第7話 線の先


 夕暮れの空の下、野田先輩は交差点の片隅で一人佇んでいた。


 一枚の絵画のように凛としていて、交差点を見つめているその姿は、黄昏時に紛れて姿が見えなくなりそうな錯覚を引きおこす。俺が連絡をして、この場所を指定したのは彼女だ。東山達也の名前を出した時野田先輩はここを指定した。


「……野田先輩は浩志が死ぬ前から花を供えていたんですね。この場所で昔亡くなった人の為に」


 俺は勝手に野田先輩と浩志は仲が良いと思っていたが、事情を知れば見方も変わる。


 野田先輩はずっと一人の為に花を捧げていた。


 現に彼女は、俺の言葉にうっすらと笑みを浮かべている。いつもの野田先輩なら浩志の事にも触れていた。俺の知っている優しい先輩なら。


「岸野君、私はあの人を一度だって忘れたことなかったわ」


  優しい声で野田先輩は言う。


「小さな頃から一緒に居て、達也はその時からずっと私の事を好きでいてくれた。照れくさくて私がその想いに答えたのは中学生の時。事故に遭う数か月前だった。……私は全然達也に言葉を返せてなかったのに」

「だからあのキキョウの花なんですか?」

「岸野君そんな事まで知ってるの。……ええ、言葉で伝えられなかった代わりに。キキョウの花言葉は『永遠の愛』だから」


 彼女は今まで見た中で、一番美しく俺に微笑む。野田先輩の瞳には最初から東山達也しか映っていなかった。彼が死んでもなお。


「それで、達也の名前を持ち出してまで岸野君は何が聞きたいの?」

「……野田先輩は浩志が死んだ日、この交差点で会いましたか?」

「会ったわよ」


 否定されると思ったが、すんなりと野田先輩は頷く。


「私が呼び出して、彼に訊ねたいことがあったから」

「それは……境界線という小説に関係があることですか?」

「ええ。あの小説が本当のことだって斎藤君は認めた」


 一瞬驚きで息がとまる。いつの間にか陽も落ち人通りの少なくなった交差点で、野田先輩と目が合った。


「岸野君に小説を見せてもらった時、私には心当りがあった。死んだ彼と仲が良かった人物、その人物は私だった。昔達也と仲良くしていた斎藤君。何も知らない私は、大学で久しぶりにあった斎藤君と達也の昔話を一緒にしたの」


 夜風だけではない、話を聞いていくうちに急激に体温が下がっていくのを感じる。


「私あの時あなたに会えて本当に良かったと思ってる。言ったでしょ『今日あなたに会えてよかったわ岸野君』って。いつもならあの時部室に行こうと思わなかったのに、たまたま行った部室では偶然あの小説を見ていた岸野君がいたんだから」


 偶然が成した結果だとしても、その結果には恐ろしささえ感じる。そして先程から優しい笑みを浮かべている野田先輩にも。


「……野田先輩は真実を知ってどうしたんですか?」

「……私が斎藤君を殺したと思ってるの?」


 何も返さない俺に、野田先輩は小さく笑う。


「私が全てを知った時、斎藤君は自分がやったことを悔いていた。だから私は何も言わずに去ったの、謝罪も後悔も私に向けられたってそう簡単に許せるものでないから」


 そして視線は流れるように手元の腕時計を見る。もう話は終わりという意味だろう。


「岸野君。あなたがこの先悔やむ必要なんて何もないの。斎藤君は後悔していた、自分では抱えきれない罪から小説を書いたんでしょう。だったら遅かれ早かれ、ばれたはずよ」


 野田先輩はそう言って去って行こうとする。彼女の言ったことが真実かどうか真偽は分からない。でもこれだけは言える。


「俺がこの先あの小説を見せて悔やむとしたら、野田先輩が東山さんの悲しむ事をした時です」


 すでに背中を見せていた野田先輩は、進みながら小さく手を振る。

 表情の見えなかった野田先輩は小さく「ありがとう」と呟いた。





  岸野君と別れた後、私は達也とよく居た公園のベンチにいた。そういえば、岸野君の妹は昔の私によく似ていた。恋心を十分に伝えられずに彷徨い、自分がよく分からなくなったあの時。小さく息を吐く。


 彼には一つだけ嘘をついた。


 最後に私は何も言わずに去った、といったが実際には去っていない。あんな謝罪を言われたって、達也は帰ってこない。


 だから私はあいつの頬を力いっぱい叩こうとしたのだ。咄嗟に避けようとした彼は、道路に足を踏み出し、その横では大型トラックが目前に迫っていた。


 あの時私は自分がどうしたのか思い出せない。


 ただ結果として、達也を殺したあいつは死んだ。最後の最後にあいつが受け入れるように笑っていたのは気のせいだったのだろか。


 自分の両手を眺め、そっと目を閉じる。


 超えてはいけない境界線を私は―――


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境界線 詩音 @sion3097

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