四つ葉

@asagaya3

第1話

 春の空をぼーっと見上げると、ティッシュのような雲が二つ浮かんでいる。別に、特段空が好きという訳ではない。しかし、日中は勤勉労働に励む私たちが、空を見上げることなどあり得るか。上を向きながら歩くことなどできないではないか。


 昨晩、私は死んだ。


 脳卒中か何かの類であると思うが、朦朧とする意識の中で、医師たちの会話を聞き取ることはできなかった。

 実は、私は「死」というものに懐疑的であった。今、私たちは此処に生きている。確かに存在しているのだ。そういう者が、死、いわゆる「無」になってしまうことなどあり得るだろうか。たとえ、生物学的に死が認められたとしても、なんらかの形で存在し続けると私は信じていた。

 私は高校で生物を教える傍ら、臨死体験云々の本を読み漁り、それを解き明かしてやろうと研究を始めた。教師生活の全てが、飯を食うか生物学か、だった。

 果たして、私の考えは正しかったようである。死の直後はというと、周囲の音は水中にいるかのようにみるみる消えて行き、体(私の意思的な部分)は、引き上げられるように浮き上がった。私は風に煽られ、暫くは空を漂流した。私の勤務先や家、その地域を通り過ぎて、ようやくここにたどり着いたのだ。

 その後、私は土に芽を伸ばし、風が起きても飛ばされることはなくなった。自らの体を動かすことも叶わないし、話すことも、露の湿っぽさも感じない。ただ、空を見るだけだった。

 空に浮かんでいた二つの雲は、私が思考に耽るうちに、三つに増えて、また空の青いのにかき消された。

 私は元来、理屈に通らないことが嫌いだった。科学というものは、人が触れることが出来ない、与えられし仕組みを学ぶものである。歴史のように、人が作り出したものを学ぶことが必要だろうか。学生の頃から、化学や生物に没頭した。一教員となった後も、それに多くの時間を費やした。勉強が好きだったわけではない。そもそも、勉強が嫌いだの好きだの、勉強をする意味がわからないだの、そういった考え方さえ理解ができない。学ぶことそのものが感情であり、意味なのである。

 だから、私は納得がいかない。私が解き明かせなかったこの状況が、今現実で起きていることを。そして、私がそれに無抵抗であることに、である。私は草となっても、未だ、理解することはできる。けれども、私自身のことさえも理解が及ばないことが、とても辛い。私たち全員の死よりも、私の死の方が、とても辛かった。どんなに苦しもうと、もがくこともできない。どんなに深く考えても、人に伝えることはできない。生きているときは家族にさえろくに会話を交わすことはなかったが、一人というものがこんなにも辛いことだとは思わなかった。

 そのうち、私はこういったことについて考えるのを諦めた。そして、これは罰なのだと、人として生きてきたが、それを浪費し、疎かにしてしまったことの罰なのだと、私は初めてそんなことを考えた。人の意識を与えられながら植物となったときに、私が本当に考えるべきことは、その仕組みなどではなく、理由なのだ、と。

 雲の後ろで照る太陽と、そこを過ぎる飛行機を見て、やはり神様も人間なんだと思った。仏教では、生きていることそのものが苦で、それが真理なのだという。植物にもならないと人が理解できなかった私は、たとえ苦しみに溢れていたとしても、もう一度人生を、人間として人生を送ってみたいと願った。

 そんな折り、遠くの方から小学二年生くらいの女の子が駆けてきて、私の前でしゃがみ込み、わざわざ私を地面から引っ張り上げた。 

 なるほど、次は《幸せ》になるのも悪くない。

 

 

 

 


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