最終話
コンサート当日。
「キャー、絵音、何その素敵なドレス!」
会場で私を見た涼香が珍しく、女の子らしい声を上げた。
「伯父さんが、合格祝いに買ってくれたの」
「へぇ、素敵じゃない! 今日の為かな?」
「いや、知らないけど、今日着なかったら、着る機会なさそうだし」
伯父さんの送ってくれたのは、一目で目を引くようなワインレッドのドレスだった。少し胸元が開き気味なのが恥ずかしくて、母に借りたストールを羽織り誤魔化す。母にも、折角いいものを着てるんだからと、念入りにメイクをされた。テレビの取材が入っているのに加え、私はもうすぐ連載が開始されるエネちゃんのオリジナルだ。母の気合いも解らないではないが、顔から火が出そうになる。
チケットで席を確認すると、おじさんは本当に宣言通り、一番前の列を親族関係者席として確保していた。
「いやぁ、こんないい席で小早川洋の復活コンサートが聞けるなんて、私絵音の友達で本当によかったわ」
「今更何言ってんのよ」
その小早川洋の身の回りの世話を甲斐甲斐しくしていた人間が、何を言いだすかと思えば。
広くは無い会場だったが、開演時間が迫るにつれて、徐々に席は埋まり、賑わい出してきた。カメラクルーも会場の後ろに控え出す。きっと明日の一面には、『小早川洋、奇跡の復活』なんて言う見出しが躍るのだろう。どうでもいいと思ってしまうが、そのお陰でこんなに早く、おじさんの復活コンサートが開かれる事になったのだから、文句を言える筋合いではない。
会場の明かりが落ち、場内の喧騒が徐々に収まって行く。
少ししてから、ステージ上には、ゆっくりとした歩みで、松葉杖をついた伯父さんが姿を現した。リハビリを繰り返し大分回復はしたものの、右足はやはりまだ不自由な為仕方ない。
伯父さんがステージの真ん中で一度頭を下げると、会場からは、さざめくような拍手が起こった。
おじさんが緩やかな動作で、ピアノの前に座ると、再び会場は水を打ったように静かになる。
第一音。
左手が、柔らかにピアノに触れる。そこから零れ出て来る音に、たった一音に、私は吸い込まれた。
一曲目は、定番と言える程の定番。
ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』
繊細なタッチと流れるような旋律。あの日から止まった筈の伯父さんのピアノは、信じられない話だが、右手を失う事で更に表現の幅を広げていた。
いや、表現なんて物ではない。綺麗で、か細く感じられるような柔らかい音なのに、その背景に存在するのは、伯父さんが受けた絶望と苦悩だった。どれだけの衝撃を受けたのだろう、どれだけの絶望に苛まれたのだろう。それでも、僕にはピアノしか無いんだと笑える程の覚悟を、あのたおやかな風貌のどこに隠し持っていたのだろう。
伯父さんはかつて言っていた。
自分にとってピアノとは、懐中電灯の電池だと。
誰かを照らす為に、弾き続ける物なのだと。
この曲を聞いているどこかの誰か、この演奏の素晴らしさが伝わっていますか? 伯父さんは、貴方の為に弾いているんです。
マスコミに踊らされ、悲劇の主人公として祭り上げられたとしても、伯父さんはきっと、意にも介さずピアノを弾き続けるだろう。その奥にいる誰かの心を、たまに救う為に、自分の人生を、価値観を、さらけ出し続けるんだろう。
気がつけば、一滴の涙が、私の頬を伝っていた。
ピアノとは、どうしてこうも雄弁に人生を語るのだろう。
音楽とは、どうしてこうも強く心を打つのだろう。
この人の音楽は、もっともっと沢山の人に聞かせなければ駄目だ。そう強く胸に刻みつけた。
このコンサートが終わったら、改めて伯父さんにお願いしよう。伯父さんの活動の手伝いをさせてくれるよう、お願いしよう。駄目だと言われても、絶対に認めさせてやる。それだけの価値が、伯父さんにはある。
前に伯父さんは、ピアノの無い自分は無価値だと言った。だけど、一つ武器を持っているだけで、その価値を数万倍にまで膨らませる事の出来る人間が、この世界にどれだけいると言うのだろう。
敢えて言う。ピアノの無い伯父さんは無価値かもしれない。だけど、ピアノがあれば、伯父さんは無敵だ。
時に激しく、時に穏やかに鳴り響いたピアノの調べは、永遠に続けばいいと思わせた音符達を引き連れて、ふと、姿を消した。
一瞬の静寂。
曲が終了したのだと聴衆が理解した直後、再び会場を万雷の拍手が包んだ。
伯父さんがピアノを支えに立ち上がり、一度頭を下げると、更に拍手は熱を帯びて会場に轟いた。
「ありがとうございました」
マイクを使った伯父さんの声が響く。
「ニュースなんかで知って貰った通り、僕はこないだ一回倒れちゃいましてね、もうピアニストとしてはおしまいだろうなんて言われた訳ですが、そんなポンコツのコンサートに、これだけの人に集まって貰えて、本当に、感謝の言葉もございません。ありがとうございます」
伯父さんが再び頭を下げると、会場からもう一度、今度は穏やかな拍手の波が広がった。
「実は、今日会場に、僕の家族が来てくれてまして。それで、実は姪っ子と一つ約束をかわしてしまったんですよ。その約束を、ちょっとここで果たさせて貰おうかなと思いまして」
伯父さんがステージ上で、意味不明な事を言った後で、私を呼んだ。
「絵音ちゃん」
事態がまるで掴めていない私の背中を、隣に座っていた母が叩く。
「ほら、早く行って来なさい」
「ちょっと、どう言う事?」
「行けば分かるから。ほら、みんな待ってるわよ」
拍手が響き渡る中、私はなんの説明もされずに、ステージに上がった。
観客の視線が、取材陣のカメラが私に向けられる。視線が痛い。
「伯父さん、どう言う事?」
「これ」
伯父さんの手には、一冊の楽譜が握られていた。
その瞬間、私は1年半前の、病室での出来事を思い出した。
「あ……、ちょっと」
伯父さんが手にしていた楽譜は、私がおじいちゃんの部屋から抜き取った、『子犬のワルツ』だ。
「あの時、君は僕に、私も頑張るから、伯父さんも頑張ってリハビリしてって言ったよね。そして、復活したら……」
「また、一緒に、弾いて下さいって……」
言った。確かに言った。だけど……。
「でも、それは、こんなステージでって意味じゃなくって……」
「さぁ、お客さんが待ってるよ」
「伯父さん!」
「大丈夫。僕、この曲も練習してたから」
「私がしてないよ……」
「初めて一緒に弾いた時と同じさ。僕が右手を弾くから」
「誰が喜ぶのよ、こんな演奏」
「僕と君が喜ぶ。母さんと琴と達也さんと、きっと涼香ちゃんも喜んでくれる。さぁ、期待には応えなきゃね」
伯父さんはそう言うと、私をピアノへと促した。この状況で、断れる訳が無い。
私は覚悟を決めて、ピアノの左側へと座った。
「めっちゃくちゃになっても、知らないからね」
「いいよ、好きに、楽しんで弾こう。音を楽しむと書いて、音楽なんだから」
あの日と同じように、右側に座った伯父さんは、あの日と違い、左手で鍵盤に触れた。
「それじゃ、せーので弾き始めるよ」
「……はい」
もう、どうとでもなれだ!
「行くよ、せーの」
伯父さんの声が、そっと私の耳を擽った。
伯父さんの左手が、軽やかに子犬を操る。それを私は、伴奏で追いかけていく。
幼い頃のように、私は伯父さんの隣で、伯父さんの奏でる子犬に寄り添うように、指を動かした。
鍵盤の久しい感触が、そして、伯父さんの隣で共にピアノを弾いていると言う事実が、どんな状況であったとしても、やはり私には嬉しかった。
やっぱり私は、ピアノが、伯父さんが大好きなのだ。
軽やかに駆けるその指を、横から眺めながら思う。
伯父さんのように、誰かを照らす明かりにはなれなくても、誰かを照らす為に疎かになった伯父さんの足元を照らせるくらい、私も強くなろう。この奏でに、いつまでも伴っていけるように、強くなってやろう。
私達の演奏に合わせて、二匹の子犬が踊りながら、客席の間を元気良く駆け抜けていく。それはまるで、お互いが再び出会えた事を喜び合うような、軽やかで、心踊る、素敵なワルツだった。
ダルセーニョ 泣村健汰 @nakimurarumikan
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