第3話
涼香から電話がかかって来た時、私は祖母の家の居間にいた。父と二人で、伯父さんの入院の為に必要な荷物を取りに来たのだ。
「もしもし?」
『ちょっと絵音、ニュース見たわよ!』
「ニュース?」
『小早川洋。あんたの伯父さん、コンサートの最中に倒れたんだって?』
「……ああ、うん」
余裕なんてまるで無かった為、そこまで全く気が回らなったが、どうやら、伯父さんが倒れたと言う事実は、そこそこに世間を騒がしているらしい。
『あんた、今日学校来るの?』
「学校か……」
涼香の言葉が、どこか他人事のように私の中に響く。
「考えて無かったわ」
『まぁ、そうよね。でも、あんた、今日は来ない方がいいかもしれないわ』
「なんで?」
『ミーハー野郎共が騒ぎ出すに決まってるし、今朝のニュースで、うちの学校もちょっと映ってたからね。あんたの登校狙ってマスコミも来る筈よ』
私が思っているよりもずっと、世間にとってはセンセーショナルな事件らしい。こっちは、それ所じゃないってのに……。
「ありがと、とりあえず親と相談してから決めるわ」
『分かった。学校終わったら、私も一回そっちに顔出す。またメールするから』
「伯父さんなら……、まだ集中治療室だから、会えないと思うよ?」
昨夜の光景が蘇る。鼻や口に管の繋がれた状態の伯父さんが、痛々しくて堪らなかった。
『馬鹿、私はあんたの心配してんのよ』
「私の?」
『当たり前でしょ? 絵音には悪いけど、私はあんたの伯父さんより、あんたが大事よ。後で行くからね。こっちの様子も、後でメールする。無理すんじゃないよ』
「……うん、ありがとう」
涼香からの電話を切ると、途端に、胸の奥に熱い物が込み上げて来た。
流れていく事実が大きすぎて、私はどうやら、それをしっかりと受け入れる事が出来ずにいたようだ。激流に、心を持って行かれそうになる感覚が、じわじわと這い寄って来る。
「絵音、電話終わったか? そろそろ一回病院戻るぞ?」
声を掛けて来た父に近づき、抱きついた。
「絵音?」
「お父さん……。伯父さん、大丈夫だよね?」
父の手が、私の背中に回る。私を落ち着かせるように、軽く背中を叩いてくれる。
「当たり前だ。お医者さんも、命の心配はもう無いって言ってたじゃないか」
その優しさが、張りつめていた私の糸を緩めてしまう。だけど、肝心な言葉は、父の口からは出て来ない。
私も、聞けない。聞く事は出来ない。
――伯父さんのピアノ、また聞けるよね?
それを口に出したとして、事態が好転する訳ではない。悪戯に不安を煽るだけの言葉なら、今はまだ飲み込んでおこう。吐き出すのは、全部が終わってからでいい。
父から離れると、私が抱きついていた胸元の部分が、軽く濡れていた。これは、私の弱さの証だ。私がしっかりと、弱さを持っていると言う証だ。
「行こうか」
父が私の頭に一度手を乗せ、そのまま玄関へと向かって行った。
追いかけようとした時に、私の頭に、一つの閃きが煌めいた。
「お父さん、ちょっと待って」
私は急いで、2階の奥にある、おじいちゃんの部屋へと足を向けた。部屋の本棚から、一篇の楽譜だけを抜き取り、再び玄関へと向かった。
私と伯父さんが、初めて連弾した曲。
ショパンの『子犬のワルツ』
私と伯父さんが再会したのは、私が祖母にピアノを習い始めて1年近くが経過した、8歳の時だった。
伯父さんはその時、コンサートの為では無く、祖父の命日を偲ぶ為に帰国したのだが、丁度その日は、『泣かないで、エネちゃん!』のアニメの、初回放送日だったのだ。
アニメの第一話は原作とは違い、私が生まれた直後では無く、幼稚園入学直前から始まった。それを、祖母の家の居間で、伯父さんも一緒になって、みんなで見たのだ。
父と祖母は大喜びで、母はニヤニヤと笑いながらアニメを見ていた。そして私は、自分の小さい頃の、ぼんやりとしか覚えていないようなエピソードがテレビで放映されているのが、とても気恥かしかった。8歳、小学3年生と言えば、もうそれなりに自我が目覚めているお年頃だ。だけど、伯父さんが穏やかに、ニコニコと笑いながらテレビを見ていてくれた事で、何だか救われた気がした。
「絵音ちゃんはいいね、色んな人に愛されているんだね」
そう笑う伯父さんの声がとても優しくて、私は胸の内側が、あったかいような、くすぐったいような気持ちになった。
ステージ上で、柔らかくピアノを操り、流麗な曲を奏でる伯父さん。その伯父さんの指から奏でられる音色は、まさに伯父さんの人柄を反映していた。
優しく、温かく、人を幸せにさせる。だけど、その芯には、強くぶれない物が感じられる。
「ねぇ洋。この子ね、去年のあんたの演奏聞いてから、すっかりあんたのファンになっちゃってね。母さんにピアノ習い始めたのよ?」
「え? 本当に?」
「本当も本当よ。ねぇ、母さん?」
「えぇえぇ、絵音ちゃん、とっても綺麗な音出すのよ? 琴やお父さんよりは、洋の音に近いかもしれないわね」
「母親の私に似ないで、血のつながらない洋に似てるなんて、どう言う事なのかしらね?」
「じゃあきっと、お婆ちゃんに似たんじゃない?」
祖母が嬉しそうな声を出す。
「ちなみに、今は何を練習してるの?」
伯父さんが私へ笑顔を向けて来たので、緊張のあまり目線を外してしまった。
「ほら絵音、伯父さんに教えてあげな」
お母さんが私の背中を押して、伯父さんの方に近づける。
「……子犬のワルツ、です」
「へぇ、ショパンか。いいんじゃないかな、母さんの十八番だしね」
「絵音、折角だから、一緒に弾いて貰ったら?」
母の突然の提案に、私は頬が熱くなるのを感じた。
――伯父さんと一緒に?
「洋、お願い出来ない?」
「僕は別に、構わないよ」
「は~い、決まり決まり~」
母が私の頭をポンポンと叩くと、そのまま我先にと、ピアノのある祖父の部屋へと向かっていった。
「父さんのピアノ使っていいわよね?」
「勿論。お父さん喜ぶわよ」
祖母もとても楽しそうだ。私も、伯父さんと一緒に弾いてみたい気持ちはある。だけど、どうしても気後れしてしまう。
その時、伯父さんが私にそっと耳打ちをして来た。
「絵音ちゃん。君のお母さんもお婆ちゃんも、随分ノリノリみたいだから、悪いけど、付き合って貰っていいかな?」
すぐ傍には、穏やかな伯父さんの微笑みがある。
「それと、僕、子犬のワルツは凄く久しぶりなんだよ。もし失敗しちゃっても、許してね」
頬が熱くなる。だけど、伯父さんの笑顔には、伯父さんのピアノと同じくらいの魔力があった。私はその魔法に掛って、思わず、こくんと頷きを返したのだ。
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