を下げて笑っている。でも、その子は普段からそんな顔に見えるような垂れた目と、丸い鼻をした子供だった。


「ねえ、そんなに触ってて大丈夫?」


そう後ろから声を掛けたもう片方の子供は、隆康だった。


半袖に半ズボンでほんの少しだけ長めの髪は、女子ならばショートヘアといったところだ。飛び出た膝小僧とキャップを少し斜めにかぶっているところから、活発な子供であることがすぐにわかるようだった。


「大丈夫だよ。それよりさ、この子たち野良猫だし、一匹くらい連れて帰ったらダメかなあ?」


すっかり子猫の虜となった控えめそうな子が、にこにことしながらそう言う。すると、隆康はぎょっとして驚き、すぐに「ダメだよ!よくないよ!」と反対した。


それでも隆康の隣まで子猫を連れてきて、もう一人の子供は「大丈夫だって。うちのお母さん、猫が好きだから」と、隆康が何度か説得しても聞かないで、その長屋を過ぎて歩き始めてしまった。




それから二十分くらいして、もう一人の子供の家が近くなってきた。その道沿いは山へ登っていく林になっていて、その道なりに更に進むと、隆康の住む古い公団へ向かう通りにたどり着く。


子供は子猫を抱き、時折子猫が逃げたがるのを上手くあやしながら、隆康と「かわいいね」と言い合っていた。


家に帰ったら体を洗ってやろうだの、食事はどうしてやろうだのと子供は喜んでいたが、不意に子供の胸の中でたまりかねた子猫は暴れ出す。


爪を子供の腕に掛けて無理やりに逃げ出そうとしたので、子供も「痛っ!」と叫んで子猫を放してしまった。


「あっ!山に行っちゃうよ!」


隆康は、林の中めがけて一目散に自分たちから逃げ出した子猫を追いかけた。もう一人もそれに続き、子猫を追いかける。いくら子供であっても、山は子猫にとって危険な場所なのではないかとわかったようだ。


子猫は今まで我慢していた分を取り戻すように、走りに走った。でも、生まれてさほど経たない子猫の足はおぼつかず、そこまで速くもなかった。


なんとか子供の足で子猫についていくと、林の中に小川が敷かれている場所で、追いついてきた隆康ともう一人の子を怖がり、なんと子猫は葦の中へと入り込んでいってしまった。


「ダメだよ!出てきて猫ちゃん!」


二人が怖いからか、子猫はみゃあみゃあと鳴きながら、どんどん奥へ入っていってしまい、だんだんとその声は小さくなった。そしてとうとう、何も聴こえなくなった。



子供二人は青ざめた。子猫が分け入った葦の林の先には、もちろん小川がある。水の中なのだ。


二人はそれでもまだ、子猫が無事に出てくることを期待して、十分ほどは前のめりになって、葦の中を見つめていた。当然、奥深くに居るだろう子猫の姿は見えない。声も聴こえない。がさがさと葦が擦れる音すらなかった。



「どうしよう…」


子猫を連れ出した子供は弱気な声を出して、今更自分のしてしまったことを怖がっていた。隆康は葦を見つめて、何かを考えているように見えた。


「ハサミ、持ってきて」


「ハサミ…?」


「切るんだ、これ。そうすれば見つかる」


隆康が提案したことに、もう一人の子は元気が出たのか、「うん、そうだね!わかった!」と言い、自分の家まで駆けて行った。


まもなくして子供が自分のハサミを持ってくると隆康はそれを受け取り、葦の原をハサミで少しずつ刈り取りに掛かった。でも、それにはとても長い時間が掛かるとは、隆康も知らなかった。


ハサミで何本かまとめた葦をなんども切り落としていると、隆康は握っている手が痛くなってきて、途中でやめてはまた切りに掛かる。そんなことを何度も繰り返しているうちに、だんだんと日が暮れてきてしまった。時刻はおそらく、夕方の五時半は過ぎていただろう。


初めは隆康の手元を必死の思いで見つめていたもう一人も、だんだんと気を張り詰め続けるのに疲れてきたのか、自分も葦を引っこ抜こうとしてみたり、子猫を呼んでみたりした。


それから、辺りがどんどん暗くなってくると、もう一人の子供は「ねえ、大丈夫じゃないかな…」と気弱な声を出し、無我夢中の隆康の肩を引いた。


「大丈夫じゃないよ。まだ出てきてない」


「でも、もうこんなに暗くて、僕、帰りたいよ…」


それを聞いて隆康は一瞬怒ろうとしたが、あんまりにももう一人の子が怖がっているのがかわいそうに思えたのか、一度手を止めた。それでもう一人は、さらにこう言う。


「猫は…大丈夫だって。自分から水に入るわけないし、怖くて出てこないだけかも…」


隆康はその言葉に決して「うん」とは言わなかったし、何度も葦と友達の顔を見比べては迷っていた。



結局、隆康は「怒られちゃうし、早く帰ろう」と言われて林の斜面から引きずられて行ったが、このことは彼の頭から一生離れなかった。





その晩家に帰って「帰りが遅い」と叱られてから、隆康はずっと子猫の様子を思い浮かべていた。


“あの猫はきっと死んでしまった”


そのことだけが隆康の胸を絶えず責めて、猫が葦の中で水に捕らわれて溺れ死んでしまった様子や、冷たい水の中で猫の体がどんどん冷えていくことなどを想像した。


もちろんこれら隆康の想像が本当だったかは、確証がない。それに、もう一人の子の言う通りに、人間たちに怯えていただけで、あとになって猫は出てきたかもしれない。隆康も、“そうだったらどんなにいいだろう”と考えた。


“でもきっと、死んでしまった”


多分、隆康は猫を黙って連れ帰ろうとした罪悪感によって、結末が悪いものであると信じてしまったんだろう。“自分たちが連れ出さなければよかったのだ”と考える気持ちが、どうしても予想を悲劇に導いたのだ。


そして隆康は、“自分は子猫を勝手な理由で殺してしまったんだ”と思い込み、それを誰にも言えずに過ごすことになる。








罪悪感。それは、大きくなり過ぎれば、自罰となる。隆康は、子猫の一件があってから、少しずつ周りの人間とのふれあいを、自分に禁じるようになった。


それは無意識であったが、だんだんと隆康は褒められることを好まない子供になって、高校進学の時にも、前述したように、自分への教育の機会を進んで放棄しようとした。そんな彼の中にあったのは、ただ“幼い頃、自分は子猫を殺したのだ”という、罪悪感であった。


高校一年生となった隆康は、必要以上に謙遜をしたり、自分の健康に無頓着であるばかりか、むしろけなされることをわざとしてみせたり、自分の健康を害することを厭わなくなった。それはたった一つの出来事に端を発する自罰の道であり、彼にとってそれは“義務”であった。


誰にも言えずに苦しんでいた頃を抜けて、隆康もものを考えるようになってくると、子猫の話を誰かに言うという選択肢は、ますます考えられなくなった。


“きっと誰に話しても、なぐさめられる。あの子の命の分を罰してくれる人間なんかいやしない”


思い詰めて思い込んで、とうとう隆康は誰に対しても心を閉じるようになっていった。常に胸にあり続ける子猫のことを誰にも話さないので、結果として隆泰は、誰とも本当の気持ちで向かい合うことができなくなってしまった。


そうして彼は自分を恥じるあまりに教室に行くことができなくなり、しかし理由は誰にも話さなかった。そんな時に彼が見つけたのが、跡見凛である。







その日の夕方、校舎から出て門を歩く途中、何気なく隆康は校舎を大きく振り向いた。すると、屋上で誰かが起き上がるのが見えたのだ。それは女子生徒のようで、彼女は長い髪を風になびかせて、なぜかとても悲しそうな顔をしていた。その様子が遠くからでもわかった時、隆康は、“飛び降りるんじゃないか”と思った。


その女子生徒はそんなことはせずに校舎内へと引き返して行ったが、彼女の悲しそうな表情は変わらなかった。


隆康にはわかったんだろう。彼女が誰にも話せないことで悲しんで、孤独で居ることに。そして、自分に似通ったものを感じて、強い興味を持った。




その後、名前も知らない彼女を待つために、保健室登校の合間に何度か屋上へと上り、やっと昼休みを選んだ時に、彼女、跡見凛と初めて話をした。


凛が傍らに寝転んで空を眺めるのを見て隆康は幸福に思ったが、その時彼の中で、強烈な罪悪感が暴れだした。


“幸福なんて、僕にはいらないのに!”


隆康は今度もそう思い込んで、黙って校舎内へと逃げ込んだ。でも、彼は凛の寂しそうな影を忘れられず、ついに二人で出かけようと決意する。



隆康が選んだコンサートが、凛もちょうど行きたがっていたものだったのは、まったくの偶然だった。でもその偶然を隆康は喜び、生まれて初めての恋に対するささやかな祝福に、感謝した。だけど、それは彼にとって地獄の蓋を開けるのと同じことだった。








凛と別れて家に帰宅し、父と母に帰宅の挨拶をしてから、彼はこう思った。


“こんなものを叶えちゃいけない。僕はもう行かなくちゃ”


そうして遺書も書かずに、誰にも何も告げずに、自分に過ぎた幸福に対して勘定を払うように、ひっそりと逝ってしまった。







この真実は誰も知らない。隆康の母親は泣き暮らし、父親は毎日それをなぐさめては、生きた心地のしない日々を送っている。


子猫が結局どうなったのかも、誰も確かめていないのでわからない。


隆康が死ぬ必要などなかった。絶対になかった。だけど彼は、もしかしたら勘違いだったかもしれないことのために、孤独になって思い詰め、死んだ。






虹の根本の話を知っているだろうか。そこでは、亡くした動物と出会えるという。自分が死んだあと、近しかった動物は虹の根本で待っていて、自分を迎えてくれるというのだ。


隆康は、虹の根本で待っているかもしれない子猫に、会えたのだろうか。










End.

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虹の根元(青い絆創膏番外編) 桐生甘太郎 @lesucre

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