最終話 夢の終わり

「──!」


 フォルテのダイナミックな歌声にはっと意識を引き戻される。この曲の一番の見せ場──聴かせどころだ。

 他チームの曲ではあるけれど、思わず一緒に歌い出しそうになる。歌い出したくてうずうずする。


(ああ、懐かしい……)


 思えば合唱祭は毎年こうだった。これが合唱祭の空気だった。

 その空気を今年も感じられたのだと思うと、胸の奥からこみ上げてくるものがある。鼻の奥が少しだけツンとした。


 最初の合唱は優しいフェルマータで幕を閉じ、指揮者がそっと腕を下ろす。

 彼が指揮台を下りて礼をすると、講堂には拍手が巻き起こった。


 その拍手が鳴り止む頃、塚本くんがチームの退場の誘導に移る。反対側では湯浅くんが次のチームを誘導し始めた。

 私は頃合いを見計らい、司会用のマイクを掴む。


「続きまして、『旅路』です」


 これは中村くんが選んだ曲だ。

 そして、一時は合唱には参加しないと表明していた桐山会長が選んだ曲でもある。

 あの日、音楽資料室で中村くんが「是非入れたい」と推薦するまでは知らない曲だったので、ちゃんと聴くのは今日が初めてだ。わくわくする。


 すうっと染みこむように流れ出したピアノの前奏に、私ははっと息をのんだ。


(……! これって、短調だよね?)


 短調独特のほの暗さと迫力、そして内に秘めたる微熱を感じる。

 一曲目とはがらりと雰囲気が変わり、その落差に聴衆が引き込まれているのがわかった。


「明日へ」を一曲目に据えたのは私だけれど、二曲目にこの「旅路」を持ってきたのは中村くんだった。さすがだと思わずにはいられない。


(ああ、私もこの歌、好きだ……)


 後で中村くんに頼んで楽譜をもらわなければ。



♪ああ ぼくのこの目の前に

 果てしなく広がる旅路

 ぼくの進む道 ぼくの生きる道


 女声と男声に分かれてのリフレインに鳥肌が立ちそうになる。

 準備期間がたった一カ月でも、面識のない人も少なくない縦割りのチームでも、この完成度に到達できるのだ。

 やっぱり、合唱祭は私の一番好きな行事だ。


 聞き惚れている間に、「旅路」が終わってしまった。

 曲の余韻が消えてしまうのが名残惜しい。けれど今日はいかんせん時間がないのだ。私はマイクを準備する。

 あと二曲紹介すれば、司会は後半の輝にバトンタッチだ。そこからは、きっと自分の出番まであっという間だろう。


 一曲ずつ、次の曲へと進むたびに、私たちは終わりへと近づいていく。

 一番最後に控えている「夢の翼」は、合唱祭の終わりへの始まりだ。


 合唱祭を締めくくるのはどんな合唱だろう、と注目されるだろうか。

 それとも、連続で九曲も聴いた後ではみんな合唱そのものに飽きてしまっているだろうか。

 参加者にしたって、みんなステージを終えプレッシャーや緊張から解放されているのだ。聴衆がどんな状態になっているかはわからない。

 それでも私たちは歌うだけだ。

 歌声に、歌詞にメッセージを乗せて、ただ歌うだけだ。


 直前のチームの歌、「紅葉の渦」が終わった。

 退場の間際、そのチームの中にいた乾と目が合う。

 彼は「がんばれ」と口だけ動かした。エールを受け取ったことを伝えたくて、私は小さくうなずく。

 待機場所にできはじめていた列に、塚本くんと一緒に加わった。私はソプラノに、塚本くんはテノールに。


(ああ、始まる。始まってしまう……)


 私たちの入場を誘導してくれたのは中村くんだった。その表情が妙に真剣で、私もつられて表情を引き締める。

 全員が入場し終えると、輝の声で曲名が読み上げられた。


「ついに最後の一曲となりました。『夢の翼』です。指揮、佐藤梨花。伴奏、宮下幸穂」


 結局チームリーダーと指揮者を兼任することになった梨花は、少なくとも私の目には緊張しているようには見えない。そのことに密かに安堵しながら、運命の時を待つ。

 指揮台に上った梨花が右腕を上げると、講堂には完全な静寂が満ちた。

 まもなく、彼女の腕が振り下ろされるだろう。なのにそれまでのこの一瞬が、なぜか永遠に思える。


(ああ、これだ……)


 目には見えない、手にも触れない高揚で全身の肌が粟立つような、快とも不快とも言いがたいこの感覚。

 緊張とも違う。興奮とも違う。ただ得体の知れない感覚に包まれるのだ。


 と、ついに梨花の手が空を切った。

 そしてその四拍後、幸穂が奏でるピアノがキラキラと流れ出す。


 全パートを合わせる合同練習には、私もちゃんと参加した。だから幸穂の伴奏を聴くのは初めてではない。

 それなのに私は、幸穂の奏でる音にまるで心臓をきゅっと掴まれたような気持ちになった。

 お気に入りのこの歌を、彼女のこの伴奏で歌える幸せをかみしめる。


 さあ、もうすぐだ──心にあふれる想いを、身体に宿る高揚を、すべてを解放するように、私は大きく息を吸い込んだ。



♪吹きつける風に 身を任せたい

 まぶしい太陽に ふと目を細める


 幸穂の奏でるピアノと私たちの歌声が、梨花の指揮でひとつになる。

 まだ始まったばかりなのにもう胸が熱かった。


♪振り返ることなく 歩いてきたけれど

 なくしたものは 数知れない


 この合唱だって、「音」である以上は波のように空気を伝わっていくだけの「振動」にすぎないのだろう。

 それでも私には、見えない音符が一斉に宙を舞い、そして講堂に降り注ぐビジュアルが浮かぶ。


♪たどり着きたい あの美しい場所

 それはいつも この心の中に


 きっと私は、ずっとこの音符を追いかけていたのだ。合唱祭が中止を宣告されたあの日から、ずっと。

 そして今日という日を掴んだのだ。合唱祭実行委員会のみんな、生徒会執行部のみんな、合唱祭開催を後押ししてくれたみんな、そして、合唱祭に参加してくれたみんなとともに。


♪この翼だけは 折れることはない

 力振り絞って 羽ばたいてみようよ

 信じ合える 今のこの瞬間を

 私はいつだって 忘れないから


 ああ、もうこんなところまできてしまった──ちゃんと一音一音歌ってきたはずなのに、時間が飛んだかのような錯覚に陥る。

 あの日屋上で、私はひとり諦念に包まれながらこの歌を口ずさんでいた。塚本くんが来てくれるまでは本当にひとりだったのだ。

 でも今私たちはこのフレーズを、五十人で歌っている。独唱でも重唱でもない、合唱が響いている。


♪風に乗り舞い上がる いつか見たあの夢へ

 届かぬ不安もまた 力へと変えられる


 力強いフォルティシモは、まるで夜空に咲く花火だった。

 祭りを、祭りのフィナーレを彩る花火──でもそれを見上げている間だけは、みんなその後に待っている終わりに、気づかないふりをするのだ。


 だから私たちは、ただひたすらに美しい花火を打ち上げ続ける。

 みんなに終わりを見てほしくないから。私たちが終わりを見たくないから。

 その終わりは遠からずやってくると、たとえ本当は知っているのだとしても。


♪はためく希望とともに

 どこまでも 飛んでいこう


 リタルダントで引き伸ばされた最後の音が、だんだんと薄くなっていく。

 そう、まるで打ち上げられた最後の花火の火の粉が、濃紺の夜空にキラキラと溶けていくように。


 歌は残らない。どんなに美しいハーモニーも、力強いメロディも、歌ったそのそばから消えていってしまう。

 なのに同じ歌は、一つとして生み出せない。たとえ同じ時間に同じ場所で、同じ人と何度歌ったとしても、同じ歌などありえないのだ。どんなに精密に計算しても、全く同じ混色が不可能であるように。


 この世界は日々変化していて、その中で生きる私たちも変わらずにはいられない。

 それは良い変化ばかりではないかもしれないけれど、それでも恐れてばかりいてはいけないのだ。


 そう思った瞬間、梨花の両手がふわりと揺らぎ、きゅっと拳を作った。

 その動きに連動して、すべての音がふっと消える。


 そしてその一拍後に、割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 今の今まで存在を意識すらしなかった講堂の照明が、潤みかけた私の目をまっすぐに射る。

 眩しい──心地よいまどろみから突然揺り起こされたような気分だった。


(ああ、そうだったんだ……)


 鼻の奥がツンとして、胸が締め付けられる。

 この、時間にしてたった二時間にも満たない非日常は、「合唱祭」と名づけられた夢だったのだ。

 そして、その夢から覚める時がとうとう来てしまった──…。


 指揮台を下りた梨花の動きに合わせて、全員で礼をする。


 頭を下げた瞬間、私の目からは透明なしずくがはらりと落ちた。



  -END-

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見えない音符を追いかけて 蒼村 咲 @bluish_purple

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