悪声のカナリヤとセイレーンの合唱
佐倉島こみかん
ダミ声の不良
麗らかな春の日が差す旧校舎1階は、人気がないのでどれだけ大きな声で歌ってもいい。古いアップライトピアノの置かれた小さな合唱部部室が、私はとても好きだ。
「のぉぼりぃ、くだぁ~りぃ~の~、ふ~ぅなびぃとぉが~、かぁ~いっ、げほっ、ごほっ」
また、咳き込んでしまった。いつも出ない高いレの音。
来週にある新歓で歌う予定の『花』で人数調整上、ソプラノパートになってしまったけど、どうにも出そうにない。
地声が低くて普段はアルトが多いのだけれど、今回はソプラノになってしまったのでこうして自主練しているのだ。
「かぁ~いっ、けほ、かぁ~いのぉ~っ、げほ」
そのまま出ない部分をなんとか出そうと繰り返してみるけど、どうにも喉がキツくて咳き込むばかり。
ここ数日、昼休みにこうして自主練をしているのだけれど、一向に上達の気配がない。
「ヤバいなあ……」
ただでさえ人数が少なくてこのままでは来年廃部になりかねないので、少しでも評判を良くして部員を増やさないといけないというのに、これじゃあ部員を増やすどころか、私が部を追い出されるかもしれない。
「こンのド下手クソォ! テメェの音痴な歌のせいで眠れねぇじゃねえか!」
突然ガタン! と立て付けの悪い教室のドアが開いて、大音量の野太いダミ声で怒鳴られた。
「ひぃっ!?」
慌てて振り向けば、制服をだらしなく着崩したツーブロックで吊り目の見知らぬ男子生徒がいた。
「典ッ型的な喉を痛める歌い方じゃねぇか! そりゃあ咳き込むことになるだろ、まるでなってねぇ!」
早口にまくしたてる男子は、吊り目をさらに吊り上げてつかつかと足早に歩み寄って来る。
「喉に力入れ過ぎ、顎上げ過ぎ、そのくせ背中は丸まってる! そんなんじゃ出る声も出ねえ! 顎引いて、背筋伸ばして、
165cmある私より更に15cmは背が高いかと思われるその人は、妙に具体的な指示で怒鳴ってくる。
「えっ、あっ、あの、急に何なんですか?」
何がなんだか分からないまま聞けば、その人はアップライトピアノの蓋を開けて、ギロリと私を睨んだ。
「いいから、言われた通りにやれ! 出してみろ、二点ニ音! 『かーいのー』のところだ!」
高いレの鍵盤を該当歌詞のリズムで鳴らして男子は一喝した。
よく分からないまま見知らぬ怖そうな人に怒鳴られて、私は訳も分からずとりあえず言われた通りに背筋を伸ばして、顎を引いてみるけど、一つ問題が発生する。
「あの……ナンコウガイってなんですか?」
「はあ!? 合唱部の癖にそんなことも知らねぇのかよ!? 上顎の奥の柔らけぇとこだよ、そこ開いて裏声出せ!」
おずおずと聞けば、その男子はブチキレながらも教えてくれた。
「か、かぁ~いのぉ~、あっ出た!」
あんなに苦労していたのが嘘のようにすんなり出て、感動のあまり感想を口にしてしまった。
「『出た!』じゃねえわ、そもそも微妙に音がずれてんだよ耳ついてんのかテメェ、よく聞け! テメェの音は1/8音低いんだよ!」
もう一度、高いレの音を該当リズムで鳴らして男子が言った。
「かっ、かぁーいのぉー……?」
1/8音とか言われてもよく分からないけど、言われてみればずれている気もしたので、ピアノの音をよく聞いてそれに合わせて声を出した。
「おう、それでいい。二度と下手クソな歌、歌うんじゃねぇぞ」
私の歌に偉そうに頷いてから酷い罵倒を残して、その怖い男子はさっさと部屋を出て行った。
「な、何だったの……?」
あっという間のことに、私は訳の分からないまま呟くのだった。
「――ということがあったんだよ。あの人、一体、何だったんだろうね?」
あまりに謎の出来事だったので誰かに共有したくて、放課後、部室に向かいながら同じ部活の
志穂ちゃんは私の一番の仲良しで、私の肩くらいまでの身長しかないけど、気質が似ているので周りからは二人まとめて『のほほん凸凹コンビ』と言われている。
内気でどちらかというと気の弱い志穂ちゃんは、話を聞いただけで真っ青になった。
「そ、それ、たぶん5組の
震える声で心配そうに言われて、びっくりした。
「えっ、そうなの? 世の中には面倒見がいい不良がいるんだねぇ」
物言いは乱暴だったけど、色々と的確に教えてくれて良い人だったなあと思いながら言えば、志穂ちゃんは目を丸くした。
「今の出来事を『面倒見がいい』って言えちゃう
「えへへ、ありがとう」
何やら感嘆され、照れ笑いしながら答えれば、後ろから背中をはたかれた。
「『ありがとう』じゃないわよ、
振り向けば、艶のあるポニーテールを揺らし、両手を腰に当てて仁王立ちで怒っている部長の
「あっ、響佳先輩こんにちは」
「ええ、こんにちは。羽田さん、礼儀正しいのはいいけど、今、叱られてる最中だって分かってる?」
私が挨拶すれば、先輩も怒っている最中だと言うのに律儀に返してくれて、良い人だなあと思う。
「分かってますが、やっぱり挨拶は大事かなあと思って……あの、危機感がなくてすみません」
前下がりのボブの襟足の辺りを掻きながら苦笑いして謝れば、響佳先輩は盛大に溜息を吐いた。
「まあ、あなたのその大らかなところは美点でもあるのだけれど……でも困ったわね、そんな不良に無断侵入されたなんて。話を聞く限り、部室の近くによく居座ってるってことでしょう? 他の子も絡まれたら大変だわ」
しっかり者の響佳先輩は頬に手を当てて嘆く。
うちの部は女子コーラスというわけではないのだけれど、現状、女子しか部員がいない。
わりと真面目で大人しい性格の子が多いので、部長であるところの響佳先輩は心配しているのだろう。
「でも、すごく歌に詳しそうでしたよ。
昨年度まで顧問だったベテランの鈴木先生が定年退職し、今は副顧問だった松村先生が繰り上がりで顧問になっているのだけれど、合唱経験も指導経験もやる気も全くない名ばかりの顧問なのだった。
いい考えだと思って言えば、響佳先輩も志穂ちゃんも驚いた顔をする。
「そんな怖い人が入ってきたら、大半の子が辞めちゃうんじゃないかな……?」
「確かに指導者は欲しいところだけど、素性の分からない不良を入部させるのは色々と問題があるわ」
恐る恐る言う志穂ちゃんと、ぴしゃりと答える響佳先輩の意見を聞いてそれもそうかと思う。
「ああ、なるほど。いい考えだと思ったんですけどねえ」
「羽田さんは発想が柔軟というか、たまに突飛よね」
響佳先輩は苦笑して言った。
「えへへ、すみません」
「まあ、そういうところが面白いとも思うわよ。あらいけない、おしゃべりはこれくらいにして、そろそろ部室に向かいましょう」
響佳先輩はハッとして、私達を促す。
「はい!」
志穂ちゃんと一緒に返事をして、部室へ向かった。
部室について一通り基礎練を終えてから、昼休みに練習していた『春』の合唱に入る。
「はい、じゃあ出だしから行きます。1、2、3、ハイ」
伴奏しながら言う響佳先輩の指示に私達は口を開いた。
「春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が――」
例の出なかった部分が近づいてきたので、昼休みに指摘されたことを思い出して、背筋を一層伸ばして顎を引き、軟口蓋を開く。
「櫂のしずくも 花と散る――」
すんなり音が出た感動を堪えて続きも歌った。
高音が綺麗に出るのがこんなに気持いいなんて!
「ハイ、そこまで。羽田さん、高音が出るようになったわね」
一番まで歌い終わったところで、響佳先輩が伴奏を止めて嬉しそうに言った。
「あっ、はい! 昼休みの不良のアドバイスのおかげです!」
私も嬉しくなって答えれば、周りがざわつく。
「昼休みの不良?」
「不良のアドバイスって?」
謎のワードが出て来て混乱するメンバーに、響佳先輩は苦笑して事情を説明した。
「――はい、というわけで、恐らく不良と思われる男子に絡まれる可能性があるかもしれません。皆さん十分気を付けるように」
響佳先輩の話を聞いて、皆がざわつく中、私の隣にいた高橋さんが信じられないような顔をしていた。
「え、有中くんが喋ってたんですか!?」
「高橋さん、何か知ってるの?」
驚いたように聞く高橋さんに、響佳先輩は尋ねた。
「いや、私、有中くんとクラスが同じなんですけど、あの人が授業で当てられた時以外で喋ったところ、誰も見たことないですよ。休み時間も寝てるか教室にいないかのどちらかで、クラスでも友達作る気なさそうですし、音楽じゃなくて美術選択ですし」
高橋さんの答えに今度は私が驚く番だ。
「えっ、そうなの? すごく歌に詳しかったし、饒舌だったよ」
「ええ? それ本当に有中くんかな、別人じゃない? 全然イメージわかないけど。普段は気だるい不良って感じだよ」
高橋さんに言われて、謎は深まるばかりだ。
「ええと、とりあえず、有中くんにしろそうでないにしろ、何かあると大変なので、なるべく部室に来る時は二人以上で来るようにね。それでは練習に戻ります。では2番から」
「はい!」
響佳先輩が仕切りなおすので、私達も返事して歌に集中するのだった。
その日の練習を終え帰宅するときになって、何やら響佳先輩が思案しているのに気が付いた。
「響佳先輩、考え事ですか?」
帰り支度をしながら聞けば、響佳先輩はハッとして顔を上げる。
「いえ、ちょっと『有中奏太』って名前に聞き覚えがある気がして……」
「うちの高校で浮いてるから、どっかで聞いたのかもしれませんよ。ほら、
高橋さんが横から言ってきた。
「いえ、もっと昔に聞いたことがあるような気がするんだけど、思い出せなくて」
頬に手を当てて首を捻っている響佳先輩につられて私も首を傾げる。
「中学時代、他校にも名前が知れ渡るワルだったんですかねえ」
いまいちイメージが浮かばずに言えば、響佳先輩は吹きだした。
「どうかしら、不良の噂を聞いたことってない気がするけど……まあ、気のせいかもしれないしね。何か思い出したらまた伝えるわ」
響佳先輩は気を取り直したように言って、鞄を手に取った。
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