第4話

 一つ深呼吸をしてから、静かに病室のドアを開けた。

 あのコンサートから、二週間が経過していた。一般病棟に移った伯父さんは、個室のベッドの上で、私が入って来た事にも気がつかずに、眠りについていた。時計の針は、間も無く5時を示す頃だろう。学校を終えてから制服のまま、伯父さんの病室に顔を出すのが、この二週間で、私の日課になりつつあった。この病院は、我が家よりも学校に近い場所にある為、直接来た方が断然早いのだ。

 いつもなら、私以外にも誰かが病室に居たりするのだが、今日はたまたま、母の締め切り直前と、祖母のピアノ教室の日が重なったのだ。父は、いつも通り仕事。だから、今日ここに来られるのは、私だけ。

 伯父さんの非常事態でも、それぞれの生活は続いて行く。こう言う時、自分がまだ学生で本当に良かったと思った。学校さえこなしていれば、他に縛られる物は何も無い。今年大学受験を控えてはいるが、特に行きたい大学も見つから無いし、後から頑張れば、きっと追いつけるだろう。楽観的な所が、母に似てると、伯父さんに言われた事もある位だ。

 ベッドの横にパイプ椅子を出して、腰を下ろす。烏だろうか、鳥の影が一瞬だけ、室内から茜を奪い去った。

 伯父さんの顔は、夕陽に照らし出されている所為か、いつもよりも皺が濃いように感じられる。それとも、この二週間で、随分と老けこんでしまったのだろうか?

 命があっただけめっけもんだと、伯父さんはいつものように穏やかに笑っていた。伯父さんの事で一番荒れたのは、本人では無く、産みの親の祖母だった。聞くと、祖父も同じ病気で、突然帰らぬ人になってしまったのだと言う。床に臥した伯父さんが、祖母を宥めすかすと言う不思議な光景が、つい一週間前にこの病室で起こっただなんて、伯父さんの寝顔からは想像もつかない。

 ふと、静かに、伯父さんの右腕に触れた。

 右半身不随、それがお医者さんの出した結論だった。

 今後のリハビリ如何では、運が良ければ、日常生活を行うレベルまで回復する事は可能らしい。勿論、途方も無い時間と労力が必要だと言う事は言うまでも無いが、それでも、前例があるのだと言う。

 ただし、今までのようにピアノが弾けるようになるかと言えば、恐らくそれは不可能だろうとの事だ。

 ピアノは、指先の一つ一つにまで全神経を集中させる。それを考えれば、どれだけ飲み込めなくても、医者の出した結論は正しいと言わざるを得ない。私だって、伯父さんと比べるべくもないが、齧った程度にはピアノを弾いていた人間だ。ピアノを弾く際に、どう言う指の動かし方、どう言う筋肉の動かし方、どう言う神経の動かし方をしているのか、少しは分かっているつもりだ。ましてや、目の前にいるのは、世界に名と旋律を響かせたピアニスト、小早川洋だ。それを思うと、絶望に胸が押しつぶされそうになる。

「伯父さん……」

 堪らず、そう呟いた。

「なんだい?」

 返事があったので、私は驚いて顔を上げた。

「ちょっと、起きてるんなら、起きてるって言ってよ」

「いやぁ、呼ばれたから起きたんだよ。眠ってて悪かったね。絵音ちゃん、いつからいるの?」

「ついさっき来たとこ。これ、お母さんから、頼まれてた物だって」

 私は母に託された物を伯父さんに手渡した。

「ああ、ありがとう。琴のやつ、仕事早いなぁ。そう言えば、達也さんも出版関係の仕事だったんだっけ? ありがたいなぁ」

 父と母に感謝の言葉をささげながら、分厚い封筒の束を、伯父さんは慣れない左手で受け取った。重さを支えきれず、そのまま一度膝の上へと置く。

「だけども、日本で倒れたってのは、不幸中の幸いだったかもしれないな。こうして、家族のサポートを受ける事が出来るんだから」

 子供のように話す姿が、何だか眩しく感じられる。

「ねぇ、伯父さん?」

「なんだい?」

「本気なの?」

「何が?」

「何がって……」

 伯父さんは、封筒の一つを逆さまにして、中の物を膝の上に広げた。母が伯父さんに頼まれたものは、束になった楽譜達だった。

「絵音ちゃん。僕はね、琴……、君のお母さんとは違うんだ」

 それらは皆、左手専用で弾く為の楽曲達だった。

「ピアノを取ったら、僕は無価値なんだよ」

 伯父さんが、私に穏やかな笑みを浮かべる。以前と比べて、右側が少しぎこちない。喋る速度も、随分と緩やかだ。それでも、その瞳はあの日と少しも変わっていなかった。私が初めて、伯父さんのピアノに魅了されたあの時から、何も変わっていなかった。

 畏怖すら覚える程の、芯の強さ。

 咄嗟に零れ落ちそうになった、そんな事無いよ、と言う言葉が、喉に引っ掛かる。

 その笑みには、そして瞳には、安い慰めの言葉を拒絶する凄みがあった。

 人は窮地に立たされた時、足掻くか、受け入れるか、諦めるかを選ばなければならない。それは今後の人生を左右する程の、大きな問題だ。伯父さんは、その選択を、本能によって拒否したかのように感じられた。

 野生の獣の嗅覚能力に近いのかもしれない。

 いや、もしかしたら、初めから神様に全ての選択肢を奪われた状態で、この世に生まれて来たのかもしれない。他に生きる術が無い、身を成す術が無い、だけど、只一つの道だけは確実に与えられる。

 得てして天才とは、そういう星の元に生まれた哀れむべき存在なのかもしれない。予め一本道しか与えられていないのなら、それがどれだけ険しい道だとしても、目は潰れ足はもげ、その身に嵐が吹き荒れようとも、それしか進むべき道が無いのではどうしようもない。

 それが、小早川洋の場合、ピアノだった。突き詰めて言えば、ただそれだけの事なのかもしれない。

 だけど、本人がそれを納得出来るのと、傍から見ている人間がそれを納得出来るのとは、全くの別物である。

「ねぇ、伯父さん。伯父さんにとって、ピアノって、何?」

「難しい事を聞くね?」

 伯父さんはうなりながら、暫し目を閉じて考え込んだ。私の質問に対し、真剣に頭を働かせてくれている。私はその間に、すっかり暗くなった病室の、蛍光灯のスイッチを入れるべく立ち上がった。

 部屋の入り口の横にあった蛍光灯のスイッチを入れると、人工的な明かりはすぐさま病室の自然光を駆逐した。

「そうだね、答えになってるかは分かんないけど……」

 伯父さんがそう声を出したので、私は駆けよるようにベッドへと戻った。

「……懐中電灯の電池、かな」

 予想外の答えに、私は一瞬固まった。

「ごめんね、よく分かんないよね」

「うん、分かんなかった。どう言う事なの?」

「いや、あのね。そもそも、仕事って、何の為にするんだと思う?」

「仕事?」

「そう、僕はピアノを弾くのが仕事。はたまた、ピアノを聞かせるのが仕事。じゃあ、僕がピアノを弾くのは、何の為なんだって事になるじゃない?」

「うん」

「仕事って、お金の為とか、誰かの役に立つ為とかあると思うけど、僕にとっては、僕と言う存在を、認めて貰う為なんだよね。もっと言えば、僕はここに生きていてもいいんだって、自分で自分を認めてあげる事」

「そんな……」

 その考え方は、理解は出来るが賛同は出来なかった。

「あくまで、僕の考え方だから。万人に当てはまる訳じゃないよ。それで、僕が歩いている道は、照らさないと分からない位薄暗い物なんだ。でも、懐中電灯を持っていれば、歩く事も出来るし、困っている誰かを照らす事も出来る。僕がここにいる目印にもなる。だけど、その懐中電灯は、よく電池が切れるんだ。その電池は、一時何かを成すのでは無く、一生を掛けて成し続けなければ意味が無い。真っ暗い道の真ん中で、闇に安らぎを覚えるのも悪く無いだろう。だけど、僕は自分が照らす道を進みたいんだ。君のお母さんが絵を描くように、僕はピアノを弾き続けるんだ」

「……それが、伯父さんにとっての、ピアノ?」

「うん、そうだね」

「そんなの、辛く無いの?」

「辛い時もある。でも、僕のピアノで、誰かを救える時もたまにある。誰かの人生の標になれる時もたまにある。僕の照らした明かりが、誰かの胸を打つ事もたまにある。それが嬉しいし、それこそが僕の価値だ。そして、僕はピアノ以外の手段で、それを成す事は出来ない」

「そんなの、やってみないと、分からないじゃない」

 我ながら思う、安い言葉だ。

「確かにそうだ。でも、僕にその気が無いからどうしようもない。格好つけさせて貰えば、僕はピアノと心中しようって心に決めてあるんだ。君が生まれるずっと前、父さんが死んだ日に……」

 膝に置いた楽譜を、伯父さんは左手で捲った。

「はぁ、こりゃ難しいな……」

 言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情を見せる伯父さんを見ながら、理解した。

 伯父さんはピアノ以外で生きる術を持たない。それは、確かに事実なんだろう。だけど、それよりももっともっと、この人は、小早川洋は、ピアノが好きなんだろう。

 思えば、この人のピアノに魅了され、私はピアノを覚えた。高校受験の際に、勉強との両立が難しくなり、祖母のピアノ教室を卒業した。そこからは趣味程度にしか引かなくなった。だけど、それは私に才能が無かったからだ。ピアノに愛される程、ピアノを好きでいられる才能が私には無かったからだ。

 でも、この人は違う。この人は、何があってもピアノを愛し続けるだろう。

 そこで改めて思い出す。

 幼い頃、私はピアノに魅了されたんじゃない。伯父さんに、小早川洋に魅了されたのだ、と。

「伯父さん」

 私は、ページを繰っていた伯父さんの左手を、両手で掴んだ。そのまま握りしめ、同時に、伯父さんの顔を思い切り見つめる。

「私、決めた。伯父さんと一緒に戦う」

 この逆境を抜けた先で、この人は、一体どんな音色を奏でてくれるのだろう。それを、特等席で聞きたくなったのだ。

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