ミューズの裏切り

 その翌日のことだった。

 昼休みにいつも通り部室に行こうと旧校舎に向かいかけたところで、旧校舎裏から何やら声がすることに気付いた。

 気になって覗いてみれば、有中くんと響佳先輩が対峙している。

 まさか昨日のことで何か揉めているのではないかと慌てて仲裁に入ろうとしたところで、聞こえてきた響佳先輩の言葉に足を止めた。

「有中くん、あなたって、あの『天上の歌声』と言われた天才少年『田中カナリア』くん……よね?」

 響佳先輩の慎重な言葉に出てきた名前に驚く。

 確か、小学校の頃に流行った映画で爆発的にヒットした主題歌を歌った天才少年が『田中カナリア』くんだった。

 可愛らしい容姿と天使のようなボーイソプラノ、小学生とは思えない歌唱力なのに子供にしか出せないピュアな歌声で、アニメやドラマの主題歌、CMソングへ引っ張りダコだったはずだ。

 いつからか名前を聞かなくなってしまったけど、まさかこんな身近にそんな有名人がいたなんて。

「テメエどこでそれを……!」

 響佳先輩の言葉に焦ったように聞き返す有中くんの言葉に、それが事実なのだと知る。

「ああ、やっぱり! 何かひっかかる響きだと思って、名前を逆から読んだ時に気付いたの。あの名前って芸名だったのね」

 困惑する有中くんと対照的に、先輩はパッと顔を明るくした。

 先輩の言葉に私も名前を思い浮かべた『有中奏太ありなかかなた』と『田中たなかカナリアかなりあ』――確かに、言われてみれば逆から読んだだけのアナグラムだ。

「私、あなたの歌声を聞いて、歌を始めたの! 小学校の頃、カナリアくんの歌に、なんて綺麗な歌声なんだろうって、すごく感動して……!」

 先輩は歓喜に言葉を詰まらせながら有中くんに言った。

「あなたのおかげで歌の楽しさに気付けたし、歌を通じて合唱部に入って、仲間も出来た。それで、有中くんに感謝を伝えたかったの。あの、素敵な歌を、本当に、ありがとう」

 キラキラした先輩の眼差しと対照的に、有中くんの表情は険しくなる一方だ。

 こんな感動的な話なのにどうしたというのだろう。

 でも、興奮した様子の響佳先輩は有中くんの表情の変化に気づいた様子はない。

 何かがまずそうな気配に冷や汗が出る。

「それで、たまたまこの間、うちの部員に歌を教えてくれるのを見て、是非、うちの部に協力してもらえないかと思って――」


「俺の過去を知って、よくそんなことが言えたもんだな」


 響佳先輩の言葉を遮って、有中くんは低く冷たい声で言った。

「えっ?」

 その態度に戸惑う響佳先輩を、有中くんは睨みつける。

「声変わりで『天上の歌声』と呼ばれた声を失って、代わりに得たのはこのダミ声だ! 理想の音程も、声の出し方も分かる、それなのにもうこの声じゃどうやったってあの音域は出せやしねえ! ある日突然、理想の声を失って歌えなくなった気持ちが、音楽の神様に裏切られ、見捨てられた絶望が、お前に分かるか!?」

 有中くんは憎しみすら感じる憤りを乗せて叫んだ。

 それを聞いて、有中くんがクラスでも極端に喋らないのは、自分の声に対する絶望からだったのかと理解する。

「この声のせいで歌を失った俺は、世間から急速に忘れられた! それまでチヤホヤしてきた連中が掌を返したように冷たくなって、親にも見放されて、ファンからも哀れまれた!」

 有中くんの痛切な叫びは聞く方の身を切り刻むようだ。

「この声のせいで、時の寵児は一気に凡百以下に成り下がった! 自分の全てだった歌声を失くして、歌と共に得たと思っていた味方も失くして、こうしてやさぐれてる人間に対して『あなたの歌声で歌の楽しさを知って仲間もできました』って? よくそんな無神経なこと言えたもんだな、反吐が出る!」

 響佳先輩に突き付けた言葉の最後の方は、怨嗟に近かった。

「ご、ごめんなさい、私、そんなつもりじゃ……」

 響佳先輩は、目に涙を溜め、震える声で言った。

「ハッ、被害者面してんじゃねえよ。悪気がなけりゃ許されると思ったら大間違いだぞ」

 嘲笑って言う有中くんを見て、先輩の目から涙がこぼれ落ちた。

「ごめ、ごめん、なさい……本当に、なんて、謝ったらいいか……っ」

「泣きてぇのはこっちの方だ! 俺は、テメェみてぇな想像力の足りねえ頭お花畑の自己満足な偽善者が一番嫌いなんだよ! 絶対に協力なんかしねえからな!」

 有中くんは泣き崩れる響佳先輩にそう吐き捨てて、こっちの方に歩いてきてしまった。

 慌てて壁に張り付いてみるけど、時既に遅し。

「羽田、今の、聞いてたのか」

 隠れられるわけもなく、有中くんに見つかってしまった。

「ご、ごめん、たまたま通りかかったら聞こえちゃって」

 私が正直に謝れば、有中くんは舌打ちしてそのままスタスタと歩き出した。

「あ、ちょっと待ってよ、有中くん!」

「何だ羽田、聞かれたからには、もうテメェにも教えねえぞ。部長に協力しねえって言ったからな」

 苛立った様子で冷たく言われても、納得できない。

「そ、そんなこと言わないでよ。先輩の言葉は確かに有中くんにとって無神経に感じられたかもしれないけどさ、声変わりしても、名前が違っても気づくくらい、有中くんの歌は何年も先輩の心の中にあり続けて、心を支えた歌声だったってことでしょう」

「うるせえ」

 こちらを振り向きもせず、有中くんは切り捨てる。

「それってつまり、有中くんのことを忘れてない人もいたってことじゃん」

 それでも私は言葉を止めなかった。

「うるせえ……っ」

「それに、その声だって魅力の一つじゃん。その音感と表現力があれば、声変わり前とは違うかもしれないけど、今の声でも素敵な歌がきっと歌えるよ」

 私が言えば、有中くんは足を止めて私を振り返った

「うっせえって言ってんだろ!! 俺は綺麗で可愛い『金糸雀カナリア』だったからウケたんだ! うたを忘れた金糸雀は、背戸の小藪にてられるし、後ろの山にけられるし、柳の鞭でたれるんだよ! 存在価値なんてねえんだ!」

 童謡の『金糸雀』の一節を引き合いに出して、有中くんは言った。

「有中くんは金糸雀じゃなくて人間でしょう! 声変わりくらいで存在価値がなくなるわけないじゃん!」

 やけっぱちな有中くんの言葉が頭に来て言い返せば、有中くんは一瞬だけたじろいだ。

 普段のほほんとしている私が大声を出したのだから無理もない。

 有中くんが自分の力を信じられないことにも、心から応援してくれていた響佳先輩を泣かせたことにも、そうやってやさぐれて逃げ出そうとすることにも、何もかもに腹が立って言い返していた。

「うるせえ、とにかく、協力する義理はねえ!」

 歯噛みして踵を返し、その場を去ろうとする有中くんの腕を掴む。

「待ってよ、じゃあなんであの時、私に歌を教えてくれたの? 有中くんは音楽の神様から見捨てられたって言ったけど、じゃあ有中くん自身はどうなの? まだ歌を見捨ててないんじゃないの? だから口を出さずにいられなかったんでしょう!」

 私が言えば、有中くんは私の手を振り払ってこっちを見た。

「うるせえ! 知ったような口きいてんじゃねえよ!」

「ほら、そうやってムキになるのがいい証拠だよ!」

 私が指摘すれば、有中くんはさらに激昂する。

「教えねえって言ってんのが分かんねえのか!」

「私達には今、指導者が必要なの、有中くん以上の適任者なんていない!」

 叫ぶ有中くんに負けないくらいの大声で、私も言う。

「うるっせえ!! いい加減にしろ!!」

 有中くんは私の胸倉を掴んで叫んだ。

「嫌だ! 絶っ対に引かないから!」

 私は、怯んでたまるものかと有中くんの目を真っ直ぐに見返して叫んだ。

 私の叫びに、有中くんは、ぐっと言葉に詰まる。

 睨み合いが、しばらく続いた。

 絶対に引きたくなかった。有中くんは確かにスパルタだけど、指導は的確だ。

 それに、さっきの話を聞いて本気で歌を好きなのは伝わって来た。それなのに、なんで全てを諦めないといけないんだろう。

 理想の歌声を分かっているからこそ、その声が出せなくて本気で辛いのも分かるけど――それなら。

「有中くんが歌えないなら、私達合唱部があなたの声になる!」

 睨み合いながら、私は言った。

「分かるんでしょう、理想の歌声が! やさぐれるんじゃなくて、合唱部わたしたちを使って、世間を見返してよ! それだけの指導力が有中くんにはあるじゃん!」

 この1週間、有中くんに教わって分かった。

 有中くんの音感と表現力は天才的だし、何よりその表現力が指導にも活かされていて、本当に分かり易い。

 有中くんにかかれば、この弱小合唱部を全国区に出来るかもしれない。

 音楽の神様に裏切られた少年の率いる合唱部が、優秀な結果を残せば、それだけで世間はまた掌を返すだろう。

「歌えなくたって、飛べばいいじゃん! 導いてよ、天上の歌声に! それに、月夜の海に浮かべば、金糸雀は忘れた唄を思い出すんだよ。私達を象牙の舟と金の櫂だと思って利用してよ」

 さっき有中くんが引用した『金糸雀』の本来の歌詞だと、金糸雀は棄てられないし、埋けられないし、打たれない。

 象牙の舟に金の櫂で月夜の海に浮かべられ、唄を思い出すのだ。

 その歌を無意識に引用したのだとしても。今はまだ自分の声を受け入れられなくても。

 私達の歌を指導するうちに、今の声を認めてまた歌えるようにもなるかもしれない。

「うる、せえ……お前に、何が」

 歯切れ悪く言う有中くんから『分かるのか』と問われる前に口を開く。

「何も分からないよ! 分かるわけないじゃん、私は音楽の神様に愛されたことのないド下手クソなんだから! それでもこうして恥ずかしげもなく歌ってるよ! まあ別に恥ずかしいと思ったこともないけど!」

 私の開き直りに、有中くんが思わずといったように吹きだした。

「お、っ前、なあ……! この流れで笑わすな……!」

 お腹を抱えて蹲る有中くんが、声を震わせ、笑いをこらえながら気が抜けたように言う。

「えっ、今、笑うとこあった!? 私の歌、恥ずかしげもなくよく歌えるなあと思って聞いてたってこと?」

「いや、まあ、正直そうなんだが……」

 よく分からなくて尋ねれば、まだ肩を震わせている有中くんに肯定されてしまった。

「普通にひどい」

「事実だからしょうがねえだろ」

 批難すれば、いつもの辛辣さでばっさり切り捨てられてしまった。

「あー、なんつうか……お前と話してると、意地張ってんのがアホらしくなってきた」

 ようやく笑いが収まったらしい有中くんが、ゆっくり立ち上がって、せいせいしたような顔で言う。

「分かった。引き受けてやるよ、合唱部テメェらの指導」

 さっきまであんなにいじけていたのに、何かが吹っ切れたのか、尊大な態度で有中くんは言った。

「えっ、本当に!?」

 さっきまであんなに頑なに拒否していたのにあっさり引き受けてくれたので驚いて尋ねる。

「二言はぇ。ただし、生半可な覚悟なら打ち切るからな。他の面子にも覚悟させとけ――天才の声の代わりは並の覚悟じゃ務まらねえぞ」

 ニヤリと笑われて、なんて頼もしい言葉だろうと思う。

「分かった! あと、引き受けてくれるなら、響佳先輩にも謝ってね」

 私が笑って答えれば、有中くんは、気まずそうな顔をした。

「いや、それは……」

「部長と指導者で仲が悪かったらまとまるものもまとまらないじゃん。響佳先輩は謝ってくれたんだし、悪気もなかった上に事情も知らなかったんだから、有中くんのアレは言いすぎだったと思うよ」

 私が諭せば、有中くんは頭を掻いてからうつむいた。

「分かった、俺も確かに言いすぎたと思う。ただ、なんだ、その……泣かせた女子に謝ったことねえんだよ。どうすりゃいいか分からねえんだ……」

 ほとほと参った様子で言われて驚く。

「ええっ! 普通に『ごめんなさい』すればいいんだよ! 分かった、間に入るね。響佳先輩、たぶんまださっきの場所にいると思うから、様子見てくる。ちょっと待ってて」

「すまん、頼む」

 情けなさそうな声で、有中くんは頭を下げた。

「オッケー、任せて~!」

 有中くんに答えながら、小走りで校舎裏へ向かった。

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