風鈴ととおせんぼう

暁美よしこ

第1話


 部活の帰り道、いつものように私たちは二人で早めの夕食をファミレスで食べたあと、街灯の明りが点々と続く暗い夜の住宅街を歩いていた。まるで小鳥がくちばしをついばみ合うみたいに小気味良く喋り続けていたけれど、ふとした時に話題が途切れた。周りからは室外機の排出音と街灯がじりじりと瞬く些細な音しか聞こえなくなって、疲れで歩みが遅くなった二人分の足音が、間を繋ぐように薄暗い小路に低く響いた。その時、今までずっと抑えてきた衝動が、私の心を食い破るみたいに突然暴れ出した。私、高森くんが好きなんだ。理性が止める間も無く、胸の奥底にいびつな形のまましまっていた思いが、無残に吐き出されてしまった。


 背の高い美玖は、私を見下ろしている。爛々とした大きな目が絶望に黒く縁どられていて、まるで都市伝説に出てくる、長身のお化けみたいだ。


 彼女の、肩にかかえたエナメルバッグがどさりと落ちた。ドラマのような演技じみた動作だったけれど、素直な性格の美玖の心情をよく表している、と思った。とぼけているように見えて真剣で、愛らしい。彼女の人柄を知っているからこそわかる。たった今、美玖の心の底が抜けてがらんどうになったのだ。


 長い間、私たちは見つめ合っていた。言葉にならない思いを電波のように届け合った。皮肉なことに、こんな薄暗い住宅街でも視線だけで意志の疎通が出来てしまっていた。


 美玖の大きな瞳はひどく淀んでいて、怒りとか悲しみとかが込められた視線が一筋となって私を貫いた。まるで、海の底に沈んでいる金属が放つか細い光みたいに。私はもう、彼女の目をこれ以上見たくなかった。けれども、そうはいかなかった。街並みをほのかに照らしている今夜の満月が、私の気持ちを代弁してくれたらいいのにと、ひどく他人事のように思った。


 「ゆっこがそう思うんなら、それでいいよ」


 ふいに美玖が口を開いた。声には抑揚が無かった。前触れもなく開いた口腔は真っ暗で、まるで魂のない人形が無理やりしゃべらされているみたいだった。そして、聞き馴染みのある名称は私のあだ名であることに遅れて気づいた。親しみのニュアンスは微塵も含まれていないようだった。


 私は弁明しようとしたけど、咄嗟に口を噤んだ。取り繕う余地なんて、見当たらなかった。私は、美玖の彼氏が好きだと宣言して、美玖はそれを受けた。その事実が、二人の間にただ横たわっていた。まるで火事のあった焼け跡みたいな恒久的でもの悲しい雰囲気が、私の心を湿らせて重たくしていた。


 美玖はしばらく私を見つめていたけど、やがて、どんよりとした視線を中空に舞う羽のように忙しなく動かしていった。私の目、首筋、胸、胴、足元へ焦点を滑らかに移動させたあと、何もかもが凪いだように地面に視線を落として俯いた。


 そして、落としたエナメルバックに今気付いたように、ゆっくりとした動きでそれを拾い上げると私を一瞥もせずに歩きだした。向かっていったのは、隣り合う私たちの家の方角だ。なにか言わなきゃ、と焦燥に駆られて追おうとした私を、美玖の大きな声が制した。


 「来ないで!」


 布を勢いよく裂いたような、甲高い声だった。それは閑静とした住宅街に響いたけれど、深まった夜に吸い込まれるように、すぐにまたしんとした静寂が訪れた。私の耳に美玖の叫び声がぐわんぐわんと鐘の音のように響く。美玖が、こんなに大きな声を出すなんて。


 「ごめんね…。じゃあ、また明日。」


 美玖はそう言い残して歩いて行った。足取りはさっきより重たかったけれど、とても追いつけそうになかった。私は、飛ばされた風船のようにみるみる小さくなっていく彼女の背中を、無力な子供がそうするように、焦燥を抱え込んだまま突っ立って見つめるしかなかった。


★★★★★

 

 やがて美玖の姿が見えなくなって、凝り固まった足が少しは軽くなった気が、した。でも家に帰る気なんて起きなくて、私は街路樹のそばにある背の高い花壇のふちに腰を下ろした。ふと目を見やるとその花壇には、様々な色彩の花が等間隔に植えられていて、まるで遠い昔の記憶のように薄くて淡い花弁が、生ぬるい夏風に吹かれて、右に左にそろそろと揺れていた。花壇のふちに腰掛けている私の目線からだと、頷いて肯定しているようにも、かぶりを振って否定しているようにも見えた。何気なく一枚の薄紫色の花弁をつまんで軽く力を入れると、三日月形のどす黒い爪の跡が、あっけなくそこに刻まれた。


 高森くんはどう思うんだろうと、私はふと考えた。知ればきっと怒るんだろうな。でも、少しは動揺してほしい。色んな逡巡が、いつかプラネタリウムで見た星の軌跡のように、彼の中で巡り巡ってほしい。


 きっと、美玖からの告げ口はない、はずだ。だってあの子は、ひどい事を言った私にも気を使っているから。様々な事柄に角が立たないように、嵐が過ぎ去った跡みたいにボロボロになった心を、理屈と良心でうやむやにして、救難信号を誰にも出せないまま、私への怒りや失望の感情も、まとめて抱え込むんだ。美玖は、そういう子だ。ばかばかしいほど優しくて、実際ばかで、自分の感情すらも持て余してしまうほど、不器用で弱くて。だから金切り声を上げた自分に驚いて、傷つけた私をかばうみたいに、また明日、なんて甘い言葉をかけてしまうんだ。


 夜に沈んだ住宅街を取り巻く風が、昼間の熱気を抱えたまま私の服のすき間から入り込んで、皮膚のうえを泳ぐように強く吹いた。それが熱くなった身体に心地よくて、Tシャツの胸元をずらし、風を少しでも多く湿気た服の中に取り入れようとする。その時、終業式の日にクラスの友達に磨いてもらった爪が、思わず目を向けてしまうほど、街灯の明りを反射して煌びやかに光った。


 もう、後には戻れない。私はすっくと立ちあがった。その際に何気なく、さっきのくすんだ薄紫色の花弁を掴んだ。それを僅かに力を入れて撫でると、あっさりと千切れた。どす黒い跡が生々しく残る美しさの欠落した花弁は、解き放たれたように軽やかに、生ぬるい夏の風に乗って夜の彼方に舞い上がっていった。残った薄紫色の花は、花弁が一枚無くなったことに気づいていないように、先程と変わらず楽し気にその頭を揺らしている。


 歩き出しながらポケットからケータイを取り出して画面を開く。ラインを起動すると、通知が何十件とたまっていて、一瞬高森くんから連絡が来ているのかと思ったけど、同年代の女子バスケ部のグループラインが、明日みんなで行く予定の遊園地の話題で盛り上がっていただけだった。夏休みに入って初めての休日だから、グループラインはかしましい話し声が聞こえてきそうなほど、目まぐるしくあーでもない、こーでもないと意見が活発に交わされていた。

 

 美玖は、当然だけど会話に入ってきていなかった。いつもだったら、どれだけ忙しくても合いの手のような軽いコメントをしているのに、彼女も押し黙ったまま、会話の流れを追っているだけのようだった。他のラインメンバーからは、私たちを心配する声も一応、あがっていた。ゆっこも美玖もどしたー?既読付いてんのわかってんぞー。二人とも揃って寝てるんじゃない。寝落ちのタイミングまでお揃い?仲良すぎでしょ。どっちかの家でお泊り会してるんだよ、寝るには早いから、いまは二人ともお風呂ちゅう。いや、風呂も一緒かよ。まあ来るでしょ別に心配しなくても、別れ際行くって言ってたし。


 いつもの調子で軽口混じりに私たちの話題がテンポよく発信され、それは徐々に薄らいでいき、またグループラインは明日の予定の話で持ちきりになった。夜の住宅街の道路に長らく居たせいか、ケータイの光がやけに眩しく感じられて、私はそっとホームボタンを押して画面を消した。黒く沈んだケータイの向こう側で、部活メンバーが他愛もなく軽快に話を続けているところを想像すると、グッと視界が狭まったような閉塞感に苛まれた。


 携帯をポケットにしまい、また歩き出す。高森くんと話がしたい。彼への思いが取り返しのつかないくらい溢れてくる。日向そのもののような、あの間延びした声を、いま聞きたい。さっきから落ち着きなく早鐘を打つ心臓が、胸の奥で激しくノックをし続けている。まるで彼の声を聞かせろと、駄々をこねているみたいだ。


 心臓が身体中に血を勢いよく送り続けているせいか、次第に私の足は早々と動くようになった。生暖かい夏の空気の中を、脳のない羽虫が飛び回るように威勢よく帰路につく。まとわりついていた緊張感や部活の疲労は、今ではもう感じなくなっている。焦燥と充実が泥水のように汚く入り混じった、不都合の何もかもを鎮静させる麻薬のような感情が、血の巡りと一緒に徐々に私の情緒を支配していく。私は、自分でも得体のしれない何かから逃げるように、またはそれを追うように、勢いよく家路を歩く。


 途中、美玖の姿を見かけることはなかった。私が出発する時間が遅かったのか、それとも私を上回る速さで家に帰ったのか。もしかすると、私が気づいていないだけで彼女を追い越してしまっているのかもしれない。


 空気を吸ったり吐いたりするたびに、彼女との思い出が頭の中で断片的に流れる。思い出の中の美玖は笑ったり怒ったりころころと様々な表情をみせるから、私も幸せな気分になってくる。これもいい思い出になるよ、悲劇も人生のワンシーンだよ、と私の頭の中にうずくまっている歪な塊が、声を漏らしてこっそりと笑う。


 私はもう物事を深く考えられなくなっている。自覚しているのに、私は私がしたい事がわからない。高森くんに告白し、フラれて美玖や皆からも嫌われる。この衝動の先には、わかりきっている絶望が待ち受けているのに、我ながらばかみたいだ。それでも、こんこんと溢れる破滅への欲望を抑えきれない。美玖ともまた笑って話せる日が来るのかな、なんて都合のいい妄想が、タガが外れて開けっ広げになった私の心から、あぶくのように湧き出てくる。


 気が付くと私は、道中の記憶もおぼろげなまま、自分の家の前に着いていた。我が家を前にしてようやく没入感が解けた私は、知恵熱のようなものが全身に広がっていて汗だくになっていた。身体の疲労感はさっきから無くなっている。


 ふと、二軒となりにある美玖の家を見上げる。女児用のおもちゃの家を、そのまま縮小したような、煌びやかで安っぽい家。私はこの外観が嫌いだった。どこで買ったのかもわからないチャチなフラワーハンガーが象徴的にかけられていたり、物語のお姫様が冠るようなティアラを模したウォールアクセサリーが家を縛り付けるように貼り付けられていて、目に付く度に私はげんなりしていた。


 けれども、まだ寝静まる時間でもないのに、2階の道路側に面する部屋の窓は、去り際に私へ向けられた瞳のように深い暗闇に覆われていて、稚い家は日中とは打って変わってシックな装いになっている。よく目を凝らすと、カーテンが開きっぱなしになっていることに気付く。胸中をかき乱されて意に介さないまま部屋の主は寝てしまったのか、ただ単にまだ帰っていないのか、私には知る由もない。


 ふと腕時計に目を向けると時刻は8時丁度を刺していた。母からプレゼントでもらった革の時計が、まるで手縄のように見えた。

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