魔物の墓場

星川蓮

魔物の墓場

魔物の墓場


 淡い色の結界に遠くの日の光が差し込んでいる。水面のように境界は揺れ、その度に丸いはずの太陽が潰れ、伸び、分裂した。

 灰色の土、枯れた木々。淀んだ空気が詰め込まれた地に、身の丈程もある杖を構えたローブ姿の者が十名ほど。誰も身じろぎせず、桃色、水色、黄色と表情を変える天井を見上げている。今か今かと身構えていれば、誰だって息をつくことさえ忘れてしまうのは当然だ。

 魔物の墓場。人はここをそう呼ぶ。

 一体ここが世界のどの辺りに位置しているのか。誰も行かない迷いの森の湖の底にあるのかもしれないし、空に浮かぶ孤島にあるのかもしれない。わかるのは我々を除けば誰一人迷い込んでくることはないことと、枯れた地を覆い尽くす結界からは誰も出られないということ。結界の向こうに暖かい太陽が昇っては沈み、同じ日の繰り返しのような世界に時刻の経過を知らせる。我々は捕らわれた魚のように、揺れる太陽を見上げていることしか出来ない。

 そうして今日もまた、あの悪夢が起こるのだ。盛り上がった岩肌に腰掛けながら絶望感が途方もなく広がっていくのを感じた。

「来る、あっちだ」

 結界の近くにいた見張りが声を上げた。指差した方向に黒い小さな影が揺らめいていた。

「全員位置につけ。すぐに囲い込むぞ」

 指揮官の指示に皆はじかれたように走り出し、六人が円陣を組む。残った者はその外に控えた。見張りの二人は結界ギリギリまで上昇し、外の様子を伺っている。魔法の効果だろうか、二人の青いローブの裾はひとりでに翻り、音を立てながら暴れていた。

「ソウルウルフ一匹。体長は三メートルはゆうに超えている。気をつけろ」

「二人はエレキで動きを封じ込め。落ちた所をレイで捉え浄化する。全員構え」

全員で結界を見上げ、大きくなる影に警戒する。円陣を組んだ六人は互いに隣の人と手を合わせ、意識を前に集中した。結界近くの二人は両手を上げ、瞬きもせずお互いの目を見つめている。影が結界目前に迫る。点にしか見えなかったシルエットはまさにオオカミの形になり、枯れた世界に不吉な影を落とした。

 大きな体が結界に当たり、灰色の地へと滑り込んでくる。結界は石を投げ入れられた池のように大きなしぶきを上げ、上下に激しく波打った。波紋が広がりきる前に見張りの二人が同時に両手を下ろす。向かいになった手の間から薄紫色の光が弾け、そこに黒い巨体がちょうど落ちた。幾本にも枝分かれ、全身を取り巻く光にソウルウルフは悲鳴を上げ、腹の底を震わせる低い声が全ての音を奪っていった。

「放て」

 雄叫びに負けじと、指揮官も声を張り上げる。雷の網に痙攣を起こしている体が六人の中心に落ちる。六人が同時に杖を振った。掲げた杖からは白い光が降り注ぎ、三メートルの巨体を呑み込んだ。更に激しい雄叫びが地面を震わせ、その振動が私の所まで伝わってきた。

 ソウルウルフ、噛まれた者は硬い鱗で覆われたドラゴンでさえ魂を奪われるという。まるで魂を喰らうかのような威力がこの名前に由来していると聞いた。闇に生まれ、命を脅かす獣を人々は恐れ、ここへ連れてくるのだろう。闇に住まう生き物はあの光を十秒も受ければ死ぬ。それまで耐えなければならない。

 光の中から黒い影が飛び出し、六人を飛び越えた先に着地した。やはりエレキの効果も、これほどの巨体となれば破られて仕方がない。光で大分体力を削ったはずだが、それでもまだ充分動けるらしい。一メートルはある太いしっぽを低い所で振り、黄色い牙を剥き出しにした。

「きゃっ」

 禍々しい赤い光を宿した目が一人の少女を捕らえる。ソウルウルフは背を低くしたかと思うと、筋肉質な後ろ足で地を蹴り少女に飛びかかった。少女の杖から黄色い光が放たれたが、黒い体毛に阻まれ砕け散った。巨大な牙が二本少女の胸に食い込み、少女は甲高い声を上げた。小さな体は玩具のように高く放り投げられ、遠くの地面に叩きつけられた。その一瞬、ソウルウルフが足を止めたのを確認すると、円陣を組んでいたうち四人がすかさず杖をかかげて白い光を浴びせた。ウルフは唸り声を上げて抵抗したが、今度は体力を完全に奪われてその場に倒れた。四人が杖を下ろすと、私は岩から下りてオオカミの元へ歩み出た。四人は私が目配せすると黙って立ち去った。巨大なオオカミは口を半分開けたままだらしなく舌を斜めに垂らし、そこからよだれが地面に滴っていた。クルミ大の目は固く閉じられ、耳は重力に従って寝ている。呼吸はしていない。生命力を焼ききったのだから不思議はない。

 私の出番はここからだった。

 杖を振り、息絶えた体に青い火を灯した。火は立派な毛皮を焦がし、目に見えないチリになるまで焼き尽くした。しっぽが消え、後ろ足が、前足がなくなり、胴体が、首が、最後に頭が耳の先まで粉々になった。青い火が消えた時、タンパク質の焦げる嫌な臭いと一握りの灰だけがその場に残った。

 せめて魂だけは、太陽のご加護に与らんことを。

 臭いが薄れていくのを感じながら、祈る。

 少し離れた所で少年がわめいていた。少年の腕に先程ソウルウルフに噛まれた少女が抱かれていた。少女の名を呼び、嫌だ嫌だと騒いでいる。私は少年の前に立った。

「その子は死んだ。もう用済みだ」

「うるさい。黙ってろ」

「ソウルウルフに噛まれて助かる者はいない。その子に弔いの儀を行う。放せ」

「なんで助けてくれなかったんだよ? あんたのいるところだったらとどめを刺せただろう」

「魔物を死に追い詰めるのは私の役目ではない」

 生きる者には力を、死にゆく者には安らぎを。それがここの神官の務め。

 向こうで敵襲の声が上がる。先程とは別の形の影が結界のすぐ近くまで迫っているのが見えた。少年の襟首を掴み立ち上がらせる。腕から少女がずり落ち、地面に崩れた。

「怪我をしていないなら私に用は無いはずだ。さっさと戻れ」

「殺してくれよ。あの子が死んだんじゃ、もう生きている意味なんてない」

「戻れ」

「あんたの弔いの火で俺を焼いてくれ」

「まだ生きられる者に死ぬ資格などない」

「こんな所で生きてて何の意味がある?」

「意味がなくとも死は認められない。お喋りしている暇は無い、さっさと行け」

少年は何かもの言いたげな目で私を見てきたが、魔物の唸り声が聞こえると向こうへ走り去った。

 少女を見下ろす。細い手足が不自然な方向に曲がっているのを覗けばまるで眠っているかのような表情だ。とはいえ穏やかさはなく、悪夢にうなされているような苦しみの色が刻まれていた。青い火を投げる前に、動かなくなった少女の顔をもう一度見る。じっくり見て初めて気づいた。

 この子は彼女に似ている。


  ◆


 明るい世界で生きることを許された者から恐れられ、傷つけられ、やがて死の地へ追いやられる存在。生まれてきたことが罪、それが魔物の正体。誰にも見取られることなく、死んだことさえ気づいてもらえない。それは魔獣やゴーストに限った話ではなかった。人の姿をしていても、同様に扱いを受ける者はいる。

 見えない力に掴まれこの地に落とされた時、私の銀色の髪はまだ短く、誰がどう見ても極一般的な少年だった。どうしてここに連れてこられたのか、最初は意味もわからなかった。

 全ての力を秘め、永久に近い命を持つ者。ミークという種族。力のある子孫の誕生に人々は沸き立つ。しかし、裏を返せば力はただの脅威としかならない。それがここに連れてこられた理由。

 力に対する人々の恐れが、私を魔物にした。

 毎日戦いが繰り広げられ、魔物が死んでいく。襲いかかる魔獣やゴーストを死に追いやるのは自分が死なないようにするため。醜い戦いを繰り返すために生きるのが魔物の本当の意味だろう。戦いの後の魔物の屍は、必ず神官の放つ青い弔いの火に呑み込まれた。神官が祈りを捧げる前で魔物の肉体は青い火により無に帰す。魔獣でもゴーストでも人でも。一握りの灰になり、肉体から魂が解き放たれる様は恐ろしくもあり、麻薬のような誘惑を生むものでもあった。甘い香りにパン屋に誘われる子供のように、私は暇があるとその火を見に行った。いつか自分もチリになる。チリになるために今を生きる。決められた未来へ失望し、やるせなさに苛まれながら。


 ある時、一人の少女がこの地に落とされた。結界を抜けてきた少女から服は脱がされ、乱れた長い金髪が肩から流れていた。我々は円陣を組んだまま、少女が恐怖に満ちた目で見つめ返してくるのを眺めていた。彼女はこみ上げてくる涙を必死で堪えながら、体を隠そうと自らの細い腕を抱いた。神官が歩み寄り、きちんとたたまれた青いローブを差し出すと、彼女は夢中になってそれを羽織った。

 また被害者が一人。神官に頭を下げる彼女を眺めながら、ぼんやりとそう思ったのを覚えている。

 けれども、彼女は違っていた。一思いに泣いてから彼女は微笑んだのだ。その時だけでなかった。誰もが喜びを忘れる世界でただ一人、笑顔を絶やさなかった。仲間が倒れると、それが例え顔を知っているだけの相手でも、彼女は涙を流した。戦いの度に励まし、生き残れたことに毎日感謝していた。

 ある時、私は彼女に尋ねた。どうしてそんな風に感情を露にするのかと。すると彼女は笑って答えた。

「しかめっ面してるより、笑ったり泣いたりしてる方が、楽しいでしょ」

それから彼女は私の頬を摘むと、斜め上に引っ張り上げた。

「ほら、こうしてた方が絶対良いって」

私は反射的に色白の華奢な手を振り払った。

「魔物の墓場、死ぬまでここに閉じ込められるのが我々の運命だ。死しか待たない未来に笑う意味があるとは思えない」

「そうかなぁ。あたしはこういう運命もありだと思うよ。魔物って言われなかったら、あたしたち会えてないでしょ」

「ここで会ったところで、何が出来る?」

「知らない。でも、何か出来るよ。そうだ、ここに来る前の町のお話、聞かせてよ。あたし、ずっとこもって暮らしてたから、外のことなんにも知らないの」

その時は確か彼女の提案を断った。故郷のことは覚えていないわけでもない。しかし、枯れた世界で淀んだ時を過ごすうちに、思い出は色褪せ存在感をなくしていた。上手く思い出せない。いや、思い出したくなかった。

 彼女は戦いの合間、私に声をかけてきた。彼女はいつも嬉しそうに何かを語った。それは故郷の話であったり、好きな物の話であったりした。灰色の地に染まらない彼女の心はいつまでも鮮やかで、その輝きが鳶色の目に現れていた。彼女の明るい言葉はあまりに眩しく、暗闇に閉ざされた心にとっては凶器にしかならなかった。何度も彼女を置いて逃げ出したことがある。離れなければいつか、私の魔物の力が目の前の物を壊してしまう気がしたのだ。たとえそれが、運命の悪戯で迷い込んできた穢れなき少女だとしても。

 いくら離れても彼女は親鳥を追いかける雛のように私につきまとった。温かい手を私の手に重ね、屈託のない笑顔で見上げてきた。小さい頃の話をし、好きな歌を歌った。私は聞こうなんて思わなかった。けれどもわざわざ耳を塞ぎでもしない限り、全て耳の中に入り込んできた。

 それが何ヶ月と続くと、彼女の声が聞こえる方が当たり前になった。明るい言葉が神経を逆撫ですることにいつの間にか慣れていた。彼女が戦いに手こずっていると、なかなか声が聞けないことに苛立ちを感じるようになった。気かつくと私は彼女の姿を捜すようになり、彼女を睨みつける黒い魔物を見つけると出せる魔力を込めて閃光を放っていた。始めて彼女の代わりに魔物を殺めた時、我ながら酷く驚いた。彼女も目を丸くしていたが、私と目が合うとくすぐったそうに笑い私の手を捕まえにやってきた。

 あらゆる魔物の相手をしてきた私だったが、彼女が使った魔法の正体はなんなのかわからなかった。苛立ちが本当の意味での喜びに変わるまで、あまり長い月日を要さなかった。彼女と話していると胸の中が温かくなり、春の温もりに固い蕾を広げる花々の如く、過去の記憶には色が戻っていった。何百年、千年経っていたかもしれない、気の遠くなるほど長い月日の間に忘れていたものを、彼女は私に教えてくれた。根気よく、時間をかけて、私の心を沈めていた鎖を一本一本解いてくれた。

「魔物だっていいじゃない。心があれば、嬉しいとか楽しいとか感じていいんだよ」

じきに彼女の言葉一つ一つが宝物のように思えてきて、私の中でかけがえのないものとなっていった。取るに足らないと思われた言葉も、彼女が言えば特別なもののように思えた。

「笑うの、上手になったね」

ずっと変わらない笑顔はどうしようもなく愛しく、失うのが怖くなるほどだった。この笑顔を守れるなら、生きるのも悪くない。いつしかそう思うようになっていた。

 あの日が来るまでは。


 恐れていた悪夢が、とうとう現実になってしまった。

 目の前が真っ暗になる思いだった。見えない衝撃が全身を駆け抜け、呼吸のリズムがわからなくなる。思うように息が吸えなくなりながら私はただ目の前の現実に見とれていた。

 ローブを切り裂く三本の傷。そこから温かいものが滲みだし、純白な手を赤く染めている。彼女の中を巡り続けてきた温かいものが、周囲に熱を放出しながら水のように冷たくなり、灰色の地に染み込んでいくのが見えた。赤黒い土が面積を広げるにつれ、むせ返るような臭いが強烈になる。

 私の手から杖が落ち、乾いた音を立てて転がった。フラフラと歩みよると、彼女の横で膝から力が抜け、それきり立てなくなってしまった。

 彼女はしわのよらない眉間を両方の眉で縮めながら、肩を震わせ、辛そうに喘いでいた。目を閉じていると金色の睫毛が並外れて長いことがよくわかる。色白の肌に映える朱色の唇からは血の気が引き、今はほんのり桃色に染まっているだけだ。

 一声、名前を呼ぶ。彼女は目を開けた。鳶色の目が瞬間宙をさまよってから私を捉え、そこに安堵の光が宿る。彼女はやはり彼女だった。喘ぎながら必死で笑顔を取り繕い、真っ白な前歯を私に見せてきた。

「油断しちゃった……バカだね」

絞り出した声はいつもの半分くらいの大きさで、喘ぐ息の中で辛うじて彼女の声として私の耳に届いた。

「あたし、死ぬのかな?」

答えることなど出来なかった。その言葉を口にしようと思った途端、どういうわけか喉が詰まってしまい声を出せなくなった。赤くなった手を握ろうと思っても、細い指はあまりにか弱く折れてしまいそうで触れることさえ出来なかった。

 すぐ後ろで魔物の悲鳴が上がり、赤黒い滴が彼女の白い頬に貼りついた。血液を指で拭ってやったが、赤い筋が伸びるだけだった。

「今助けるから。死なないでくれ」

杖はどこかと体を探り、先程向こうで落としたことを思い出す。来た方向を見ると、予想通りひょろ長い木が一本転がっていた。四つん這いになりながらそこまで到達すると、杖が浮き上がり神官の手の下で上下に揺れた。

「返してください」

「彼女はもう助からない。魔力を無駄に使うな」

「返してください。お願いです」

「次の敵襲の合図があった時でも遅くはなかろう」

神官は自分の杖を振り青い火を飛ばした。彼女に燃え移っては大変だと身を投げ出すと、火は私の背中に当たり音もなく消えた。

「邪魔は許さない。離れろ」

「嫌です」

「彼女は死ぬ」

「嫌です。そんなの耐えられません」

 細い腕が脇の下から伸びてきて、私の背中を撫でた。彼女は微笑んでいた。悲しそうに、辛そうに。

 ねぇ、抱いて。

 唇がそう動いたとわかった時、今まで抑えられていた激しい衝動が燃え盛った。神官の目も気にせず、傷ついた体が細すぎて折れてしまうのではないかと思っていたことも忘れ、私は彼女を抱いた。

 もっと強く。

 望み通り、腕に更に力を入れる。彼女の鼓動が胸の真ん中あたりから伝わってくる。肩が小刻みに揺れ、呼吸が速いのがわかった。こんなにも怖がっていたのか。そう思うと尚更強く抱き締めたくなった。震えが止まって欲しい。ただそれだけを願った。

 妙な音がして彼女の足元を見た。ブーツを履いた足に青白い火が灯り、ゆっくりと膝の方へと上がっていくのがわかった。慌てて火を消そうと思ったが、どんなにはたいても火は消えず、送られた空気を取り込んで火は大きくなるばかりだった。火が通り過ぎると彼女の足首から下がすっかり消えてしまっていた。

「どうしたの?」

 彼女は心配そうに私を上目遣いで見ていた。当人に痛みはないらしい。或いは、魔物にやられた傷の痛みで感覚が麻痺してしまったか。呆然としている間に、青い火は彼女の膝をまさに呑み込もうとしているところだった。焦燥感に駆られ、もう一度彼女の体を自分の胸に引き寄せた。例えこの華奢な体が折れてしまっても、命を引き留めることが出来るのなら力の限り抱いていたかった。苦しいよ、と彼女の囁きが聞こえても、どうしても腕の力を緩めることが出来なかった。

「皆が死んでいくのを見るの、辛かったね」

囁く声は更に弱くなる。

「ここに来てから戦ってばかりだった。死んじゃった人のために泣いてる暇もなかなったね」

でもね、温かい息が私の耳に吹きかかる。

「あたしはあなたに会えて本当に良かった。やっぱり、運命はいつでも素敵なことに繋がってるんだね」

火は彼女のへその辺りまで到達していた。さすがに彼女も感づいたらしく、一瞬とても悲しそうに目を伏せた。けれどもすぐにいつもの笑顔を見せた。

「目を閉じて」

「それは……」

「いいから早く」

 言われた通りにするにはかなりの勇気が必要だった。目を開ければ彼女は消えているかもしれない、確信めいた予感が不安に駆り立てる。それでも、彼女の言う通りにしなければいけないとわかった。

 これがきっと、彼女の最後の望みになるのだから。

 鳶色の目が私を見つめている。血の気が引いた頬は白さを増し、透き通るようだった。丸っこい鼻、小さめの唇、金色の眉と睫毛。全てを目に焼きつけてから冷えた瞼を下ろした。

「いいって言うまで、開けちゃ駄目だからね」

囁きの後、唇に妙な感覚があった。柔らかくて、濡れたものが触れている。湿った吐息が鼻の下に吹きかかるまでそれがなんなのかわからなかった。しかし、わかると驚きのあまり全身の筋肉が強張り、にっちもさっちも動かなくなった。思わず目を開けたくなっても、出来なかったのはそのせいかもしれない。腕に納まっていた体が燃え尽きるのがわかり、すぐさま手探りで彼女の後頭部に手の位置を変える。瞼の向こうが白く明るくなるのを感じ、更に目を強く閉じた。手の中の物がローブの中でチリに変っていく。物の焼ける嫌な臭いが鼻をつく。それでも唇の感覚は変わらなかった。いよいよ消えてしまうと思った時、それは離れた。大きく深呼吸をしてから、囁きかけた。

「ちゃんと生きるんだよ」

それから一つ間を空けて、もういいよと呟いた。

 恐る恐る目を開く。すると私の手の中で青白い火がちょうど燃え尽き、一抹の灰が残った。彼女の残り香のする青いローブは包んでいた体を失い、ただの布切れと化していた。今まで彼女を抱いていた腕の中には胴体一つ分空間が開き、弱い風が吹きぬけていった。

「せめて魂だけは、太陽のご加護に与らんことを」

 神官が呟いた。本当にそう思っているのかと思うくらい淡々とした口調だった。骨ばった手が伸び、青いローブを摘み上げる。手で叩くと細かい灰が巻き上がり、宙を漂った。神官はローブを畳むと、左手の物を足元に投げつけた。私の杖は転がり、黒いシミで汚れた膝にぶつかって止まった。

「敵襲の合図だ。行け」

 そんなもの、どうでも良かった。彼女が消滅した。それが最も重要なことだった。

「泣いている時間はない。杖を拾い、行け」

 どうして戦わなければならない。このまま私も消えてしまいたい。

 胸の内の声は誰の耳にも届くはずはなく、神官は私を立たせた。そして力の入らない手に杖を握らせると、背中を強く押して戦いの渦の中に送り出した。幸い、戦うことには慣れていたため魔物が襲いかかってきても魔法で回避することは出来た。その日はどういうわけか送られてくる魔物も多く、文字通り泣いている暇なんて無かった。

――ちゃんと、生きるんだよ。

 尤も、この言葉が無ければ魔物の攻撃に身を任せていただろうが。


  ◆


 杖を振り、青い火を放った。三つに分かれた火は少女の手と頬と足に燃え移り、灰色のチリを巻き上げながら面積を大きくしていった。

 この少女が屈託なく笑っていたのを知っている。神官となってから二百年、傍観していた記憶の片隅を探ればまだその表情を思い出すことは出来た。少女が笑おうが、なんとも思わない。彼女が死んでから、見える世界はまた灰色になっていた。

 鼻をつく臭いが強くなる中、私は胸の前で手を組んだ。目を閉じ、心の中で呟く。

 せめて魂だけは、太陽のご加護に与らんことを。

 微かに聞こえる燃える音が弱々しくなり、臭いが薄れていくのを確認すると目を開けた。少女のいたところには命の痕跡は消え、潰れたローブの中、新しい灰が薄く積もっているだけだった。

 弔いの儀。死に捕らわれた者のみを焼く火で魂の籠をチリに還す。地上の束縛から解放された魂は太陽の元へ辿りつき、生きている間の苦難から解き放たれる。魔物と称された命にもそれは適用されることだった。だからこそ、魂が路頭に迷うことのないよう神官は祈らなければならない。死によって、ようやく我々は魔物ではなくなる。

 ローブを回収しようとフードを摘み上げる。灰と一緒に少し重みのある何か弱い衝撃を残して落ちる。チリの上に転がり出たのは緑色の石のペンダントだった。あの少女の所有物らしい。普通ならローブを除けば全てがチリになるところだが、どういうわけかこれだけは青い火にも燃えずに残ったらしい。拾い上げると、ほのかに温かかった。きちんと磨かれた丸い面に薄っすら私が映っているのが見えた。

 遠くを見ると、ちょうど魔物が倒れたところだった。杖を両手に持ちながら先程の少年は肩で息をしていた。人は誰も死ななかったか。

 敵襲の合図はない。暫しの間、休戦となる。

 彼は杖を握り締め俯いていた。灰色の土埃を上げながら私は彼に歩み寄り、肩を叩いた。顔を上げたところで黙ってペンダントを差し出す。彼は驚いたように目を丸くし、少し褐色の手でペンダントを受け取った。ペンダントと私とを見比べ、それから急に情けなく顔をしかめる。

「あ……ああ……」

 まもなく若い瞳の中に不安定に揺れる光が現れる。それが零れ落ちる前に私は温かい手ごとペンダントを握った。抵抗することなく握られた大きな手に、ペンダントは簡単に収まった。ペンダントを震える胸の前へ押しやると、私はすぐに足元の魔物の体に弔いの火をした。

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