ダルセーニョ

泣村健汰

第1話

 会場中に響き渡っていた繊細なピアノの調べは、唐突に聴衆の耳から離れて行った。そして、ステージ上で、つい先程まで艶やかにピアノを慰撫していたその指の主は、一瞬身体を硬直させた後、まるで糸の切れた操り人形のように、椅子から滑り落ちて、床に鈍い音を響かせた。

 次の瞬間、女性の劈くような悲鳴が会場を包む。

 途端に客席がざわめきだす。スタッフと思しきスーツを着た人達が数人、袖から飛び出して来た。ケーキに群がる蟻のように、すぐさま倒れた伯父さんの元へと集まって行く。隣の席に座っていた母が、兄の名前を叫び、舞台上へと飛び出して行った。

 私の視界に映る景色達は、徐々にテンポをスローにしていく。

 喧騒も、悲鳴も、目の前で起こった現実も、私には、どこか遠くの世界の出来事のようにしか、感じる事が出来なかった。


「ハロー、絵音ちゃん。今日も可愛いですね~」

 昼休み、涼香がお弁当を食べ終えた私の元へとやって来て、開口一番に私を褒め称えた。

「あんた、何企んでんのよ?」

 私の友達は、下心を見破られてもびくともしない。

「いや、ちょっとお願い事があってさぁ?」

「珍しいわね、何?」

「絵音、あんたピアノ弾けるんでしょ? ちょっと伴奏お願い出来ない?」

「えー? なんでよ?」

「うちらが今週末大会なの知ってんでしょ? なのに、うちの馬鹿顧問、こんな時期に風邪でぶっ倒れて使えないのよ。お願いします絵音様! どうかお力をお貸し下さい!」

 涼香が両手を合わせ、文字通り私を拝む。彼女はいつの間にか、私を崇めると言う謎の宗教に入信したらしい。

 涼香との付き合いも3年目に突入した訳だが、こんな頼み事をされたのは初めてだった。

 高校に入ってすぐ、出席番号順で私の一つ前に座っていた彼女は、入学式の直後にこちらを振り向いて尋ねて来た。

「ねぇねぇ、君島絵音って、もしかして、あのエネちゃん?」

 不躾な質問はよくある事だ。だけど、涼香の質問には、嫉妬や羨望のような物は一切無く、単純な好奇心のみで形成されているように感じられた。

「そうよ、あのエネちゃんよ」

 あっさりと肯定してやると、涼香はそっか、やっぱりねと軽く頷いた後に、私に右手を差し出してきた。

「私、菊原涼香。宜しく」

 その手を、そっと握り返す。

「君島絵音」

「知ってる」

「だからって、名乗らないのも感じ悪いでしょ?」

「そうだね。よく聞かれるの?」

「何が?」

「エネちゃんって?」

「たまにね。でも、私自身は、あんまりそう呼ばれるの好きじゃない」

「どうして?」

「どうしても」

「そっかそっか。そんじゃ、絵音って呼び捨てでいい? 私の事も、涼香って呼んでくれていいから」

 親しみやすさと馴れ馴れしさの境界線はどこにあるのだろう? だけど、ぐいぐい踏み込んで来る涼香の挨拶が、私には親しみに感じられたのだ。

「でも、よく分かったわね」

「うちの母さんが、小早川琴の大ファンでさ。エッセイから何から全部持ってんの。だから、君島さんって人と結婚してるのも、勿論知ってるって訳よ」

 初期の頃から読まれているのなら、バレバレなのは仕方が無い。

 私の母はイラストレーターを生業としている。

『小早川琴』と言えば、調査をした訳では無いが、世間的にもそこそこの知名度を誇っている筈だ。イラストは勿論だが、最近では新聞の四コマなどの連載物も数多く抱えている売れっ子だ。そして、それがどうして私の存在に繋がるのかと言うと、数多ある母の作品群の中で、最も有名な代表作が、私をテーマにしたコミックエッセイ、『泣かないで、エネちゃん!』なのである。

 私の誕生から幼少期、小学校入学までを描いたその作品は、コミックス全17巻で、累計発行部数1300万部と言う記録を誇っている。メディアミックス展開も盛大に行われ、アニメ化は元より、実写で映画にすらなった程だ。お陰で我が家の暮らしは随分と楽になったらしいのだが、自分の幼少期の体験が面白おかしくアニメで放送されていると言うのは、時に堪らなくなるものがあった。ましてや、幼い時分ならいざ知らず、『泣かないで、エネちゃん!』のアニメが始まった時は、私は既に小学3年生であり、コミックスが完結したのは、私が中学1年生の時だったのだ。母のストックの多さを恨んだ事もあるが、映画化した際に、映画オリジナルキャラクターである、大人になった私を演じていたアイドルのお姉さんと仲良くなったり、コミックスが一冊出る度に、好きな物を一つ買ってもらえたりと、たっぷり甘い汁を啜らせて貰っていた手前、気軽に文句を言える立場でも無かった。

 ちなみに先程涼香が言っていた初期の作品とは、父と母との馴れ初めから、結婚、そして私が生まれるまでを赤裸々に描いた、『今日も明日も笑いたい』である。この歳になってから思う。自分の両親の馴れ初めを全国の人が知っていると言うのは、自分の事を知られているのと同じくらい恥ずかしい。幸いこちらの作品は、メディアミックス展開はされていない。

 ちなみに、著名な母とは違い、うちの父親はごく普通のサラリーマンだ。

「合唱部なのに、ピアノ弾ける人一人もいないの?」

「これがものの見事にいないんだな。そもそも、楽器弾けないから合唱部に入ったような連中ばっかりだから」

 部長が言うのだから、間違いないのだろう。

「今週末の地区予選、うちらにとっても最後の大会なのよ。練習したいじゃん? 青春したいじゃん?」

「でも、大会が今週末だったら、私本番は出られないわよ?」

「それは大丈夫。そこまでには意地でも治すって大川ちゃんも言ってたから」

 生徒にちゃんづけで呼ばれるような音楽教師は、本当に頼りになるのだろうか?

「それに、週末はあれでしょ? 伯父さんのライブだっけ?」

「ライブじゃなくて、コンサート」

「そうそれ」

「合唱部の部長が、うちの伯父さんも知らなくていいの?」

「合唱部の部長だからって、クラシックに精通してると思ったら大間違いよ」

「偉そうに言う事?」

「まぁ、偉そうに言えたことでは無いわね」

 けらけら笑う涼香の鼻をつまんでやる。

「そんで、今日と、明日くらいまでとりあえずお願いしたいんだけど、絵音様、放課後のご予定はいかがでしょう?」

「ん~、な~んか私、クレープとか食べさせて貰えるなら、やる気になるような気がする」

「ほほぅ、山吹色の菓子にございますな」

「その通りだけど、なんで越後屋風なの?」

「その位なら、合唱部全員で貢がせて頂きますよ。ぐぇっへっへっへ、お主も悪ですなぁ」

 涼香は下卑た笑いを浮かべるが、先程から私に鼻をつままれたままの為、声が全部鼻声に変わってしまっている。

「しゃーないな。他ならぬ涼香の頼みだからね」

「ありがとっ! そんじゃ、放課後ね!」

 そう言うと、涼香は私に再び手を合わせた後、自分の席へと戻って行った。

 昼休み終了5分前を確認してから、私は自分の指をしばしぼんやりと眺めた。

 ――伴奏か~、上手く弾けっかな?

 ピアノに連想して、同時に伯父さんの事を思い出す。

 伯父さんに会うのも、約二年振りになる。コンサートが終わったら、一緒にご飯を食べて、また一緒にピアノを弾かせて貰おう。

 顔がにやけるのを抑えながら、私は机の上のお弁当箱を片づけた。

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