海辺の町からもう一度

中田カナ

海辺の町からもう一度

「おじさん、ここにいたんですか」

 おじさんと呼ばれるのは不本意なのだが、目の前の少女からすればおじさんなのだろうと最近では反論することもしなくなった。

 ここに来てから身なりに気を使わなくなり、ぼさぼさの髪に無精ひげも生やしているから、余計に年齢以上に見えるのだ…と思いたい。

「ああ、君か」

「今日は何を読んでいるんですか?」

 黒髪を三つ編みにした少女は、私が手にしている本をのぞき込む。

「君も知ってるんじゃないかな?建国の英雄をたたえる詩だよ」


 ここは海辺の小さな町にある療養所の中庭。

 王都にある大きな病院が母体で、ここの他にもいくつか存在するらしい。さまざまな事情で移ってきた人達が日々を過ごしている。

 かくいう私は、精神的にまいっていたところに過労が重なって倒れてしまい、王都の病院の経営者である伯父に無理やりここに送り込まれた。

 入所者同士で雑談することもあるが、お互いの事情には深く踏み込まない。だが、おそらくこの療養所で私が一番軽症なのだと思う。

 仕事に関わるものを持ってくることは許されなかったので、散歩か療養所の図書室にある本くらいしか暇つぶしの手段がない。流行の小説などは皆無だが、古典的なものは揃っているので、それなりに読みごたえはある。


「この前、歴史の授業で習いましたけど、英雄様って何でも出来ちゃう人ですよね」

「魔物を倒して捕らわれの姫を救い出し、荒れた土地を豊かな農地に変え、小さな国々を統合して現在のこの国の礎を築いた。まぁ、どこまで本当なのかわからないけどね」

 実際、建国の英雄に関しては諸説ある。

「でも、この国の王族って英雄様の末裔なんでしょう?」

「確かにそう言われてるね」

 過去のさまざまな人々が成し遂げたことを建国の英雄の実績ということにして神格化させた、というのが現在最も有力な説である。

「1つのことをやるのだって大変なのに、あれもこれもなんて大変そうですよね」

「そうだな」

 仕事とプライベートの両立に失敗してここにいる私も、それに関しては同感だ。


 ちょこんと横に座った少女は、この療養所で掃除や洗濯などの雑務を担当する女性の娘だ。

 午前中は教会が開いている無料の学校に通い、午後はここで母親の手伝いをしている。

 幼い頃からいるため長期滞在の入所者達ともすっかり顔なじみで、おつかいを頼まれたり話し相手になったりとかわいがられているようだ。

 療養所の談話室には3匹の猫と2匹の小型犬がいるのだが、少女はその世話係でもある。


「ねぇ、おじさん。いつものようにその本を読んでくれませんか?英雄様のことは授業では習ったけど、その詩は知らないんです」

 少女はいつも私に話しかけ、本を持っていれば朗読をせがむ。

 王都で部屋にこもって仕事に没頭し、あげくのはてに倒れた私は、この海辺の町でしばらく仕事を離れ、誰でもいいから人と話すことを医師から勧められた。こうして少女と話すことも治療の一環と言えなくもない。

「わかった。それでは一番人気のある魔物退治のくだりを読むとしようか」


 子供の頃から本が好きでたくさん読んできたが、この療養所で少女にせがまれて朗読するようになり、作品に対する感じ方が少し変わったように思う。名作といわれるものは声に出して読んでいてもリズムが心地よく、まるで歌のように思えることもある。

 戦いの末に魔物を退治した英雄が女神への感謝の祈りを捧げるところまでを読み終えて本を閉じると、少女はうっとりとした表情になっていた。

「まるで情景が目に浮かぶようでした。おじさんって読み方が上手だし、いい声してますよね」

 少女はいつも私の声を褒める。

 声を褒められたことなど1度もなかったので最初の頃はとまどったが、褒められて悪い気はしない。


「今日もありがとうございました!私、そろそろお手伝いに戻りますね」

 隣に座っていた少女が立ち上がる。

「あ、それから明日はたぶん雨になるから、続きは図書室で読んでくださいね」

 私の返事を聞くこともなく少女は走り去ってしまった。

 こんなささいなやりとりですら、今はとても穏やかに感じられる。王都にいた時の自分は、いかに余裕がなかったかを思い知らされたような気がした。



 翌日は少女の言葉どおり雨になった。

 療養所の図書室は1階の談話室の隣にあり、窓からは海が望める。今日は少し風もあるようで白波も見える。

 図書室の扉は開けっ放しで、隣接する談話室で過ごしている犬や猫の出入りも自由だ。今も私の膝の上にはここの一番古株だという黒猫が陣取っている。なぜか私はこの黒猫に好かれていて、談話室や図書室でこの状態が普通になっている。少女といい、この猫といい、黒い毛の持ち主に好かれやすいのだろうか?


 午後になって図書館にやってきた少女は、なんだか表情が暗かった。

「どうした?元気がないな」

 隣の椅子に座る少女。

「ん、学校でちょっとね」

 朗読は昨日の続きである建国の英雄と救い出した姫との恋の予定だったが、あえて変えることにした。

「悪いが、今日は昨日と同じところを読んでいいか?昨日とは少し読み方を変えてみたいんだ」

「うん、いいよ」

 少し不思議そうな顔の少女がうなずいたので、膝の上の黒猫を抱き上げて立ち上がり、今まで座っていた椅子に黒猫をそっと置く。

 そして少女の前に立ち、頭をなでてから建国の英雄が魔物を倒す詩の朗読を始めた。

 昨日は淡々と読んだけれど、今日は感情をこめて強弱をつけ、時には手振りもつけ、少し歩いたりもしてみた。


 読み終えると、思いがけずたくさんの拍手が上がった。

 本から目を離すと、いつのまにか入所者のほとんどが揃っていて看護師達まで拍手している。

「いやぁ、すばらしかった!」

「ぜひまた聴きたいわ」

 たくさんの人に見られているとは気付かず、恥ずかしさで顔が一気に熱くなったが、一番大きな拍手をしている少女の笑顔が視界に入ってきた。

「おじさん、ありがとう!英雄様に負けないように私もがんばるね!」

 元気になってくれてよかった。がんばったかいがあったというものだ。

 そして椅子の上の黒猫は、まったく興味がないのか完全に眠り込んでいた。


 その日の夜、看護師の女性が教えてくれた。

 少女は父親がいないことで学校でいじめられることがあるらしい。ここの所長も母親の事情を知った上で雇っているのだそうだ。

 その事情まで問うことはしなかったが、いつも元気で明るい少女が彼女自身ではどうしようもないものを抱えているということを知った。


 本の朗読会はその後も何度か開かれた。

 入所者から朗読して欲しい本のリクエストがあり、事前に熟読してから朗読したこともあった。リクエストしてくれた老婦人は、朗読の後で涙を流して私の手を握り、何度も「ありがとう」とつぶやいていた。きっとあの老婦人にとっては思い入れのある本だったのだろう。


 療養所で数ヶ月過ごすうちに入所者達とも少し親しくなった。

 ほとんどが私の両親よりも年上で、祖父母と同年代の人達もいる。時折話してくれる彼らの人生の出来事に思いをはせることもあった。少女とも本以外の話をすることが増えてきた。

 そんな日々を重ねていくうちに、少しずつ気持ちが浮上してきているのが自分でもわかった。仕事のアイデアも次々とわいてきて、忘れないように書き留めたメモもたまってきている。

 身体の方はとっくに回復していて、談話室の犬達と海岸を散歩したり、時には少女と一緒に犬達を洗ってやることもある。今なら王都にいた時よりもずっと健康だという自信がある。



 今日は療養所の所長との面談の日。

 所長は王都の大病院で院長を勤めていた人で、医師でもあるため入所者の健康管理も受け持っている。日頃の診察や治療は他の医師が受け持っているが、入所者全員が定期的に所長との面談を行うことになっているのだ。

 この機会にそろそろ王都に戻りたいと直訴しようと思っていたのだが、先に所長から少女について相談を受けてしまった。

「あの子、学校の成績はすごくいいんだけど、上の学校へ行く学費はないから働きたいって相談を受けているんだよね。でも、このあたりじゃたいした就職先はないし、あの親子のことをよく思っていない人もいるからねぇ」

 少女とは毎日のようにいろいろと話してはいたが、成績の話はしたことがなかった。学校の話はあまりしたがらないだろうと思っていたからだ。だが、話していると少女の思考力や記憶力に驚くことは多々あった。

「若い君なら最近の奨学金制度とか知らないかな?」

 しばらく考えてみる。

「奨学金の制度はいくつかありますが、それぞれ条件は異なります。制度によっては返済が必要だったり、卒業後は一定期間国のために働かなければならないなどの制約がありますね」

「なるほどねぇ」


「ただ、そういう面倒ごとを回避する手段を思いついたんですが」

「え、本当に?」

 所長が身を乗り出してくる。

「はい。私はそろそろ王都に戻って仕事を再開したいと考えています。1人暮らしでいろいろと無理をして身体を壊してしまったので、彼女を使用人として雇うというのはどうかな、と」

「は?」

 所長が驚いて目を丸くする。

「まず本人や母親との話し合いも必要でしょうが、彼女が望むなら学費も負担します。昼間は学校へ通ってもらって、それ以外で家のことをやってもらえたら、と」


「そうか。君がそう考えてくれたのなら、こちらも事情を説明しようか」

 しばらくの沈黙の後、所長は小さくため息をついた。

「あの子の母親は、死ぬためにこの海辺へやってきたんだ。それを思いとどまらせたのがこの私でね」

 所長の話によると、王都でメイドをしていた母親は勤め先の貴族の子息と恋仲になったが、子息の方に政略結婚の話が持ち上がった。子息の側からは立場上断れない相手だったので身をひいたが、すでに身ごもっていた、ということらしい。その貴族の家はいろいろあって没落し、今は王都の屋敷を引き払って遠方の領地に引きこもっているという。

「母親の方は私がちゃんと責任を持つから心配しなくていい。そしてあの子は生まれた時から見守っていたので子か孫のように思っていた。まだ若く将来のある身だ。どうかよろしく頼む」

 所長は深々と頭を下げてから、少し顔を上げてにらみながらこう言った。

「だが、合意なしに手は出すなよ」

「子供に手を出す気はないですよ」


 日を改めて所長が親子に話したそうで、母親は娘の意志に任せるとのことだった。

「君の事情は所長から聞いた。雇い入れる前に私の事情も話しておこうと思うが、いいかな?」

「はい」

 療養所内にある見舞い客との談話スペースを借りて少女と話すことにした。

「私が何でこの療養所へ来ることになったか知っているかな?」

「確か王都で働きすぎて身体を壊したと聞いてますが」

 小首をかしげる少女。

「うん、それも確かに原因の1つなんだけどね。まだ若い君に夢のない話はするべきではないのだろうが、実は結婚の約束をしていた女性に心変わりされてしまってね、その相手というのが私の長年の親友だったんだ」

 少女は無言のまま驚きで目を見開いた。

「これから長い付き合いになるからと紹介したのは私だったんだが、2人は出会った時から互いに惹かれていたそうだ。そして私が仕事で王都を離れているうちに深い仲になっていてね。王都に戻ってきたら2人に泣いて詫びられた。なんだかこっちが悪いことをしている気分になったよ」

「…ひどい」

「まぁ、人の気持ちは理屈じゃない部分も多いからね。2人のことは許したけれど、今後は出来る限り関わらないことにした。そして一連の出来事を頭から追い払うために仕事に没頭したら身体を壊したってわけ」

 少女は何も言わずに涙を流していた。

「ごめんな、こんな話を聞かせちゃって」

「いいえ、ヘンなタイミングで知るよりは最初から教えていただいてよかったと思ってます。私でよければ少しでもおじさんの力になりたいです。どうかおじさんのところで働かせてください!」

 私は少女に右手を差し出した。

「私が働き過ぎないよう、どうかよろしく頼む」

 少女も右手を差し出して握手を交わした。

「はい!」



 そして療養所を退所する日。

 朝のうちに理髪店へ行き、髪を整えて無精ひげもそり落とした。鏡の中には王都にいた頃と変わらぬ私の姿があった。

 理髪店から療養所に戻ってくると、すでに旅支度を終えて待っていた少女が叫んだ。

「え~?!おじさんがおじさんじゃなくなってる!」

「なんなんだ、それは。だいたい君は私を何歳だと思っていたんだ?」

「え、いや、お母さんより年上かな、と…」

 確か少女の母親は18歳で出産したと聞いている。

「言っておくが君とは12歳差だからな」

「うそ?!」

 しばらくひげを伸ばすのはやめようと思った。


 療養所の人達や少女の母親に見送られて馬車で出発し、途中で1泊して王都に到着した。

 商業エリアにある3階建ての最上階を借りて住んでいる。1階は文具店、2階は弁護士事務所となっている。

 久々の我が家は、知人に頼んで定期的に掃除してもらっていたので長期の不在でもきれいなままだ。

 まずはキッチンに近い空き部屋に案内する。

「君の部屋はここにしようと思う。とりあえず前の住人が残していったベッドや家具を使ってほしい。後で改めて買い換えよう」

「いいえ、どれも使えるもののようですし、買い換える必要なんてないですよ」

 家具をさわっていた少女が言った。

「そうか?まぁ、足りない物はいろいろあるだろうから、明日から揃えていこう」


 次の部屋へ案内する。

「ここは本を置くための部屋だ。仕事の資料がほとんどだが、読みたいものがあれば君も好きに読んでくれてかまわない」

 少女は部屋を見まわす。

「あの、床に同じ本の山がいくつもあるのはどうしてですか?」

「それは、その…私が書いた本なんだ」

「え?」

 なんとなく言い出しそびれていたことを、ここにきてようやく告白する。

「私は小説家なんだ。ペンネームを使っていて本名は公表していない。自分で言うのもなんだが、まぁそれなりに売れている方…だと思う」

「そうだったんですか。療養所で話していた時も物識りな人だなぁ~と思ってましたけど、それも納得ですね」

 少女が小さくうなずいた。


 家の中を一通り案内し、買ってきたパンやお惣菜で夕食をとる。

「私、料理もそれなりにできますので、明日は近くのお店を教えてくださいね、ご主人様」

「?!」

 少女の言葉に思わずむせる。

「た、頼むからご主人様はやめてもらえるかな」

「じゃあ旦那様にしましょうか?」

「すまないがそれも却下で。私は様をつけて呼ばれるような人間じゃない」

「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」

 議論の末にとりあえず先生ということになった。正直これも落ち着かないが、しかたあるまい。


 数日かけて少女の生活環境を整えて新しい生活が始まった。

 以前は昼夜逆転の生活だったが、療養所生活のおかげですっかり昼型になったので、そのまま昼間に仕事するようになった。夜型に戻してしまうと少女に負担をかけることにもなるからだ。

 そして少女は最難関と言われている王都の高等学院の入学試験に合格した。今日はささやかながらお祝いとしてレストランで夕食をとった。

「私も高等学院の卒業生なんだが、学院では多くの友人ができて、学業以外にも得たものはたくさんあった。君も学業と仕事の両立は大変だろうが、困ったことがあればいつでも相談して欲しい」

「はい、先生!」

 少女は笑顔でうなずいた。



 少女の入学式まであと数日というところで、我が家に招かれざる客がやってきた。

「先生、今日は来客の予定は何も聞いておりませんでしたが?」

「ああ、私も困惑しているよ」

 にらむ我々に、客である元親友は大柄な身体をちぢこまらせて詫びる。

「その、突然の訪問となってしまい、申し訳なかった」

「それで何をしにきたのかな?大事な奥方を放っておいてよいのか?」

「いや、その、彼女も一緒に来たがっていたんだが、今つわりがひどくて…」

 元親友は、さらにその身をちぢこまらせる。

「ほう、おめでたか。もう入籍したんだったか?」

「書類は提出したが、結婚式は出産後になると思う」

 おめでとうなどと言う気はさらさらない。

「そうか。では改めて問うが、何しにきたんだ?」


 元親友はソファーから立ち上がると、すぐさま床の上で土下座した。

「本当に申し訳なかった!お前が身体を壊して海辺の町へ療養に行ったと聞いて、謝りに行こうと思っていたんだが、周囲に止められた。だから戻ってきた今、こうして謝ろうと思って」

 我慢できずに元親友の言葉をさえぎる。

「まったく、止めてくれた周囲とやらに感謝だな。来られたら余計に具合が悪くなっていたことだろう。だいたい、さんざん謝られて私は謝罪を受け入れると言ったはずだ。それなのに、なぜまた謝りに来るのか私には理解しがたいね」

 本当は知っている。

 彼らは私を裏切ったことを周囲から責められ続けているのだ。

「その、お前が身体を壊した原因が俺達だと思って」


「先生!この人、追い出しちゃっていいですか?」

 少女が口を挟んできた。

「この人、謝ることで自分が楽になりたいだけじゃないですか!こんな人のために先生の時間を使う必要なんてありません!」

 私は立ち上がって少女の肩にポンと手を置いた。

「まったくもってその通りだな。出産も結婚式も知らせは一切不要だ。こちらから何もする気はないからな。さて、そろそろお引き取り願おうか」

 のろのろと立ち上がった元親友は、最後にこう言い残して帰っていった。

「いくら謝っても許されることじゃないのはわかってる。だけど本当に申し訳なかった」


「余計な口出しをしてしまい、大変申し訳ありませんでした!」

 元親友が帰った後、ガバッと頭を下げる少女。

「そうだな、本来ならやっていいことじゃないが、言いたいことを言ってくれたので今回は問題ないさ」

 ゆっくりと上げた少女の頭をなでた。

「あの、先生。私、とっておきの復讐方法を知ってますよ」

 少女から発せられた復讐などという不穏な言葉にとまどう。

「なんだ?それは」

 小柄な少女は私を見上げてニコッと笑った。


「先生があの人達より幸せになることです。あの人達は勝手にゴールしてしまったけど、先生はこれから再スタートできるじゃないですか。私にはまだよくわからないけど、きっと幸せの形もいろいろあると思うんです。だからどんな形であれ幸せになっちゃった方が勝ちですよ!」

 少女の言葉がストンと胸に落ちてきた。

 そうだな、もう過去にとらわれる必要なんてないんだ。

 ごそごそとポケットを探っていた少女はハンカチを差し出した。

「先生、ここには私しかいないですから、好きなだけ泣いていいですよ。泣くだけ泣いたら前に進みましょう、ね?」

 私は気付かぬうちに涙を流していたらしい。思えば親友と恋人の裏切りのことで泣くのはこれが初めてだった。なんだか泣いたら負けのような気がして、今までずっと我慢していたのだ。

 受け取ったハンカチだけでは足りなかったので、少女を抱きしめて泣き続けた。

 いい年をした大人がなさけないとも思ったが、年下の少女は私が泣き止むまでずっと黙って私の背中をさすってくれた。



 少女は高等学院に入学し、新しい友人もたくさんできたようだ。高等学院は身分は一切関係なく実力重視なので、合格してからも決して楽な道ではないが、日々がんばっているようだ。

 家事をしっかりこなしつつ、放課後や休日には友人達と出かけ、空き時間にはよく本を読む。

 私の仕事も順調で、担当編集者が言うには以前は若いファンが多かったが、最近では上の年齢層にも広がっているらしい。療養所での生活は、私の生活習慣だけでなく心の持ちようも変えていたのかもしれない。


 新しい生活がすっかり日常となった頃、海辺の療養所から2通の手紙が届いた。

 1通は所長から私宛て、もう1通は少女の母親から娘宛て。

 夕食後のくつろぎの時間に2人して封書を開く。

「…先生、私に新しいお父さんができたみたいです」

「そのようだな。こちらの手紙にも書いてある」

 所長と少女の母親が結婚したのだ。

「帰ったらお父さんってうまく言えるかなぁ?あ、そうだ。夏季休暇には何かお祝いを持って帰った方がいいですよね?」

「そうだな。何か揃いで使えるものがいいだろう。今度の休みにでも見に行くか」

 私は結婚祝いの品を楽しみながら選べている自分自身に驚いた。

 そして少女の夏季休暇はともに海辺の町へ行き、少女の家族に混ぜてもらって心温まる時間を過ごした。



 少女が高等学院の最高学年になってしばらく経った頃。

 午後、担当編集者が我が家を訪ねてきた。いつも私が出版社に出向いて打ち合わせをするので、こういうことはかなりめずらしい。

「まずはこれに目を通していただけませんか」

 手書きの原稿を手渡される。作者は見知らぬ男性名だ。

 架空の戦記物だが、読んでいくうちに惹き込まれてしまっていた。争う双方に譲れぬ正義があり、どちらにも肩入れしたくなる。

「これはすごいな」

「でしょう!編集部一同、大絶賛なんですよ!」

「だが、なぜこれを私に?」


「先生、ただいま戻りました!…あ、お客様でしたか。お騒がせして申し訳ありません!」

 学院から帰ってきた少女が謝る。

「彼女が前に言ってた使用人ですか?」

「ああ、そうだが」

「ちょうどよかった。貴女にもお話を伺いたかったんです」


 お茶を出し終えた少女を私の隣に座らせる。

「これ、貴女ですよね?」

 差し出された原稿に、あからさまにうろたえる少女。

「投稿者の連絡先はこの家の住所でしたが、私が見慣れている先生の文字じゃないし、作風も違いすぎる。さて、説明していただきましょうか?」

 少女はおとなしくすべてを白状した。

「それ、学院の文芸部で連載していたものを大幅に手を加えてまとめ直したんです」

 ああ、そうか。

 この原稿用紙に見覚えがあると思ったら、高等学院内の売店でしか販売していないものだ。

 かくいう私も文芸部に所属していて、現在の作品の原型となるものをいくつか部誌に載せていた。


「部員のみんなにおだてられて『出版社に送ってみたら?』って言われて、つい勢いで送っちゃったんです。住所を知ってる出版社って先生が本を出してるところだけだったし…」

 だんだん声が小さくなる少女。

 編集者がニッコリ笑う。

「そうでしたか。それは我々にとって大きな幸運でしたね。さて、隣に大先輩もいることですし、本格的に打ち合わせをしましょうか」



 長い打ち合わせの末、少女が書いた小説は出版されることが決まった。

 学院の文芸部では、誰がどのペンネームを使っているか部員以外には一切明かさないという伝統がある。かつて王族の1人が少々問題のある内容を書いていたからだといわれている。だから、この男性名のペンネームの正体が少女であることを知る者は限られているだろう。ちなみに私も学院時代のペンネームをいまだに使用している。


 編集者が笑顔で足取りも軽く帰っていった後、慣れない話に疲れてぐったりしている少女に声をかける。

「なぜ小説を書いていることを黙っていた?」

「そんなの、恥ずかしくて本職である先生に言えるわけないじゃないですかっ!」

 まぁ、それもそうか。

「どうしてペンネームを男性名にしたんだ?」

「内容からして男性にしといた方がいいかなと思いまして」

「確かにそうだな。だが、君がああいう重いテーマで描くのは少し予想外だったな」

 でも、思い返せば歴史に関する本を特によく読んでいたような気がする。

「ほら、先生が療養所で建国の英雄をたたえる詩を朗読してくれたでしょう?あれから歴史にハマッちゃったんですよね」

 あの詩がきっかけだったのか。

「いろんな本を読んで、想像を膨らませて、そのうちに自分だったらどんな物語を読んでみたいか考えるようになったんです」

 まぁ、私も似たようなものだがな。

「困ったことがあればいつでも相談するといい。ジャンルも作風も異なるから内容にはあまり関われないだろうが、編集者や出版社とのやりとりなら場数を踏んでいるからな」

 ニヤッと笑って握りこぶしを突き出すと、少女も笑顔でこぶしをコツンとぶつけてきた。



 少女は高等学院を卒業してから下の階の弁護士事務所でアルバイトとして来客応対や事務作業をしつつ、我が家の家事もこなしている。

 学院での成績は優秀だったので、王宮や大手の商会など就職先はいくらでもあっただろうに、執筆時間を確保することを選んだらしい。最初の本はそれなりにヒットし、すぐに続編も出版された。別の歴史ものも人気を博し、気がつけば立派な同業者になっていた。



 そして彼女はもう少女とは呼べない年齢になっていた。

 本当は親友と恋人の裏切りのことで泣いてしまった時から、彼女は私の中で特別な存在になっていたのだと思う。

 だが、まだ若い彼女にはたくさんの可能性があり、出会いの機会などいくらでもある。彼女が本当に心から愛し合える男性に出会えたのなら、笑顔で送り出すつもりだった。


 我が家に時々遊びに来ていた学院時代の後輩が、彼女を自分の弟に引き合わせたいと言い出した。

「君より3つ年上だそうだ。王宮の文官で真面目な奴だが今まで女性と縁がなかったらしく、周囲が心配しているらしい。君にその気があるなら話を進めるが」

 そこまで話したところで言葉が止まった。

 彼女が涙を流していたのだ。

「先生、そんなに私が邪魔ですか?出て行ってほしいんですか?」

 彼女が私の前で泣くのは初めてで、どうしていいかわからなくなってしまう。

「そんなことはない!君がいるからこそ、私はここまでやってこれたんだ。だけど君はまだ若い。こんなおじさんの世話をいつまでもしなくたって」

「先生が私の初恋だったんです!ずっと一緒にいられるならこのままの関係でもいいと思ってたけど、先生以外の人なんて私には選べません!」

 抱きついてきた彼女を受け止める。

「本当に、こんなおじさんでもいいのか?」

「おじさんでもなんでも、先生がいいんです!先生じゃなきゃイヤなんです!」

 泣き続ける彼女を強く抱きしめる。

「私にとっても君は代わりのいない大切な存在だ。これからもずっと一緒にいてくれるか?」

「もちろんです!」

 私達は初めての口づけを交わした。



「今だから白状しますけど、療養所で働く人達は不必要に入所者に話しかけてはいけないという暗黙のルールがあったんです」

 ようやく泣き止んだ彼女は、私が差し出したホットミルクを飲みながらぽつりぽつりと話し出す。

「もちろん声をかけられれば話し相手にはなりますし、何か話したそうにしていたら察してこちらから声をかけることもありますけど。だけど先生にはそのルールを破って私から声をかけたんです。覚えてますか?」

 そう、療養所で最初にまだ幼かった彼女から声をかけられた。それまで子供と接する機会がなかったので、とまどったことをよく覚えている。

「もちろん覚えてるよ。だが、どうして?」

「療養所に来たばかりの頃の先生は、なんだかすぐにでも消えてしまいそうだったから」

 あの頃の私は親友と恋人の裏切りで人間不信に陥り、生きる気力も欠けていたと思う。彼女がそう感じたのもわからなくはない。


「あの療養所は、いろんな人が来ては去っていきました。ほとんどは無言の帰宅でしたけどね」

 今まで考えもしなかったが、彼女は幼い頃からあの療養所でたくさんの死や別れを見つめてきたのだろう。そしてそれが彼女の作品の根底にあるのかもしれない。

「でも、先生は先がある人だから、少しでも前を向いて欲しかった。お医者さんが声を出したり話したりするのがいいって言ってたのを聞いてたから、私から話しかけたり本の朗読をせがんだりしたんです」

 そうだったのか。

 あの頃の私は小さな主治医がいたおかげで早く立ち直れたのかもしれない。

「本を読んでくれる先生の声が好きでした。頭をなでてくれる温かくて大きな手が好きでした。もちろん今も大好きですよ」

 泣き止んで私に向けた彼女の笑顔はとても愛おしかった。



 彼女が使用人から人生のパートナーとなり、書類の上でも正式にパートナーとなった頃。

 下の階の弁護士事務所がもっと広いところへ移ることになったので、その後を私が借りることにした。そろそろ仕事の資料が収まりきらなくなってきたからだ。

 3階建ての最上階は今までどおり住居とし、新たに借りた2階を仕事用とした。もちろん彼女専用の仕事部屋もある。


「なぁ」

 3階建ての最上階で朝食のパンをかじりながら彼女に話しかける。

「何ですか?」

「もし私が昔のようにひげを生やしたいって言ったら君はどう思う?」

「止めはしませんよ。似合うかどうかは別問題ですが。でも、キスする時に邪魔になったり痛かったりするようならやめてほしいかも」

 そして彼女は珈琲を一口飲んでから言った。

「ああ、それから昔のように『おじさん』ってうっかり呼ぶかもしれませんね」

 私はひげを断念した。

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