第2話

 手術室のドアの上、手術中のランプが、痛々しく光っている。

 私は両親に挟まれて、手術室前の廊下に誂えられていたベンチに座っていた。ひたひたと、現実が徐々に私の周りを囲んで来る。先程までの光景が、何度も何度も頭を巡り、それを幾度となく振り払う。

 ふと、静かに啜り泣く声が聞こえて来た。

「あぁ、洋……」

 母の隣に座っている祖母が、声を抑えるようにして、それでも堪え切れずに涙を零していた。

「……母さん、大丈夫よ」

「……あぁ、どうして、どうしてあの子が」

 母が、祖母の肩に手を回す。私はふと、逆隣の父の顔を見つめた。神妙な顔をして、手術室を睨んでいる父の目も、うっすらと滲んでいる。

 私の視線に気づいたのか、父は私の方を向き、唇を結んでから微笑んで見せてくれた。

「絵音、疲れて無いか?」

「うん、大丈夫」

「そうか。洋さんなら、大丈夫だろ。あんなに素晴らしい人が、どうにかなっちまう筈が無い」

 私を励ますように、父はそう呟いた。でも、その声が僅かに震えているのを、私の耳は聞き逃しはしなかった。

 不安で不安で堪らない時間が、潰されそうな程重苦しい時間が、圧力を連れ立って手術室の前に流れ込んで来る。

 永遠とも思える程の時間は、唐突に、赤いランプの消灯で終わりを告げた。手術室の中からお医者さんが出て来る。一番に立ち上がり駆け寄ったのは、祖母だった。

「先生! 洋は……、息子は、どうなんでしょう?」

 お医者さんは、厳しい顔をしたまま、言葉を選ぶようにして口を開いた。

「一命は取り留めました。それに関しては、再発の恐れはありますが、一先ず心配は無いでしょう。ただ、今後後遺症が残る可能性もあります。暫くは、絶対安静です。詳しい話は、また……」

 その言葉を聞いて、祖母は顔を手で覆い、その場に膝から崩れ落ちてしまった。

「母さん、落ち着いて」

 母が、祖母の身体を抱きしめる。私は、すぐ近くにあった父の手を握りながら、手術室のドアをぼんやりと見つめていた。

 それはあまりにも突然で、現実味がまるで無かった。


 私がピアノに興味を持ったのは、伯父さんの演奏を聞いたからに他ならない。

 7歳の時、いつになく綺麗な服を着せて貰った私は、五年振りに日本に帰って来ると言う伯父さんのコンサートに、両親と共に出かけた。幼い頃会った事があると言われていたが、正直私に伯父さんの記憶は殆ど無かった。有名なピアニストだと言う話しは聞いていたが、ピアニストに対して、上手くピアノを弾く人、くらいのイメージしか持っていなかったし、そんなに凄い人だとは思っていなかったのだ。

 豪奢なコンサートホール前には、『小早川洋 ソロコンサート』と書かれた看板が立てられている。

 ピアノの少し左側の、一番前の席に座った私は、万雷の拍手に迎えられて登場した伯父さんに、一目で心を奪われた。

 燕尾服に身を包んだ伯父さんは、スマートで、とても格好良かった。観客に一礼をした後、ピアノの前に座った伯父さんは、ゆっくりと鍵盤に手を置いた。

 そこから流れて来る流麗なピアノの調べ。幼い私は、感想を上手く言葉で表現する術を持たなかったが、幼心にも理解が出来た。その素晴らしい演奏に、ただただ魅了されたのだと。

 2時間半と言う時間は瞬く間に過ぎていき、周囲の観客の拍手に合わせて何度と無く手を叩いた。自分の感動を表す手段がそれしか無かったのを悔しく思い、それでも、受けた感動に対する感謝を表すべく、何度も手を叩いた。おかげで終演後、私の掌は真っ赤になってしまっていた。

 コンサートの翌日、祖母の家で、伯父さんとの食事会が開かれた。当然のように現れた伯父さんの顔を、私は真っ直ぐ見る事が出来なかった。昨日あれだけの衝撃を与えてくれた人が目の前にいる。ただそれだけで、胸が張り裂けそうだった。

「洋、昨日良かったわよ」

「そりゃ良かった。ごめんね、本当は終わった後にすぐ行けたら良かったんだけど、取材が入っちゃってて」

「いいのいいの。売れっ子なんだから、その辺は充分理解してるわよ」

「売れっ子って程じゃ無いんだけどね。琴だって、随分頑張ってるみたいじゃない」

「まぁまぁかな。まぁ、大体この子のお陰だけどね」

 母はそう言うと、私の事を持ちあげて伯父さんの前に差し出した。あの伯父さんと普通に話が出来るなんて、お母さんって凄い、と感じたのをよく覚えている。今から思えば、双子なんだから当然なんだけど……。

「絵音ちゃん? うわぁ、大きくなったねぇ。マンガの中だったら、まだ3歳くらいなのに」

「ああ、それみんなから言われるわ。ほら絵音、挨拶しな」

 母に背中を押されるが、緊張してしまって上手く喋れ無かった。話し辛いと言うのが伝わったのか、伯父さんは膝を折り曲げて、私に目線を合わせてくれた。

「小早川洋です。絵音ちゃんの伯父さんになります。よろしく」

 そう言って、笑顔で手を差し出してくれた。

「君島絵音です! えっと、7才です!」

 差し出された手に、こちらの手を預け、それだけ言うのが精いっぱいだった。

 伯父さんは次の日にはもう、外国に帰ってしまう。あんなに緊張して、全然上手く喋れ無かったのに、伯父さんが帰ってしまうと言う事実が、堪らなく嫌だった。

 伯父さんが帰った後、少しでも伯父さんと繋がっていたくて、私は母にお願いした。

「ねぇねぇお母さん。私ね、ピアノ習いたいの」

 母は、少し渋い顔をしながら笑った。

「あんた、ピアノやりたくなったの? 洋の演奏聞いたから?」

 改めてそう聞かれると、恥ずかしなってしまったので思わず、違うと言ってしまったのだが、どうやら母にはバレバレだったようだ。

「そうねぇ、ちょっとお婆ちゃんに聞いてみるから」

 母は電話を手に取り、祖母と会話を始めた。

「ああ、もしもし、母さん? うん、実はね、ちょっと相談があって……。違うわよ、お金とかじゃないわよ。あのね、絵音がさぁ、ピアノやりたいって言ってんの。うん、そう、多分ね。母さんどう? 手が空いてるようだったら……。あ、うん、ちょっと待って?」

 そこで、母に受話器を手渡される。

「もしもし?」

『もしもし、絵音ちゃん?』

「うん、絵音だよ?」

『はい、お婆ちゃんだよ。絵音ちゃん、ピアノ弾きたいんですって?』

「うん、絵音ピアノやりたいの」

『そう、それじゃ、お婆ちゃんが教えてあげるから、近い内にお婆ちゃんのお家においで』

「いいの?」

『お婆ちゃん、ピアノ教えるの上手だから、任せて』

「うん!」

『ちょっと、お母さんと変わってくれる?』

「うん」

 受話器を母に戻す。

「はい、もしもし? ああ、うん、聞いてた聞いてた。そんじゃ、今度一回また連れてくわ。うん、まぁ適当に。はいは~い。じゃあねぇ」

 電話を切った母は、私の方を向いて笑った。

「絵音、良かったね? お婆ちゃん、ピアノ教えてくれるってね」

「うん!」

「でもね絵音、習い事って、楽しい事だけじゃないんだよ? 嫌になったりしても、すぐに投げ出したりとかしちゃ駄目だからね。大丈夫?」

「うん、絵音頑張る! それで、伯父さんと一緒にピアノ弾くの!」

 母はそこで、ククッと笑った。

「洋も随分気に入られたもんね。まぁ、そんだけの演奏だったしね」

 かくして、私とピアノの触れあいは、ここから始まったのだった。

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