第6話
「1810……、1810」
うわ言のように呟きながら、私は掲示板に張り出されている番号を見つめ続けた。時折、もう何度目にしたか分からない自分の受験票と照らし合わせ、掲示板に同じ番号を探す。
「……1810」
周囲の喧騒は、時間が経つにつれて、くっきりと明暗の別れた物になって行く。受かった人、落ちた人、喜ぶ人、悲しむ人。そんな人々を尻目に、私はその人垣からゆっくりと離れて行った。
一度目の受験は、完全に勉強不足だった。一緒に勉強してくれた涼香は、W大を無理に狙う事はせずに、滑り止めで受けていたY大に足を進めた。だけど、私は背水の陣のつもりで、W大しか受けていなかったのだ。努力が足りなかったとは思わなかった。あの日から、死に物狂いで勉強をした。だけど、結果として間に合わなかったのだ。
両親や伯父さんに本気の土下座をして、自分の不徳を詫びた。
「絵音。あんたの頑張り、母さんは凄かったと思う。だから、もしもう一年頑張るって言うんなら、喜んで手を貸すわよ」
顔を上げ、母の顔を見た瞬間、私はありがたさと申し訳無さでボロ泣きしてしまった。
「あんたがそんなに泣くなんて、久々ね。小さい頃は本当に泣き虫だったのにねぇ。いつの間に、こんなに大きくなったんだか……」
「お母さん、ありがとうございます……」
「その代わり、一つ条件があるわ」
「……何?」
「今ね、あんたの事もう一回描いてみないかって、出版社から依頼が来てるのよ。だから、大人になってからのあんたの事、ちょっと描かせて貰えないかなって」
正直、このタイミングじゃなかったら断固拒否していた。
「お母さん、それずるい……」
「ずるく無いわよ。そうね、タイトルは、『泣かないよ、エネちゃん』なんていいかもね」
それじゃ、私が全く成長してないみたいじゃないか。
何はともあれ、私にはもう一度チャンスが与えられた。
予備校に通いながらの、二年目の受験勉強の最中、私は前倒しで、おじさんのリハビリを手伝う事を許された。途中から、大学生になった為、時間に余裕の出来た小憎らしい涼香も、手伝いに来てくれた。
彼女がおじさんのサポートをしてくれている間、私は懸命に机に向かった。
日々は穏やかに、だけども刺激的に過ぎていき、伯父さんの左腕は、みるみる内に成長していった。元々ピアノに関しては恐ろしく感の鋭い人だったのだから、当然と言えば当然だ。
そして、私の合格発表の一週間後、非常に簡易的な物ではあるが、テレビ局の企画を受けた形で、おじさんの復活コンサートが開かれる事になった。以前ソロコンサートをやった時とは比べるべくも無い、小規模なものだったけれど、もう一度人前でピアノを弾ける段階まで身体を戻した、伯父さんの執念には感服する。あのコンサートから、まだ1年半しか経過してはいないのだから。
「絵音ちゃん。もしも君が受験に受かったら、僕のコンサートの最前列に君の席を作るよ」
「よかったね絵音、最前列で洋さんのピアノ聞けるってさ」
すっかり仲良くなった涼香と伯父さんが、二人して笑う。
「それって、受からなかったら来るなって事よね?」
受からなければいけない理由が、新たに一つ増えた。
「受からなかったら、性格的にあんたが来れないわよ」
「でも、今年は絶対大丈夫。こないだのセンターもばっちりだったし、それに、私の受験番号、1810なんだよ! 受かるって言ってるようなもんでしょ?」
「1810?」
涼香が上げた疑問の声に、伯父さんが答えた。
「ショパンの誕生年だね、そりゃ縁起がいい」
「でしょ? だから、いい席用意しといてよね!」
そう口では強がってみても、内心不安で堪らなかった。だけど、励ましてくれた皆の為にも、支えてくれた涼香の為にも、弱気なところは見せられない。
「それにしても、今にして思えば、琴の娘の絵音ちゃんがピアノに興味を持つってのも、因果だよな」
「でも、琴さんも小さい頃、ずっと洋さんと同じように、ピアノを弾いてたんですよね?」
今度は伯父さんの言葉に、うちの母に詳しい涼香が返す。
「でも、琴はピアノよりも絵を選んだ。絵の字が入ってるその娘が、今はあまり弾いて無いとは言え、再びピアノに戻って来たんだよ」
「小早川の家に取って、ピアノがセーニョみたいな物なのかもね」
おじさんの言葉に、私はピンと閃いたので、そう返した。
「セーニョか、上手い事言うね」
「セーニョって何ですか?」
「涼香、音楽の授業でやったじゃない?」
「そんなん覚えて無いわよ。私は去年一年で、受験に必要無い系の勉強は、すっかり忘れたんだから」
「全く、もう。いい? セーニョって音楽記号が楽譜上にあるとするでしょ? それで、その後の方に、ダルセーニョって記号が出てきたら、そこからもう一度セーニョに戻るの」
「ワープするって事」
「ワープって……」
「まぁ、ワープで間違って無いよ。どれだけ別の道を歩いても、それに出会えば、望む望まないは別にして、セーニョに戻ってしまう。そのセーニョの位置に、うちはピアノがあるって事だね」
伯父さんは、満足そうにそう呟いた。
望む望まないに関わらず、と言う言葉が胸に響いた。私にとって、その原因となった人が目の前でそれを語っている事が、何だかおかしかった。私がピアノに興味を持ったのは、間違い無く伯父さんが原因だ。
だから、伯父さんこそが、私にとってのダルセーニョなのだ。
そして、受験の発表日。
少し離れた所に、車椅子に乗った伯父さんと、それを押す涼香の姿が目に入った。
「どうだった?」
緊張した面持ちで、涼香が私に声を掛けて来た。
私は膝を地面に付けて、伯父さんの手をそっと握った。
「受かっちゃった」
おじさんが相好を崩す。
「うん、おめでとう」
次の瞬間、私は立ち上がり涼香に飛びかかった。
「やったよ涼香!」
「うん、あんた頑張ったもんね!」
女二人、飛び跳ねるようにして喜んでいると、徐々に涙が溢れて来た。
これで無事、おじさんのコンサートに行ける。大学に受かった事より、それが一番嬉しかった。
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