君のことと彼のこと

坂道 転

君のことと彼のこと

君にフラれたら自分は死ぬと思っていた。風になびくカーテンを見るでもなく視線は宙を泳ぐ。君の笑顔をたくさん写したフィルムカメラが視線に入る。視界がにじむ。なんで涙なんて出るんだろう。暖かい水滴は頬をすべり耳のところまで流れてくる。君が私のそばから離れてもう1年が経とうとしている。今頃他の女の子に、あの頃私がファインダー越しに眺めていた笑顔を向けていることだろう。君との連絡手段は私から絶った。電話帳から名前を消し、LINEもTwitterもInstagramもブロックして削除した。消せていないのは写真フォルダに残る君の笑顔だけ。あの頃は大学生だった私も、社会人になって、制服を着てコスメを笑顔で客に勧めている。

「よかったら、ご飯でも行きませんか?」InstagramのDMに来たお誘いに私は乗った。もう君と別れてからも随分経った。私も前に進まなければならない。誘いをくれた彼は、2つ上の都内在住の社会人だ。私のフィルムカメラの写真の投稿に反応してくれた彼は徐々にストーリーにも反応をくれるようになり、気づけば頻繁にDMで会話をするようになっていた。涙を拭って体を起こす。こんなタイミングで君のことを思い出すなんて、そう思いながら、のろのろといつもより少し背伸びをしたワンピースを身にまとう。いつもよりしっかりアイラインを引き、髪を整える。メイクポーチや財布をカバンに入れ、いつもは履かない8㎝のヒールに足を入れる。靴箱に貼り付けた全身鏡の自分に頷き、家を出る。

待ち合わせは18時、夕飯を食べる約束をしていた。5分前に改札を出ると、彼は既に柱にもたれて立っていた。Instagramで見ていた通り、年齢より少し幼いけれど綺麗な顔立ちをしていた。合流し、レストランに向かう。彼と会うのは初めてだったけれど、初めてだということを感じないくらい自然でいられた。話は彼がふってくれた。彼が予約してくれていたレストランはとても素敵で、自分でも少しは大人になったと思っていたのに、なんだか恥ずかしくなるくらいだった。食事中も話は尽きることはなかった。美味しかった。素敵なお店知ってるんだね。と私がいったら、彼は、本当は自分もずっと行きたかったけど行く相手がいなくて、お口に合うか心配だった。と言って恥ずかしそうに笑った。明日もお仕事でしょう?今日はこれで。彼は集合場所の駅まで来るとそう言った。うん、でもまだ大丈夫だよ。私がそう言うと、ううん、また会いたいから、次の楽しみに取っておこうよ、またプランを考える。楽しみに待ってて。と、彼は言った。2歳年上なだけで大人の余裕があるんだなぁと思ったし、もう一軒とがっついた私が恥ずかしかった。その日は、LINEだけ交換して解散した。帰りの電車、私は彼との会話を思い出そうとしたけれど、全然覚えていなかった。美味しかったはずの料理の味もあまり記憶にない。私にとって彼はあまりに完璧で理想的だったと、改めて思って、自分が彼に恋をしてることを認めざるを得なかった。そして、君と話す時はいつも私から話題を振っていたな、とか、君はあんなおしゃれなお店知らなかったな、とか、君のことを思い出して、彼と比較してしまうのだった。そんな私が、なんだか嫌だった。

それから彼とは、会う頻度が少しずつ多くなって、ようやく私は少しずつ君のことを考えなくなっていった。私は彼をすごく意識するようになったし、多分それは彼も一緒だった。会うたびに胸の高まりは増していくし、会う前は本当に浮いている気分だったし、会っていない時でも彼のことを考えていた。好きな人できたんでしょ?と職場の同僚に問い詰められるくらいに私は浮き足立っていた。

彼と初めて直接会ってからちょうど3ヶ月が過ぎた頃のことだった。その日は銀座あたりで夕飯を食べる予定になっていた。彼からは仕事が長引いて少し遅れると言う連絡が入っていた。私はもう、集合場所に着いていた。時間があまり読めないので、本屋に立ち寄ることにした。最近、本を読めていないなぁと、本棚をなんとなく見ていると、君が好きだと言っていた著者の新作に目が止まった。君を思い出すのは久しぶりだった。少し悲しくなった。彼に会いたいと思った。彼に会えばもう君のことを考えないのに、と思った。初めて彼と会った時は、彼と君を比べてしまっていたけれど、今は彼といたら彼のことしか考えない。そのくらい君のことを忘れていた。本を手に取り、そんなことを考えていると、あっ、と声がした。横を見ると、君がいた。ひさしぶり。元気?君が下手くそに笑う。ひさしぶり、元気だよ。こんなところで会うなんて偶然だね。私は笑って返す。うん、これから友達と会う約束をしてて、待ってるんだ。そう言った君の顔を見てわかった、好きな人とこれから会うんだ、と。そっか、私もなの。ねぇ……スマホの着信音が私の言葉を遮る。彼からだった。あ、行かなきゃ。それじゃ、元気でね。そう言った私はうまく笑えていただろうか。うん、元気で。そう言った君の笑顔は少し寂しそうだった。そんな顔しないで。と私は思った。もう、君には会うことはない。君も幸せになってね、私も幸せになるよ。そう心の中で呟いた私は少し泣いていた。君を思って流す、最後の涙だった。

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