第5話

「それで、伯父さんに宣戦布告して来た訳だ」

 メロンパンを齧りながら、涼香は楽しそうに頷いた。

「別に伯父さんにした訳じゃないんだけど……」

「それで、どうなったの?」

「超反対された」

「ま、そりゃそうだろうね。例え伯父さんの為って言っても、娘がそんな事言い出したら、普通親は反対するわよ」

「違うの。反対したのは、伯父さん。お父さんもお母さんも、渋い顔はしたけど、何にも言ってこなかった」

「どう言う事?」

「『気持ちは嬉しい。だけど、絵音ちゃんのそれは、ただ一時の感情に流されているだけだ。君はまだ若い。もっと他にやるべき事が沢山あるだろう』って言われた」

「ふぅん。まぁ、正論っちゃ正論だわね。それで? あんたがその程度で引き下がるとは思えないんだけど?」

「いいね涼香、私の事よく分かってるわね」

「あんたは単純だからね。それで、どうなったの?」

「ん~、とりあえず、まずは高校を出て、大学に行ってからって事になった」

「あんた志望大学決まってたっけ?」

「W大」

 メロンパンの最後の一口を頬張った涼香の手が止まる。相当驚いたのだろう。目を見開いたままこちらを見つめて来た。

「W大って、本気?」

「当然」

 涼香が驚くのも無理は無い。W大と言えば、この辺りじゃ有名な難関の国立大学だ。うちの高校はそれ程おつむの出来の悪い高校では無いのだが、それでも毎年、W大には一人か二人進学出来れば恩の字と言うような大学である。

「前からそうだったっけ?」

「ううん。伯父さんに啖呵切っちゃったんだ。一時の感情なんかで達成出来ないような、大きな目標を成し遂げたら、伯父さんの傍に居てもいいんでしょ、って。めっちゃ難しい大学入ってやるから、伯父さんは、その他のリハビリちゃんと進めとくんだよ、って、言い切って来ちゃった」

 涼香が口笛を吹く。

「かっこい~。でも、現実はそんなに甘く無いわよ?」

「分かってるわよ」

 相当厳しい戦いだって事は分かってる。だけど、伯父さんはもっと辛い勝負にこれから挑もうとしてるんだ。それに比べれば、楽勝に決まってる、と胸の中で一人言ちて、決意を固める。

「それにしても、あんたと言い伯父さんと言い、どうしてそう苦行みたいな道を選びたがるのかしらね。まぁ、だからこそ、おばさんだったり伯父さんだったり、凄い事成し遂げる人が現れて来んのかもね?」

 涼香はそう言って、今朝の朝刊を再び広げて見せた。見出しは、『小早川洋、無期限の活動休止。ピアニスト復帰は絶望的か』なんて言う、胸糞悪い物だった。

 コンサートから二週間。ニュースの風化は早く、マスコミが私の元に来る事は無くなったとは言え、クラスメートの好奇の目が完全に収まった訳ではない。今日、登校して来た私の机の上には、善意か悪意か知らないが、この新聞が置かれていたのだ。それを涼香はすぐさまつかみ取り、ぐしゃぐしゃに丸めてから、叫んだ。

「誰だか知らないけど、次またこんな下らない事してみな! 私がぶっ殺してやるからね!」

 合唱部部長のメゾソプラノが、早朝の教室に響き渡る。

 私は大して気にしていなかったのだが、涼香の反応は素直に嬉しかった。自分でぐしゃぐしゃに丸めた新聞を、昼休み時に私の前で広げるようなデリカシーの無さには、目を瞑るべきだろう。

「そう言えば涼香、大会の方はどうだったのよ?」

 色々あった為、聞きそびれてしまっていた。

「ん? ああ、地区大会の賞は貰ったんだけど、そこで終わり。まぁ、いい青春だったわよ。歌は続けるつもりでいるしね」

「そっか……、残念だったね」

「って訳で、私もあんたと一緒に勉強するから、よろしくね」

「え? どう言う事?」

「別に私はW大狙ってた訳じゃないけど、国立だったら駄目元で受けても罰は当たんないでしょ? 一人より二人の方が、勉強も捗るじゃない。嫌なら、無理にとは言わないけど」

 涼香のイケメンっぷりが眩しい。

「涼香、あんたのそういう、実はぶっきら棒に見せかけといて超優しい所、大好き」

 結婚してもいいくらいだ。

「私はあんたの、そういう恥ずかしい台詞、普通に口に出す所、あんまり好きじゃない」

 抱かれてもいいくらいだ。


「それじゃ、せーので弾き始めるよ?」

「……はい」

 伯父さんが、私の右隣に座っている。それだけで、とてもとても緊張して、指が動かなくなりそうだった。

 おじさんが、せーのと声を出して、右手で鍵盤を叩き始めた。私もそれを、左手の伴奏で追いかける。

 祖母の話によれば、子犬のワルツは連弾用のスコアもあるのだと言う。だけど、私はそれを習っていなかった為、伯父さんの提案で、一人用の楽譜を、二人で弾く事になったのだ。

 両親と祖母が穏やかに見つめる中、伯父さんと二人での演奏が始まった。

 子犬のワルツは、子犬が跳ねまわって遊んでるようなとても可愛らしい曲で、私は大好きだった。だけど、その楽譜の上には音符が一杯で、ピアノを習い始めて一年の私には、メロディを追いかけるだけで精いっぱいだった。特に右手の動きは難しくて、どれだけ頑張っても上手く弾く事が出来ずに居た。

 でも今は、そのパートは伯父さんが弾いてくれている。

 私の演奏では、子犬達がぎこちない足取りでふらふらと歩いているだけだったのに、伯父さんの右手から生み出されるのは、野原を駆け回る楽しそうな子犬達の姿だったのだ。

 元々この曲は、こういう曲だったのか。

 祖母に試しに弾いて貰った時ともまた違う。優しく、軽やかに、二匹の子犬が寄り添ってダンスをする。伴奏だけの私が、上手く追いつけない。やっぱり伯父さんは凄い、と改めて思った。

 弾き終わり、3人の観客から拍手が起こる。

 おじさんは私の身体を抱き抱えると、椅子から下ろしてくれた。そして二人で、観客に向けて礼をする。

「絵音ちゃんの音、とっても可愛い、良い音を出すね。子犬達の楽しそうな雰囲気がよく伝わってきて、とても楽しんで弾けたよ」

 穏やかな笑みを浮かべた伯父さんが、そう言って私の手を握る。

 おじさんは明日には、また日本を離れてしまう。だけど、次に帰って来た時には、また一緒にピアノを弾いて貰おうと、そう心に決めた。

 伯父さんの事が好きすぎて、一緒に弾いたピアノが忘れられなくて、その日の夜は、いつまでも眠れなかった事をよく覚えている。

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